マインドフルネス瞑想とヴィパッサナー瞑想の違い

ネットで「マインドフルネス瞑想」と「ヴィパッサナー瞑想」の違いを検索すると、「宗教か宗教じゃないかの違い」というのが出てくるけれど、ちょっと違うと思うのです。

宗教ではない

まず、どちらも宗教ではありません

ヴィパッサナー瞑想は上座部(テーラワーダ)仏教の根幹となっているので、仏教だと思われがちだけど違います。仏教ができる以前からあった、悟りを開くための古代インドの伝統的な修行法の1つです。

ヴィパッサナー瞑想は大昔からある

ヴィパッサナー瞑想は、ゴータマ・シッダッタ(=ブッダ、釈迦)という1人の実在する人間が、2500年前に実践して悟りを開くに至った瞑想法です。ヴィパッサナー瞑想そのものは、ゴータマ・ブッダの以前からある伝統的な修行法で、ブッダの前にも後にも、多くの人々が実践して悟りを開き「ブッダ覚者)」となっています。ゴータマ・ブッダが他のブッダと違っていたのは、その瞑想法を究極まで実践し、論理的に分析して、合理的に人々に伝える力があったからです。

ゴータマ・ブッダは仏教の開祖などと言われていますが、彼自身は宗教を説いたのではなく、人間が苦悩から解放される方法として、ヴィパッサナー瞑想による気づき中道を説いたのです。そのゴータマ・ブッダが説いた瞑想の実践方法は「サティパッターナ・スッタ(4つの気づきの確立。仏教用語では四念処)」という経典に書かれ、現在に受け継がれています。その内容は、身体・感覚・心・ダンマ(法)における一瞬ごとの実体験を、ただありのままに観察する(ヴィパッサナー)ことで、自分の無意識意識にあげて、揺るぎない気づきを得るための方法です。

現在のヴィパッサナー瞑想は、このゴータマ・ブッダ が2500年前に説いた「サティーパッターナ・スッタ」を基とした瞑想法です。

マインドフルネス瞑想は近代発祥

一方、マインドフルネス瞑想は、近年、1965年頃から欧米で流行した瞑想法です。

マインドフルネス(mindfulness)とは、パーリ語で「sati(サティ)=気づき」という意味で、上述の「サティーパッターナ・スッタ」の基となる言葉であり、ヴィパッサナーと同義語です。また、八正道の7番目であり、悟りに必要な7つの要素の1つです。

マインドフルネス瞑想は、「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観察し、常に今現在の内外の状況に気づいた状態でいる」ための瞑想法で、概念はヴィパッサナー瞑想と同じです。

1965年、ベトナム戦争後に米国で新たな移民国籍法が成立し、アジアからの移民が増加しました。それに伴い、「サティ(マインドフルネス)こそが上座部仏教の中心」という教えを展開する東南アジアの僧侶たちが、米国で活動するようになりました。

中でもとりわけ著名だったのが、スリランカ仏教を伝えたニャナポニカ・テラと、ベトナム人禅僧ティク・ナット・ハンで、 彼らは英語でマインドフルネスに関する著作を多く残しています。

ティク・ナット・ハンは、その後フランスに亡命し、1982年にフランス南西部ボルドー近郊にプラムヴィレッジ・マインドフルネス瞑想センターを設立しました。この僧院はその後、ヨーロッパ最大の仏教僧院となりました。

21世紀に入り米国では、現代社会に欠けている「今への集中」の実践として、マインドフルネス瞑想が改めて注目されるようになります。それに伴いティク・ナット・ハンは、アメリカ連邦議会で瞑想を指導したり、パリのユネスコ本部で演説を行ったり、2011年にはカリフォルニアのGoogle本社でマインドフルネスによるリトリート(瞑想会)の1日指導を行うなど、世界を引率するトップレベルの場で、慈悲と非暴力を訴えてきました。「世界のトップが必ずやってる瞑想」のキャッチはこの辺からきているのでしょう。

1日でも効果を感じられるように、ヴィパッサナー瞑想をわかりやすくエクササイズ化したのが、マインドフルネス瞑想と捉えてもいいと思います。

実践面はほぼ同じ

マインドフルネス瞑想のエクササイズの1つに、鼻孔の近くで呼吸に注意を向け、呼吸をコントロールせずにただ観察するものがありますが、これはヴィパッサナー瞑想に入る前に集中力を鍛えるために行う「アーナーパーナ瞑想」と同じです。「サティパッターナ・スッタ」にも記述があります。

