サティパッターナ・スッタ・コース Day6+Day7

Day6 ヴィパッサナー瞑想
全身を自由に流れるように観察する

「全集中!常中!」でガンガンやった甲斐があり、全身流れるように瞬時に上下感覚を観察できるようになりました。そしてゴムの輪作戦が成功したのか、前回のように背骨を中心にグルグル回ることはありません。ただし、お尻の下からグラッと時々地震のように揺らぎがあります。

そして、右肩甲骨のあたりにペットリと白い塊が張り付いているような感覚が。お菓子で使う白砂糖のアイシングがベットリ乗っかっている感じです。そして腰の下の部分に塊があるのを感じます。こちらはいつものことなので、たぶんここに私の心の魔物はいるはず(笑)。でもって珍しく左膝が痛いのです。

「あっれー、左膝はどうしたんだろう? おかしいなー」

これに関しては、今回は瞑想にのっていて「アディッターナ(決意の時間):動いても目を開けてもいけない1時間」を自主的に2時間に延長していたので、左膝が痛くなったようです。靴下の中にズボンの裾を入れていたのもよくなかったようで、膝の部分がわずかに引っ張られて負荷がかかっていたようです。裾を出したら楽になりました。

背中がポコポコ

グループ瞑想からぶっ通しで2時間坐ったので、ちょっと疲れました。背中を伸ばしに自室に戻り、ベッドに横になると、背中が昨夜のジーンよりももっとハッキリ大きく、ポコポコと揺れているではないですか。おおおーーー。初めての経験なので、じっくり観察します。

ポコポコの大きさは直径1センチくらいでしょうか。背中一面がポコポコ波打つ感じで、ポコポコぶつかり合いながら揺れています。「おおおーーー、これってカラーパ?」 私の身体の組成なのでしょうか? 空気を含んだ水っぽい球体がポコポコと出てくるのを背中全体に感じます。それぞれが震えているような、揺れているような、ぶつかり合っているような感じです。で、どうすればいい? 平静に観察を続けるだけでいいんだっけ?

夜の講話 6日目

3. ダンマーヌパッサナーの解説続き

B. 5つの集合体 カーンダ

人は、物質・感覚・認識・反応・意識の5つの集合体である。これらのただの集まりであることを実感する。そのようなものに執着する必要などないことに気づく。

自動車をバラバラにしたときに、タイヤ、ハンドル、エンジンだけを自動車といえるだろうか? これらの集合体に対してただ自動車という名前が便宜上与えられているだけであることに気づく。

C. 6つの感覚器官と6つのその対象物 12のアーヤタナ

目とその対象物・耳と音・鼻とにおい・舌と味・体と触れるもの・心と感覚を観察し続ける。

これらがそれぞれ接触するときに縛り目(束縛)が生じることを知る。まだ生じていない縛り目がどのように生じるのか、生じた縛り目がどのように消滅するのか、消滅した縛り目が、もうこの先、生じないことを知る。

縛り目を結ぶ習性は、無知からくる。これら6つの感覚機関とその対象物は、単なるダンマにすぎない。別々に部分ごとに分析していくときに、そこに「」という個人などないことに気づく。私たちは無知ゆえに、その過程を見ることができていない。

D. 悟りの7つの要素 ボージャンガ

アーナンダが「私はアラハンにならなければならない」と反発してしまいうまくいかなかったが、手放して寝た瞬間にアラハンに到達できた。ただ観察することだけがやるべきことで、残りは自然の法が与えてくれる。生まれ消えゆくのを観察し、すべてが無常であることを観察する。

7つの要素とは:気づき・ダンマの究明・努力・歓喜・静けさ・集中・平静さ

パッサディ:異様な静けさ、静謐さが現れる。これがニッバーナ(涅槃)と勘違いしないように。これに執着しないように。先はまだまだ先。

スッカティ:一息で全身を流れるように内側も外側も感じる。そのためには、部分ごとに観察して、小さな部分も見逃さないように全てを開く。

この日の講話では、ゴエンカジへの質問と答えも紹介されました。

ゴエンカジへのQ&A

Q:歩く瞑想法などをなぜ教えないのか?

