ジャーナ(禅定)

jhāna ジャーナとは

古代インドの宗教的実践として行われてきた、心を集中して精神統一する瞑想「サマタ瞑想」によって到達する精神状態のこと。ゴータマ・ブッダの時代よりも前から行われていましたが、ジャーナの体験は通常の人間の精神状態を超えた特殊な状態なので、涅槃だと勘違いされることもあったようですが、涅槃ではありません。のちに仏教でも採用し「禅定(ぜんじょう)」と呼ばれるようになりました。

瞑想で集中力を極める

samatha(サマタ)とは、「平静、寂静」という意味ですが、「反応が止まる」という意味もあります。心を1つの対象に徹底的に集中し、我を忘れるくらいに没頭すると、心に他の情報が入るのが遮断されます。すると、集中力自体が心に強烈な喜悦感を与えます。それによって俗世間の欲に対する興味が薄れ、一時的に欲の世界から離れることができます。すると宇宙と一体になった状態が流れていくような経験が生まれるのです。その心の状態が「ジャーナ」です。

心の動揺がない状態になると、通常の感覚の認識レベルを超えた認識体験が現れます。心は私たちが存在する欲界の領域を超越して、色界に入ることになります。これが瞑想の神秘体験と言われる所以ですが、錯乱したり幻覚状態になることはなく、心が都会の喧騒を離れ、穏やかな陽だまりの中で過ごすような安らかな状態です。

ルーパ・ブラフマー界に行く

ルーパ・ブラフマー界とは、世界を欲界ルーパ・ブラフマー界(色界)・アルーパ・ブラフマー界(無色界)の3つに分けた時の1つです。私たちが存在する人間界や下界、天上界など、物質があり感覚がある世界は欲界です。それとは別に感覚から完全に離れたブラフマー界があります。

ルーパ・ブラフマー界(色界)は、物質がわずかにあるエネルギー体の存在界です。五感の刺激に頼らない世界です。身体的なものはあるようですが、見たり聞いたりして、心が外からの刺激によってのエネルギーを得る必要はありません。

アルーパ・ブラフマー界(無色界)は、物質がまったくない精神だけが存在する世界です。

ジャーナには、その境地の深まりに応じて様々な段階があり、その境地に至るとその存在界を体験できると言われています。ルーパ・ブラフマー界(色界)では、次の4段階があります。

rūpa-jhāna ルーパ・ジャーナの4段階

第1ジャーナ

欲からは離れているが、歓喜(pīti)と幸福感(sukha)が残り、思考(takka)もある精神状態。

第2ジャーナ

思考(takka)が消えて心が穏やかになり、ジャーナから生じる歓喜(pīti)と幸福感(sukha)だけがある精神状態。

第3ジャーナ

歓喜(pīti)が消え、心は穏やかで平静さを保ち、気づき(sati)と落ち着いた幸福感(sukha)だけがある精神状態。

第4ジャーナ

幸福感(sukha)も消え、苦も楽もなくなり、五感がなく、心の揺れ動きが一切ない精神状態。心の平静さだけに気づいている状態。

この4段階の後、色界を超えて、何も対象を取らない無色界のジャーナへと進みます。

arūpa-jhāna アルーパ・ジャーナの4段階

物質がなく、空間もない状況で、ただ意識だけが瞑想している状態です。これも4段階あります。物質が一切ない状況なので、無色界では心を集中させる対象となる物質がありません。

第5ジャーナ

無限の虚空の状態(ākāsānañcāyatana):何の対象にも触れない心の状態
rūpasaññā(対象の認識。物質的なものという想い)を完全に超越し、patighasaññā(対象が有る認識。抵抗感のような想い)を消滅し、別のものという想いを起こさないことによって、虚空が限りないという意識の状態。

第6ジャーナ

無限の意識の状態(viñāṇcāyatana):意識が無限に広がっている状態

第7ジャーナ

無限の無の状態(ākiñcañāyatana):何も意識していない、何もない状態

第8ジャーナ

知覚も非認識もない状態(nevasañānāsañāyatana):意識しようとする衝動(saññā)さえ起こさない状態。生きているとも死んでいるとも言えない状態の意識が流れています。ほとんど仮死状態の静寂の境地です。

死者は、身体を形成する作用(kāyasaṅkhāra)・言葉を形成する作用(vacīsaṅkhāra)、心を形成する作用(cittasaṅkhāra)が滅して(niruddha)鎮まり、寿命が滅尽し、体温が下がり、感覚器官は完全に壊れて機能しません。ジャーナの状態に入ると同様に、言葉を形成する作用・身体を形成する作用・心を形成する作用の順に滅して(nirodha)鎮まりますが、寿命は滅尽せず、体温も下がらず、感覚器官は清浄な状態です。

ジャーナだけでは悟りに到達できない

ブッダは修行を始めて早々に、最初の4段階のジャーナを達成しましたが、「その効用は所詮ジャーナに入っている間だけで、通常の精神状態に戻れば、また不安や苦悩を生じ、絶対の心の平安を得るものではない」と理解しました。

ジャーナの体験は強い歓喜感を伴うので、それで満足してしまうと、そこで心の成長が止まってしまうと言われています。ジャーナを体験しただけでは、現実は何も変わりません。ブッダが求めたのは、すべての渇望をなくして悟りを得ることです。ジャーナでは、悟りは得られないことに気づき、「現世で楽しむためだけのもの。意味はない」と言っています。

ジャーナの第4段階を超えると感覚がなくなり、心だけがある状態になりますが、感覚がないとnibbāna(涅槃)の体験はできません。sampajaññena(消滅)にsati(気づく)ためには、感覚が必要だからです。

ジャーナは悟りに有効

しかし、ジャーナを体験できるほど心を集中できるなら、悟りの各段階に到達することも夢ではありません。それだけの集中力をもって、洞察瞑想であるヴィパッサナー瞑想を実践し、自分の心と身体を徹底的に観察したなら、「一切は苦であること、すべてが無常であり実体はないこと」が容易に発見できます。そうなると悟り=涅槃(nibbāna ニッバーナ)に至ることは可能です。

悟りを得るためには、素粒子レベルまで自己観察して、全てが超高速で次々に生滅変化していく様子を自分の身体上で実体験しなければなりません。そのためにはやはり、かなりの集中力が必要です。ですから、ジャーナは悟りの助けとして有効な修行法なのです。

なお、ヴィパッサナー瞑想で自分を観察するためには、思考vitakka と vicāra)が必要なので、第1段階のジャーナで十分とのことです。

以上です。