3. チッターヌパッサナー 心の観察

Cittānupassanā 

修行者たちよ。では、修行者はどのように心を観察するのでしょう?

修行者は、心に欲望渇望)が生じた時は「心に欲望(渇望)が生じている」 とはっきり自覚するのです。心に欲望(渇望)が生じていない時は「心に渇望(欲望)が生じていない」 とはっきり自覚するのです。

心に怒り(嫌悪)が生じた時は「心に怒り(嫌悪)が生じている」 とはっきり自覚するのです。心に怒り(嫌悪)が生じていない時は「心に怒り(嫌悪)が生じていない」とはっきり自覚するのです。

心に思い込み(妄想)が生じた時は「心に思い込み(妄想)が生じている」とはっきり自覚するのです。心に思い込み(妄想)が生じていない時は「心に思い込み(妄想)が生じていない」とはっきり自覚するのです。

心に怠け心が芽生えた時は「心に怠け心が芽生えている」とはっきり自覚するのです。

また、心の気が散っている時は「心の気が散っている」とはっきり自覚するのです。

心が寛容な時は「心が寛容だ」とはっきり自覚するのです。心が寛容でない時は「心が寛容でない」とはっきり自覚するのです。

心に劣等感がある時は「心に劣等感がある」とはっきり自覚するのです。心に優越感がある時は「心に優越感がある」とはっきり自覚するのです。

心に集中力が生じた時は「心に集中力が生じている」とはっきり自覚するのです。心に集中力が欠けている時は「心に集中力が欠けている」とはっきり自覚するのです。

心が自由になった時は「心が自由になった」とはっきり自覚するのです。心が自由ではない時は「心が自由ではない」とはっきり自覚するのです。

このようにして心を、心の内面からありのままに観察し、または心の外から、あるいは心の内と外を同時に、観察するのです。心に生じる現象を観察し、または心から消滅する現象を、あるいは心に生じては消える現象を観察し続けるのです。そうして「すべての物事は、絶え間なく変化し続ける現象に過ぎない身体は身体に過ぎない。私でもなく、私のものでもなく、自分でもない」という気づきが確立されるのです。この智慧と気づきがある限り、この世に自分など存在しないのだから、存在しない自分が執着していた「苦悩」もなくなるのです。

修行者たちよ。修行者は、このようにして心を心において観察し、生きるのです。

3. チッターヌパッサナー(心の観察)了

解説

citta
(mind)。mano(精神)やviññāṇa(意識)と同義語で、この3つは呼び方が違うだけで同じ意味です。

そもそも「」とは何なのでしょう?

とは、「感情意志」、そして「内外からの刺激に対して、対象を区別し、分類し、認識するはたらき」です。

感情には、無意識に起こる感覚(emotion)と、自覚される感覚(feeling)の2つの側面があります。まず対象が危険かどうかを無意識の感覚が決め、そのあとにどう行動するかを意識的に感じ取り、方向づけていきます。これら一連のはたらきが「」です。

心を観察することは、心の動き(気分)を観察することです。
喜怒哀楽など、漢字で書くと「」が含まれる字が多いのも、うなづけます。

心を観察すると言っても、思考そのものを観察するわけではありません。
思考が浮かぶとき、心は刺激され、渇望や嫌悪が起こります。

このとき、渇望や嫌悪の対象や思考の内容に注意を向けるのではなく、その瞬間に渇望や嫌悪が起こっていること、あるいは起こっていないことを、ただ観察するのです。

これがブッダの教えるチッターヌパッサナーの修行法です。
そこにはダンマも含まれるので、ダンマーヌパッサナーと一体のものとして実践します。

「心に浮かぶものが、渇望であれ嫌悪であれ、思考であれ感情であれ、必ず身体の感覚として現れる」と、ブッダは明確に述べています。

心と身体は常に密接に関係しているので、その現象を観察するのです。

ブッダは、身体と感覚の観察について、「身体を他人のもののように、感覚を他人のもののように観察する」と説いています。

心を直接つかまえるのは難しいですが、身体の感覚として客観的に観察すると、気づきやすくなるのです。

ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門」(春秋社 1999年)では、「心は全身に、からだの原子のひとつひとつにあります。何かを感じるとき、心はそこにある。感じるのが心なのです。」(P37)とあります。

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