Vedanānupassanā
修行者たちよ。では、修行者はどのように感覚を観察するのでしょうか?
修行者は、快い感覚を体験している時は「快い感覚を感じている」とはっきり自覚するのです。
不快な感覚を体験している時は「不快な感覚を感じている」 とはっきり自覚するのです。
快でも不快でもない感覚を体験している時は「快でも不快でもない感覚を感じている」とはっきり自覚するのです。
執着を持って快い感覚を体験している時は「執着を持って快い感覚を感じている」 とはっきり自覚し、執着を持たずに快い感覚を体験している時は「執着を持たずに快い感覚を感じている」 とはっきり自覚するのです。
執着を持って不快な感覚を体験している時は「執着を持って不快な感覚を感じている」 とはっきり自覚し、執着を持たずに不快な感覚を体験している時は「執着を持たずに不快な感覚を感じている」とはっきり自覚するのです。
執着を持って快でも不快でもない感覚を体験している時は「執着を持って快くも不快でも感覚を感じている」とはっきり自覚し、執着を持たずに快でも不快でもない感覚を体験している時には「執着を持たずに、快くも不快でも感覚を感じている」とはっきり自覚するのです。
このようにして感覚を、内側からありのままに観察し、または外側から、あるいは内側と外側から同時に観察するのです。感覚が生じるという現象を観察し、または感覚が消滅するという現象を、あるいは感覚が生じては消えるという現象を観察し続けるのです。そうして「すべての物事は、絶え間なく変化し続ける現象に過ぎない。感覚は感覚に過ぎない。私でもなく、私のものでもなく、自分でもない」という気づきが確立されるのです。この智慧と気づきがある限り、この世に自分など存在しないのだから、存在しない自分が執着していた「苦悩」もなくなるのです。
修行者たちよ。修行者は、このようにして感覚を感覚において観察し、生きるのです。
2.ヴェーダナーヌパッサナー(感覚の観察)了
解説
心に浮かぶものはすべて、感覚と一緒に流れていきます。
ブッダは、ヴェーダナー(感覚)を「快・不快・中立」の3つに分類し、さらに心と身体に分けて、5種類のヴェーダナーとして説明しています。
sukhā vedanā(スカー):肉体的に快い感覚。
dukkhā vedanā(ドゥッカー):肉体的に不快な感覚
somanassa vedanā(ソーマナッサ):精神的に快い感覚
domanassa vedanā(ドーマナッサ):精神的に不快な感覚
adukkhamasukhā vedanā:不快でも快でもない感覚
ブッダは、自分の外側にある対象と、渇望という心の反応との間には、常にヴェーダナー(感覚)があることに気づきました。
私たちが五感や心を通して対象と出会う(接触 phassa)と、必ず感覚が生じます。そしてその感覚に基づいて、「渇望」が生まれます。
感覚が心地よければ、それを長続きさせたいと願い、不快であれば、それを取り除きたいと望むのです。
渇望、ひいては苦しみが生じる直接的な原因は、私たちの外にあるものではなく、私たちの内に生じる感覚なのだと、ブッダは悟ったのです。
感覚を観察する時には、「足が痛い」と主観的にとらえるのではなく、「足に痛みの感覚がある」と客観的に観察することが大切です。
感覚を、知覚(外からの刺激に意味づけをする働き)としてではなく、単なる感覚(刺激に触れたときに生じる感覚)として、客観的にとらえることが大切です。
このようにして、「今、この瞬間に生じている感覚」に意識を向け、評価や判断を加えずに、客観的に観察」していきます。
感覚は、外部からの刺激に触れたときに生じるものですが、それを「感じる」のは心の働きです。物質は刺激に対して変化しますが、それは単なる物理的な反応であり、感覚ではありません。感覚とは、心のある存在においてのみ生じるものです。
感覚とは、身体や心に生じた刺激に対して、心の働きとして現れる「快・不快・中立」という3つの感じです。
