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人はなぜ苦しみ、悩むのか

思考は手放すのではなく有効に使う

パスカルの「考える葦」とブッダのシンクロ

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死んだらどうなるのか

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人はなぜ嫉妬するのか?

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物惜しみ・ケチ

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ヴィーガン・バターを食べてみました。

瞑想と食べ物の関係

夕食を食べない利点

肉食について

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虫を殺さないで捕まえる方法

瞑想

瞑想とレム睡眠

朝晩1時間ずつの瞑想習慣

自然治癒力

四十肩・五十肩を治す

膀胱炎を治す

嫌いな人を消す方法

あなたには「嫌いな人」がいますか? 私にはたっくさん「嫌いな人」がいます ♪

嫌いな人」ってそもそも何でしょう? 

嫌いな人の正体

気に食わない、ムカつく、苦手、とにかく「嫌!」だと感じる人間ですが、「嫌いな人」とは、自分が好まない態度を取る人です。

誰かを嫌だと思う時には、「こうするのが当たり前。こうあるべき」という思いが自分にあり、「その通りにしない。反対のことをする」相手にムカつきます。「なんでできないの? バッカじゃない? 常識がない!」という思いが生まれ、心に不快感が生じます。

この世のすべての他者が、「私のイメージ通りのいい態度」を取り続けることはあり得ませんよね。そんなことはわかっていますが、それでも特定の人物が、自分の好まない態度を取ることが許せないのです。なぜでしょう?

傷つくことを「怖れる」からです。

加害者と被害者

過去の経験の中で、その人または、そのような言動によって傷ついた記憶があると、「あ、まただ。私を傷つけるかも」という怖れから、防衛反応として「嫌!」が生じます。「自分を守ろう」とするのは危険回避の生存本能ですが、「こいつ危険」という判断の根拠は、過去の経験による記憶です。

傷ついた記憶によって、反応していますが、最初にそのような言動を体験した際に「傷ついた」と選択したのは自分です。ところが私たちはそれを「他者によって私は傷つけられた」と勘違いしています(moha 無知)。そして自分は被害者で、嫌いな相手は加害者だと思い込むのです。(avijjā 無明

こうして嫌な人=私を傷つけるかもしれない人避けるべき危険という条件反射saṅkhāra サンカーラ)ができあがります。

私を傷つける本当の犯人

そんな訳で、自分を傷つける犯人は、愚かな言動をする他者だと思っていますが、本当は違います他者の言動を「愚かだ。間違っている。こうすべきだ」と判断した自分の価値観が、自分の心を傷つけたのです。本当の犯人は判断した自分です。

他者のその言動は、あなたにとってNGでも、「別に何とも感じない」人もいるし、「すごくいいね!」と絶賛する人だっています。もし状況が違えば、あなたにとってもOKになりますよ。例えば、自分が何かトラブルを起こして周りから孤立した時、その嫌いな人だけが能天気に今まで通りKYで明るく話しかけてきたら、どう思います? 「ムカッ」としますか? 私ならちょっと救われます。

その言動=そのタイミングでの自分にとってNG言動ある人の単なる言動」でしかないのです。

私の常識は世界の非常識

「当たり前。常識。みんながそう思ってる」という考えは、世界の事実ではありません。私の常識は世界の非常識です。

似た考えはあっても、同一の考え方など、この世にあり得ません。世界は多種多様どころか、全員がみごとに違う考えを持っています。そしてそれぞれの考えに、良いも悪いもないのです。ただ、人の数だけ違った考え方があるだけです。

私にもあなたにも世界にも、常識なんか存在しません。常識だと信じているだけです。子供の頃から刷り込まれてきただけです。信じ込んだままでも別にいいのですが、心が振り回されていることに気づかずに、もし苦しんでいるのなら、気づいた方がいいんじゃない? というのがブッダの教えです。

他者の欠点=私の価値観

さて、どうして嫌いな人が私たちの前に現れるのでしょう?