また、マインドフルネスを発達させるエクササイズとして、身体の様々な場所に注意を向けて、その時に起こっている身体の感覚に気づくというボディスキャン瞑想がありますが、これはヴィパッサナー瞑想のやり方そのものです。

ヴィパッサナー瞑想にも流派のようなものがあり、それぞれメソッドが違います。現在、世界で主流となっているのは3つあり、「日常生活の中でも実践できる歩く瞑想・ラベリングのマハーシ式」「10日間合宿瞑想のゴエンカ式」「出家して段階を経て厳密に行うパオ式」です。この他にもさまざまな密教がありますが、この3つの中ではマハーシ式が一番マインドフルネス瞑想に近いです。

では、ヴィパッサナー瞑想とマインドフルネス瞑想、何が違うのか?

目的がある瞑想と本質的な瞑想

マインドフルネス瞑想は、現実的(世俗的)な目的・メリットを求めて行う瞑想で、「」を中心に据えた自己修養、自己成就、自己増進のためのスキルアップとして実践されています。心理的・身体的健康や良好な人間関係、冷静な意思決定、仕事や学業への集中力アップ、生活の向上などへの効果を期待して実践する「」のための現実的な瞑想です。

一方、ヴィパッサナー瞑想は、苦悩から解放されるために、「」という認識を分解して気づきを得る本質的な瞑想で、ある意味マインドフルネスと真逆だとも言えます。

苦しみ」を生み出す「」は現象に過ぎないことに、瞑想という実体験から何度も繰り返し気づくことで、宇宙の全ては相互につながりあって生滅し変化し続ける「ダンマ(自然の法則)の流れ」に過ぎないことを理解し、現世だけでなく過去世や来世も含めて、自身が描いた「から意識を解放するのが、ヴィパッサナー瞑想です。心の浄化は目的ではなく、気づいた時点で意識せずとも自然になされる過程です。

ただし、そこに至るまでは通常はその途中段階である「怒りや欲望・執着のコントロール」が中心となり、そこはマインドフルネスと同じです。ニャナポニカ・テラティク・ナット・ハンマインドフルネスとして広めたのは、まさにこの段階のヴィパッサナー瞑想だと思います。

「do する」から「be ある」へ

マインドフルネス瞑想の特徴は、「判断を加えないこと」と「今この瞬間にあること」です。「do する」から「be ある」への意識のシフトが重視されます。未来の心配事や過去の失敗にとらわれて、現在の瞬間から離れ、自分のしていることに無自覚なまま「自動操縦」に陥っている状態に気づく練習法です。

ヴィパッサナー瞑想も同じなのですが、その先に、そもそもその未来を心配したり、過去を悔やんで自動操縦に陥っているこの私」とは何なのか、精神と物質の素粒子レベルまで意識で分解して徹底的に観察し、「万物が常に変化すること」「『私』など存在しない」ことに気づく訓練法です。

結論

古来より実践されてきた修行法であるヴィパッサナー瞑想を、より現代人向けにアレンジし、世俗的な目的を持たせたのがマインドフルネス瞑想であると言っていいのではないでしょうか。実生活に役立つ目的があるからこそ、やる気になるのも事実です。

しかしながら、このやる気こそが欲望」そのものであり、苦しみの原因なのです。心身ともに健康でありたい、人間関係をよくしたい、的確に意思決定したい、集中力を高めたい、生活を向上させたい。これらすべては向上心・大志・希望・夢であると同時に、現実の否定です。何かを成し遂げようとする生への情熱、すなわち生み出そうとするエネルギーは、人生をより良いものにする一方で、苦しみを生み出すということです。

瞑想は、目的のあるマインドフルネスも、世俗的な目的のないヴィパッサナーも、「洞察するために坐る」ことです。これだけやったから、これだけ得られるという「取引」ではありません。「どこかに至ろう」としたり「何かになろう」せず、今ここにただ「在ろう」とすること。そうすると「正しいことが自然に起こる」というのが、瞑想の基本思想です。

まずは気軽にマインドフルネス瞑想からはじめて、瞑想の面白さ、その先にあるものを知りたくなったら、より深い真理の瞑想へと進んでいくのは、自然の道かもしれませんね。

以上です。