2. ヴェーダナーヌパッサナー 感覚の観察

Vedanānupassanā 

修行者たちよ。では、修行者はどのように感覚を観察するのでしょうか?

修行者は、快い感覚を体験している時は「快い感覚を感じている」とはっきり自覚するのです。
不快な感覚を体験している時は「不快な感覚を感じている」 とはっきり自覚するのです。
快でも不快でもない感覚を体験している時は「快でも不快でもない感覚を感じている」とはっきり自覚するのです。

執着を持って快い感覚を体験している時は「執着を持って快い感覚を感じている」 とはっきり自覚し、執着を持たずに快い感覚を体験している時は「執着を持たずに快い感覚を感じている」 とはっきり自覚するのです。

執着を持って不快な感覚を体験している時は「執着を持って不快な感覚を感じている」 とはっきり自覚し、執着を持たずに不快な感覚を体験している時は「執着を持たずに不快な感覚を感じている」とはっきり自覚するのです。

執着を持って快でも不快でもない感覚を体験している時は「執着を持って快くも不快でも感覚を感じている」とはっきり自覚し、執着を持たずに快でも不快でもない感覚を体験している時には「執着を持たずに、快くも不快でも感覚を感じている」とはっきり自覚するのです。

このようにして感覚を、内側からありのままに観察し、または外側から、あるいは内側と外側から同時に観察するのです。感覚が生じるという現象を観察し、または感覚が消滅するという現象を、あるいは感覚が生じては消えるという現象を観察し続けるのです。そうして「すべての物事は、絶え間なく変化し続ける現象に過ぎない感覚は感覚に過ぎない。私でもなく、私のものでもなく、自分でもない」という気づきが確立されるのです。この智慧と気づきがある限り、この世に自分など存在しないのだから、存在しない自分が執着していた「苦悩」もなくなるのです。

修行者たちよ。修行者は、このようにして感覚を感覚において観察し、生きるのです。

2.ヴェーダナーヌパッサナー(感覚の観察)了

解説

心に浮かぶものはすべて、感覚と一緒に流れていきます。ブッダは、大きく分けて5種類のヴェーダナーを挙げています。

sukhā vedanā(スカー):肉体的に快い感覚。
dukkhā vedanā(ドゥッカー):肉体的に不快な感覚
somanassa vedanā(ソーマナッサ ヴェーダナー):精神的に快い感覚
domanassa vedanā(ドーマナッサ):精神的に不快な感覚
adukkhamasukhā vedanā:不快でも快でもない感覚

ブッダ は、自分の外側にある対象と渇望という心の反応との間には、ヴェーダナー(感覚)が常にあることに気づいたのです。 私たちが五感や心を通して対象物に出会う(接触 passa)と、必ず感覚が生じ、その感覚に基づいて「渇望」が生じます。その感覚が心地よければ、それを長続きさせたいと願い、不快であれば、それを取り除きたいと望むのです。

渇望、ひいては苦しみが生じる直接的な原因は、私たちの外にあるものではなく、私たちの内に生じる感覚なのだとブッダ は悟ったのです。

感覚を観察する時には、「足が痛い」と主観的に観察するのではなく、「足に痛みの感覚を感じている」と客観的に観察することが大切です。

感覚を知覚(外からの刺激を感覚として自覚し、刺激の種類を意味づけすること)ではなく、単なる感覚(外からの刺激を感覚として自覚すること)として客観的に捉えるのです。このようにして、「今、この瞬間の感覚の体験に内と外から意識を向け評価せずに客観的に観察する」修行方法です。

感覚は生き物だけにあるわけではありません。感覚は外部からの刺激を受けることで生じるもので、刺激や変化に反応することです。すべての物質の中で何らかの変化が起こっているので、死体にも無生物にも感覚はあるのです。例えば、鉄は酸素と水に接触することで反応してサビを生じます。これも感覚なのです。しかし、感覚を感じとるのは心であり、その生命に結びついた心が感じるのです。つまり感覚は、心のある一部で感じ取られるということです。

心には4つの部分があります。意識(ヴィンニャーナ)、認識(サンニャー)、精神感覚(ヴェーダナー)、反応(サンカーラ)です。 身体の感覚は、精神の感覚を感じとる部分によって、感じ取られます。これら2つが合わさったものが感覚です。

 

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