A:ブッダはその相手によって、教え方を変えたが、どんな場合でも最終的には「呼吸と感覚」を観察することになる。ヴィパッサナー瞑想法を修行している者は、荒削りなところから微細な感覚へと進んでいく道をすでにここまで歩いている。歩く瞑想法などを反対はしないが、わざわざ寄り道をする必要はない。時間の浪費はやめなさい。

Q:「私」というものがないのであれば、何が悟りを必要としているのか?

A:無知が悟りを必要としている。縛り目が解放を必要としている。

Q:慈悲の心をどう定義づけるか?

A:心に慈悲があるとき、いま私の心には慈悲がある心だと認めなさい。

Q:自分自身の苦悩に対応する時も慈悲を使うことはできるか?

A:もちろん。あなたの慈悲の最初の対象は自分自身でなくてはならない。自分自身に親切でありなさい。自分自身を愛しなさい。渇望や嫌悪を持って反発するたびに、自分で自分をいじめ、苦悩を与えている。誰か他の人に怒りを抱く時、嫌悪を抱く時、まず自分が傷ついていることを知りなさい。もしその誰かがヴィパッサナー瞑想者であれば、その人は傷つくことなく、自分だけが傷ついていることを知りなさい。

Q:ヴェーダナー(感覚)の理解がヴィパッサナーと他の仏教では違うのか?

A:その通り。ヴェーダナーを精神の感覚と理解するグループがあるが、これはある意味では正しい。心の4つの感覚の1つでもあるのだから。ブッダの言葉、サティパッターナ・スッタを検証すると、「スッカ・ヴェーダナー」は、肉体の心地よい感覚。「ドッカ・ヴェーダナー」は肉体の心地悪い感覚と説明されている。精神的に心地よい感覚の時には、ブッダは「ソーマナッサン」、精神的な心地悪い感覚の時には「ドーマナッサン」という言葉を使っている。よって肉体と精神の両方の感覚を指している。

Day7 ヴィパッサナー瞑想
浸透して突き抜け、内側も調べる

急にやる気なし子になる

今日も同じく「全身を自由に流れるように感じるように」という指示です。新しい指示はありません。しかし、「全集中!常中!」でガンガンやって、やり尽くし、燃え尽きた感が……。

夕方、急にやる気が失せました。何だかわかりませんが、とにかくやりたくなくなったのです。そして同時になんだか心が急に虚しくなりました。初めて「帰りたいなー」と思いました。4回目のコース、しかも7日目にして初めての感情です。

「どうしたんだい、私?」

18時からのグループ瞑想には渋々で参加します。
「もう、飽きたよ、ゴエンカジ〜」と心の中で毒づきます。すると、そんな気持ちはお見通しとばかりに新しい指示がきました。

「全身自由に流れるように見ていき、内側も調べなさい。浸透するように突き抜けて内側に入っていって調べなさい。そして、凝固したところや、感覚のないところがあったら、そこを2分間、調べなさい」

飽きちゃっていた私の心を見抜くかのように的確なご指示! すごい! 以心伝心! いろんな意味で感心して、新しい指示に嬉々として挑みます。(←明らかに平静さを失っているダメなパターン)

夜の講話 7日目

4. ダンマーヌパッサナー(心の中身の観察)の解説続き

E. 4つの聖なる真理を観察する

表面的には4つだが、深く探究する時には、それは1つとなる。

苦悩の真理:誕生・老い・病・死・嘆き・悲しみ・痛み・精神的不快感・悩みは苦である。好まないものと関わること、好むものから離れること、欲するものが得られないことは苦である。つまり5つの集合体=「」への固着が苦である。

苦悩の原因:6つの感覚機関とその対象物の接触によって渇望が生じ、確立する。

苦悩の消滅:渇望が生じた同じ場所で、渇望に気づき、放棄することで、渇望を取り除き、消滅させることができる。

シーラを守り、集中力を高め、より細かな感覚に気づく。すべてが細やかな振動に過ぎない段階に至る。不快な感覚のある部分にも細やかな振動があることがわかる(=バンガ)。これも無常であり変化している。

就寝後の観察

実は今回のコース、初日から一緒に坐る周りの人たちに対して、私の心はなんだかとっても批判的だったのです。瞑想中、誰かが目につくたびにその人に勝手に難癖つけて批判する。なんだ?ってくらい、常に不満の対象を見つけては不平不満を抱いていたのです。寝ながら気づきました。24時間常中!

Day8に続く