Puppha-vaggo 花の章
ダンマパダ4章のテーマは、Puppha「花」です。この章ではブッダ の教えを学ぶための心構えを、花にたとえて語っています。
DhP.044
ko imaṁ paṭhaviṁ vicessati, 誰か 地球を よく・知る yamalokañ ca imaṁ sadevakaṁ; 死の世界 と この 神々と共に ko dhammapadaṁ sudesitaṁ, 誰か ダンマの道 よく説かれた kusalo puppham ivappacessati. 巧みな人は 花 よく・選ぶ
地球や死の世界、神々について
知りたがっているのは誰だ?
花屋が花を選びとるように
よく説かれたダンマの道を
選びとるのは誰だろう?
エピソード
ある日、修行者たちがブッダと訪れた村について、平地なのか丘陵なのか、土は粘土質なのか砂質なのかなど、土地の状態を気にしていました。
そこにやって来たブッダは彼らの話を聞いて「土は身体の外のものだ。それより自分の身体を調べて、理解の準備をした方がいい」と言いました。そして、自分の身体を理解することで、世界全体を理解することができると、44と45の言葉を付け加えました。
解説
この世のこと(地球・現世の世界)や、あの世のこと(死の世界)、神々についてなど、自分の身体の外側の世界を調べるより、自分の身体の内側(心)をよく調べなさい。というブッダの言葉です。
インドでは、生花でできた花輪飾りを寺院や神様に供える習慣があります。ベテランの花屋が良い花を選んで花輪飾りを作るように、私たちも選びとってダンマの輪を実現することができる、ということです。
DhP.045
sekho paṭhaviṁ vicessati, 修行者は 地球を よく・知る yamalokañ ca imaṁ sadevakaṁ; 死の世界 と この 神々と共に sekho dhammapadaṁ sudesitaṁ, 修行者は ダンマの道 よく説かれた kusalo puppham ivappacessati. 巧みな人は 花 よく・選ぶ
地球や死の世界、神々について
修行者はよく知ることができる。
修行者は
花屋が花を選びとるように
よく説かれたダンマの道を選びとる。
解説
44の詩句の「誰?」が「修行者」に替わっただけで、他は同じ文言です。
身体の内側(心)をよく調べれば、身体の外側にある地球のことも死の世界のことも神々についてもわかる、ということです。
ダンマを理解し実践することで、私たちはすべての存在領域(bhāva-loka)を含む全世界(死後も含めて)を完全に理解することができます。なぜなら、全世界とその全ての状況は、この世における私たちの立場と相互関係で成り立っているのがダンマ(真理)だからです。
ここでの修行者(sekho)とは、ダンマを実践して道に入ったが、まだアラハンになっていない人のことです。
DhP.046
pheṇūpamaṁ kāyam imaṁ viditvā, 泡・のようなもの 身体は この 知って marīcidhammaṁ abhisambudhāno, 蜃気楼の・性質 よく悟った人は chetvāna mārassa papupphakāni, 断ち切り マーラの 花を前につけた矢 adassanaṁ maccurājassa gacche. ない・見つかる 死神に 行くだろう
この肉体が泡のようなもの
であることを理解して
実体がないことをよく悟った人は
マーラの花矢を断ち切り
死神に見つからずに行くだろう。
マーラ:「ゴータマ・ブッダが悟りを開く際に、瞑想を妨げるために現れたとされる魔物」のことですが、「悪魔」のような存在ではありません。外部からやってくる力ではなく、私たちの心の中にある邪悪な部分、煩悩の象徴です。無我の境地に至ると自己が死滅することになるので、それを妨害しようと現れる心の動きです。
解説
泡は実体がなく、すぐに消えてしまう(無常)。蜃気楼は水の幻影に過ぎず、自分の身体も幻影である(無我)。自分の身体の無我無常を理解しなさい、ということです。自分=心が言葉と映像でつくりだした現象(ダンマパダ1章)だからです。
マーラ(心の汚れ)の矢の先端には、惑わすための花が付いています。心の汚れを断ち切り、死の王(輪廻転生)のサイクルから抜ける、つまり二度と死ぬことはないということです。
DhP.047
pupphāni heva pacinantaṁ, 花を だけに 摘み取り byāsattamanasaṁ naraṁ; 固執する・心 人 suttaṁ gāmaṁ mahogho va, 眠る 村を 洪水 のように maccu ādāya gacchati. 死 取って 行く
ただ花を集めるだけの人は
心に執着がある。
洪水が眠っている村を
押し流すように
死はさらっていくだろう。
エピソード
コーサラのパセナディ王は、釈迦族(ブッダの親族)に、娘の一人を妻にほしいと頼みました。しかし彼らはマハーナーマ王と奴隷の下女との間にできた娘を送りました。パセナディはそうとは知らずに彼女と結婚しました。