自分が持っている「モノサシ(価値観=偏見)」に気づくためです。

私たちが嫌いな人の言動に接した時、不快感を感じるのは、心の奥底から「それは私を傷つけるからダメと拒否する価値観」が表層意識に上がってくるからです。他者の言動がきっかけとなって、自分が持っている否定的な方向に偏った価値観が引き出されて、嫌悪感を抱くのです。

「こうあるべき。こうすべきではない」と信じている人は、その制約の中でベストを尽くして頑張って生きています。そこに「すべきではない」反対のことをする人が現れると、「私を傷つける可能性大NG」と無意識に感じて、「すべきでないことをするNGな人」を裁きはじめます。

「違うよ、ダメだよ、なんでそんなことすんだよ」と心の中で、こうあるべき理想像(自分を傷つけない)と葛藤(争い)が始まり、心は苛立ちます。この不快感を「ダメな他者がいるからだ」と勘違いして、その人を「NGな人=加害者」としています。

 しかし、本当の原因はNGとした自分の否定的な認識にあります。「すべきでない」という私の常識=価値観があるからです。この価値観がなければ、その人にイライラもしません。だから「私の当たり前」を放棄すればいいのです。

価値観を捨てる

ブッダが何度も言っていますよね? 「Upadhi(ウパディ)制限価値観を、捨てなさい。放棄しなさい。破壊しなさい」と。ところが人は価値観をなかなか捨てられないのです。どうしてでしょう? 「すべきでないこと」をしたら「自分がダメ人間だと他者から判断される傷つく」と、またまた「怖れている」からです。どっからでも怖れがポンポコ出てくるんですわ。

しかもこれは、意識的によくよく考えてそうしているのではなく、これまでの生き方の中で自然に防衛反応として備わり、当たり前になってしまった無意識の条件反射です。「すべきでない(と思い込んでいる)」ことは、私だけの思い込みです。

この世界は自分が信じたものを見る世界です。潜在意識に溜め込んだ先入観が、無意識のうちに現実を作り続けています。もし、過去の記憶を無視して「NGはない」と選択できれば、自分の世界に加害者嫌いな人はいなくなります。

「いや、そうは言っても犯罪者はダメでしょう」と思うかもしれません。犯罪者を肯定するつもりはありませんが、宇宙的にみればそれもひとつの事例に過ぎません。正当な理由があろうとなかろうと、その理由そのものが価値観です。自分のルールを超えて、社会や国のルールを超えて、宇宙的に広い目で見れば、どんな理由も、ただ「嫌い」という一極に偏っているだけです。

嫌いな人は気づかせてくれる人

でもそれでいいんです。「ただ嫌いなだけ」であることに、気づけばいいんです。

ある人を嫌いだとしたら、その人の「許せないと感じた部分」に気づいてください。NG判断した自分の「正しさ」は何なのか、他者をダメだと判定した価値観に気づくのです。その価値観は、無意識に条件反射で起きてしまう価値観です。比較するな、判断するなと教えられても、判断基準がある限り、瞬間的に無意識に条件反射的に判断が起きてしまいます。

NG判断に気づいたら、相手に怒りをぶつけている場合ではありません。「ムカッ」とする思いを傍によせて、自分の心に向き合います。ムカついたNG言動は自分が良しとする価値観の反対の考え方です。つまり、自分が正しいと思っていた価値観も偏っていたということです。これに気づくことで、バランスをとることができるのです。

モノサシを手放す

「私はこう思うけど、この人は逆なんだ。いろいろあるんだね。ま、いっか、どっちでも」と納得できたら、「モノサシ」を手放すことができます。「モノサシ」を手放せば、測る尺度がなくなるので比較できなくなり、比較できなければ、判断もできません。

「でもやっぱり、あいつは間違ってるかも……」と、モノサシを手放せなくてもOKです。手放せない「モノサシ」を、自分が握りしめていることに気づいていればOKです。それが「ありのままの自分」なんですから……。手放せば、すぐに楽になれるだけのことです。それもまた、どっちでもいいんです。せっかくの人生です。苦しんだり、楽しんだり、味わっている最中ですから、そのままでも全然OKです。

そのことに気づかせるために「嫌いな人」が存在するのです。

嫌いな人が消える瞬間

自分の最大の敵は「自分を守ろう」という思いです。自分の心を乱すのは、自分の抱いた価値観です。怖がって守る必要など、本当はないのです。このことに気づいた時、自分の世界から、敵が消えていきます。ひょっこり戻ってくることも多々ありますが(笑)、それでもまた気づけば、消えていきます。

嫌いな人を消すためには、自分が「傷つかない」という選択をすればいいだけです。自分の世界に加害者を出現させていたのは、自分自身だったことに気づくのです。

二極の世界

私たちが生きている世界は「二極の世界観」です。プラスとマイナスの世界なので、「好き vs 嫌い」「善 vs 悪」「正しい vs 間違い」と、必ず対となる反対が出現します。反対がなければ正体がわからないからです。

二極の世界では誰もが必ず反対の極を体験することになり、心が上がったり下がったり、揺れ動くことで感覚vedanā ヴェーダナー)を体験します。これが人生です。

嫌いという不快感を体験することで、好きという喜びを快感として感じる仕組みです。好きだけでは、好きの「快感」はわかりませんよね? 「不快感」との比較によって「快感」が認識できるのです。英雄には敵が必要なのと同じで、「不快感」は「快感」を感じるために必要不可欠なのです。

不快と快、善と悪、正と誤は、いずれも「裏と表」なだけです。三次元の物質世界は、このように二極のシステムなのです。

意識の分割

五感を通して入る情報は、全て自分にとって安全かどうか判断され、受け入れる、受け入れないの二極に振り分けられます。私たちは快適でいたいと望み、不快を回避しようとします。

「また嫌いな人に会って、不快な思いをするのは嫌だな」と考えて、自分を守るため嫌いな人を避けようとします。

守る」とは、「分離する」ということです。自分を守ろうとする思いは、自分と他者の間に壁を築き分離します。「自分を守る」と決めた瞬間に、自分が「」を生み出しているのです。

私たちは常に「好き・嫌い」とジャッジしていますが、この嫌いな人と、そうでない人に分けるたびに、自分の意識Viññāṇa ヴィンニャーナ)を分割しています。私たちが外にあると思っている世界は、各自の意識を反映した世界なので、嫌いな人と好きな人に分離することは、自分の意識を分割することになるのです。

好きなものと嫌いなもの、良いことと悪いことに区別するたびに、自分の意識が分割されます。なんであれ、二極に分離するたびに意識が分割します。こうして意識はどんどん細分化されていきます。すると、自分の住む世界がどんどん狭くなって、そのうち自分の世界から出られなくなります。生きれば生きるほど、生き辛くなるのはこのためです。

これが、私たちが「当たり前」と思ってやってきた「生命の常識」です。

意識の統合・拡大へ

私たちがした方がいいことは、意識の分割ではなく意識の統合・拡大です。

嫌い・好きと、意識を二極に分けるのはもうやめて、分割された意識を統合することで拡大するのです。自分を大切にしたいならば、人を拒絶するのではなく、受け入れることです。嫌いな人を受け入れるたびに、分割されていた意識が統合されて大きくなります。嫌いなもの、悪いことを受け入れるたびに、意識がどんどん拡がります。

嫌いな人を好きになるのではありません。嫌いとか好きとか分けるのをやめるのです。

それぞれの人生において、いろいろな場面で、自分の心の偏りに気づくたびに拒絶しないで受け入れる。すべて受け入れ尽くした時、心は判断しなくなり中立です。これが「upekkhā(ウペッカー)平等心不動の心だと思います。二極のどちらにも偏らずに、両極の間に在る状態です。

現実を「感情を加えずに見る」「あるがままに見る」ことができている状態です。悟りとは、特別な状態や位置ではなく、こんな偏りのない間に存在する「自分のままの自分」ではないかと思います。

まとめ

私たちが見ている世界は、決して同じ世界ではなく、各自の意識を反映したその人だけのオリジナルな世界です。ひとつとして同じ世界はありません。それが宇宙です。

だから、世界を変えるために外を動かそうとしても変わりません。世界は自分意識の反映ですから、自分の意識を変えることによってのみ、世界が変わります。

自我の正体は「記憶」です。自分の意見や考え方、大切にしている思いや理想も、全てが単なる情報であり、記憶です。生まれてから経験を通して蓄えてきた、あらゆる記憶を手放すことが、「モノサシ」を手放すことであり、分離をやめることであり、自我からの解放=涅槃だと思います。そこには間違いなく心の安穏がありますから。