息子が生まれましたが、後に自分の母親が奴隷の娘であることを知り、非常に腹を立てました。王になった息子は、釈迦族に宣戦布告し、一族のほとんどを殺してしまいます。その帰り道、彼と彼の軍隊は川のほとりに陣取りました。その夜、大雨が降り、川は増水して王とその軍隊は海へと流され、溺れ死んでしまいました。その様子を聞いたブッダは、この言葉を口にしました。
解説
「花」とは、ここでは感覚的な快楽を意味しています。ただ「花を集める」だけの人、つまり感覚的な快楽を追い求める人は、コーサラ王の軍隊のように、死に流されてしまいます。
DhP.048
pupphāni heva pacinantaṁ, 花を だけに 摘み取り byāsattamanasaṁ naraṁ; 固執する・心 人 atittaṁ yeva kāmesu, 満足しない 人・決して 快楽に antako kurute vasaṁ. 死は 行う 権力
ただ花を集めるだけの人は
心に執着がある。
人は決して快楽に満足しない。
死に支配される。
解説
感覚的な快楽、つまり「目で見る、耳で聞く、鼻で嗅ぐ、舌で味わう、体に触れる」楽しみは、決して私たちに満足感を与えてくれません。なぜなら人は、たとえ満足しても、すぐにそれに不満を感じて、もっと満足したいと思うからです。永遠に追いかけっこなのです。人間は「足るを知らない」のが当たり前なのです。
DhP.049
yathā pi bhamaro pupphaṁ, ように また 蜂 花 vaṇṇagandhaṁ aheṭhayaṁ: 色・香り ない・害する paḷeti rasam ādāya, 去る 汁 取って evaṁ gāme munī care. そのように 村を 出家者は 歩く
ミツバチが
花の色や香りを損なわずに
蜜だけ吸って去るように
出家者が村を訪れる時には
そのようにしなさい。
解説
ここでは、托鉢の実践について書かれています。出家者は、村人の家から家へと移動し、施しの食べ物を得ます。この時に、蜂が花の蜜を吸っても花に害を与えないように、食物を得るべきであり、貧しい家から取ったり、村人に害を与えてはならない、という教えです。
DhP.050
na paresaṁ vilomāni, ない 他人の 欠点 na paresaṁ katākataṁ, ない 他人の したこと・しなかったこと attano va avekkheyya 自分の だけ 見る katāni akatāni ca. したこと しなかったこと そして
他人の欠点や
他人がしたことしなかったことを
気にしないこと。
自分がしたこと
しなかったことだけを
気にすればいい。
解説
名言ですが、この言葉は花にちなんでいませんでした。
DhP.051
yathā pi ruciraṁ pupphaṁ, ように けれども 美しい 花 vaṇṇavantaṁ agandhakaṁ; よい色艶 ない・香り evaṁ subhāsitā vācā, このように よく・説かれた 言葉 aphalā hoti akubbato. ない・実 存在 ない・行う
艶やかだけど香りのしない
美しい花のように
よく説かれた言葉でも
それを実行しなければ実りはない。
解説
よくしゃべる人、よく人を諭す人。説明ばかりで、自分の言葉通りに行動しない人は、無駄なことを言っている。その言葉は、匂いのしない美しい花のようなものです。
DhP.52
yathā pi ruciraṁ pupphaṁ, ように けれども 美しい 花 vaṇṇavantaṁ sagandhakaṁ; よい色艶 香り高い evaṁ subhāsitā vācā, このように よく・説かれた 言葉 saphalā hoti pakubbato. 実りある 存在 実行する
艶やかで香り高い
美しい花のように
よく説かれた言葉に従って
実行する人には実りがある。
解説
話すだけでなく行動してはじめて、その言葉は、良い香りのする素敵な花のように、よく言ったと言えるのです。
DhP.053
yathā pi puppharāsimhā, ように けれども 花・山盛り kayirā mālāguṇe bahū; 作る 花輪 多くの evaṁ jātena maccena, このように 生まれた 人間として kattabbaṁ kusalaṁ bahuṁ. 義務を 善行を 多くの
山盛りの花から
多くのリースを作るように。
人間に生まれたからには
功徳をたくさん積みなさい。
解説
ここでは花を、善行に例えています。
DhP.054
na pupphagandho paṭivātameti, ない 花・香り 風に逆らう na candanaṁ tagaramallikā vā; ない 白檀 サンユウカ・マツリカ あるいは satañ ca gandho paṭivātam eti, 徳のある と 香り 風に逆らって 行く sabbā disā sappuriso pavāyati. 一切 方角 善人は 吹き放つ
白檀、サンユウカ、ジャスミン
花の香りが
風に逆らうことはないが
徳のある人の香り(評判)は
風にも逆らい
あらゆる方向に広がっていく。
エピソード
アーナンダが瞑想中に、香りについて考えていました。香水にしても、花にしても、すべての香りは、風と一緒にしか動かない。風に逆らうことのできる香りはあるのだろうか?
そのことをブッダに尋ねると、ブッダは「ある」と答えました。「三宝に帰依し、戒律を守り、寛大な心を持つ人は、称賛に値する。そのような人の香り、つまり評判は、風に乗って、あるいは風に逆らって、遠くまで広がっていく」
解説
tagara:サンユウカは、インド原産のキョウチクトウ科サンユウカ属の常緑中木で、クチナシのような白い花が咲き、芳香があります。
DhP.055
candanaṁ tagaraṁ vā pi, 白檀 サンユウカ あるいは また uppalaṁ atha vassikī; 蓮 または ジャスミン etesaṁ gandhajātānaṁ, この中で 香り・生じる sīlagandho anuttaro. 高い・香り ない・比類
白檀、サンユウカ
ハス、ジャスミン
これらの香りのうち
徳(ハス)が最も香り高い。
解説
徳の「香り(評判)」は何者にも優る最高の香りです。徳の香りは、長時間、全方向から感じることができます。自然の香りはすべて、短い時間と短い距離でしか嗅ぐことができないので、かないません。
DhP.056
appamatto ayaṁ gandho, 少し この 香りは yāyaṁ tagaracandanī; の サンユウカ・白檀 yo ca sīlavataṁ gandho, 人は と 徳・善行 香は vāti devesu uttamo. 吹く 神々に 高貴は
サンユウカや
白檀の香りはわずかだが
徳の高い人の
高貴な香り(評判)は
神々にも届く。
解説
徳の高い人の評判は、神々の間でも知られているということです。
DhP.057
tesaṁ sampannasīlānaṁ, 彼は 成就した・戒律 appamādavihārinaṁ; 懸命に・生きる sammad aññāvimuttānaṁ, 完全に 理解した・解脱者を māro maggaṁ na vindati. マーラは 道を ない 見出す
徳が高くて懸命に生きる
正しく完全に理解して
解脱した人の道を
マーラは見つけられない。
エピソード
ある時、長老ゴディカが、瞑想の修行を熱心に行っていましたが、一点集中の心(ジャーナ)を得たところで重病を患ってしまいました。病気にもかかわらず、彼は懸命に努力を続けました。しかし、少し前進するたびに病気が再発して断念するを繰り返し、このような状態が6回続きました。
最後に彼は、たとえ死ぬことになっても、すべての障害を克服してアラハンになると決心しました。そして、最後には喉を切って命を絶つことを決意し、死の間際にアラハンになり、絶命しました。
ゴディカが死んだことを知ったマーラは、ゴディカの生まれ変わり先を探そうとしましたが、見つけられません。マーラは青年の姿になってブッダに近づき、ゴディカの居場所を尋ねました。ブッダは「ゴディカの行先を知っても、あなたには何の役にも立たないでしょう。あなたのような人、マーラ、あなたの力をもってしても、アラハンの死後の行先を知ることはできないでしょう」と告げました。
解説
解脱したアラハンは、もはや生まれ変わることはないので、マーラがどんなに探しても、そのようなアラハンが死後どこに行くのかを見つけることはできません。
なお、マーラは煩悩の化身なので、ゴディカの煩悩は自死の直前に滅せられたはずですが、ここではゴディカの死後(消滅後)に単体でブッダの前に現れます。なんでいるの? という疑問が湧きましたが、その辺りの矛盾は、古代インドのカオス文化にありがちなことです。ブッダが「何の役にも立たない」とマーラに言っているので、もう出番はない、という比喩的なものと解釈しています。
この言葉もDhP.050 同様に、花にちなんでいません。
DhP.058
yathā saṅkāradhānasmiṁ, のように ゴミ溜め ujjhitasmiṁ mahāpathe; 捨てられた 大きな・道に padumaṁ tattha jāyetha, 蓮は そこで 生まれる sucigandhaṁ manoramaṁ. 清浄な・香りが 心を・喜ばせる
まるで道路沿いに
捨てられたゴミの山に
ハスが咲くように
純粋な香り(徳)が
心を喜びで満たす。
解説
ハスは泥の中から出てきて美しい花を咲かせる植物です。たとえ汚れた場所であっても、徳を育てることはできるということです。
DhP.059
evaṁ saṅkārabhūtesu, このような ごみ・生き物 andhabhūte puthujjane; 盲目の・生き物 凡人 atirocati paññāya, 光輝く 智慧によって sammāsambuddhasāvako. サンマー・サン・ブッダの弟子は
塵のような存在の中で
無知な人々の中で
真に完全に覚醒した人の弟子は
見事に智慧を輝かせている。
解説
ハスが汚れた場所に生えていても、それによって汚されることがないように、真に完全に覚醒した人(サンマー・サン・ブッダ)=ゴータマ・ブッダの弟子はこの世に生きていても、何ら汚されることがないのです。
ダンマパダ4章「花」了