Cittānupassanā
修行者たちよ。では、修行者はどのように心を観察するのでしょう?
修行者は、心に欲望(渇望)が生じた時は「心に欲望(渇望)が生じている」 とはっきり自覚するのです。心に欲望(渇望)が生じていない時は「心に渇望(欲望)が生じていない」 とはっきり自覚するのです。
心に怒り(嫌悪)が生じた時は「心に怒り(嫌悪)が生じている」 とはっきり自覚するのです。心に怒り(嫌悪)が生じていない時は「心に怒り(嫌悪)が生じていない」とはっきり自覚するのです。
心に思い込み(妄想)が生じた時は「心に思い込み(妄想)が生じている」とはっきり自覚するのです。心に思い込み(妄想)が生じていない時は「心に思い込み(妄想)が生じていない」とはっきり自覚するのです。
心に怠け心が芽生えた時は「心に怠け心が芽生えている」とはっきり自覚するのです。
また、心の気が散っている時は「心の気が散っている」とはっきり自覚するのです。
心が寛容な時は「心が寛容だ」とはっきり自覚するのです。心が寛容でない時は「心が寛容でない」とはっきり自覚するのです。
心に劣等感がある時は「心に劣等感がある」とはっきり自覚するのです。心に優越感がある時は「心に優越感がある」とはっきり自覚するのです。
心に集中力が生じた時は「心に集中力が生じている」とはっきり自覚するのです。心に集中力が欠けている時は「心に集中力が欠けている」とはっきり自覚するのです。
心が自由になった時は「心が自由になった」とはっきり自覚するのです。心が自由ではない時は「心が自由ではない」とはっきり自覚するのです。
このようにして心を、心の内面からありのままに観察し、または心の外から、あるいは心の内と外を同時に、観察するのです。心に生じる現象を観察し、または心から消滅する現象を、あるいは心に生じては消える現象を観察し続けるのです。そうして「すべての物事は、絶え間なく変化し続ける現象に過ぎない。身体は身体に過ぎない。私でもなく、私のものでもなく、自分でもない」という気づきが確立されるのです。この智慧と気づきがある限り、この世に自分など存在しないのだから、存在しない自分が執着していた「苦悩」もなくなるのです。
修行者たちよ。修行者は、このようにして心を心において観察し、生きるのです。
3. チッターヌパッサナー(心の観察)了
解説
citta
心(mind)。mano(精神)や viññāṇa(意識・心の認識機能)と同義語で、この3つは呼び方が違うだけで同じ意味です。
そもそも「心」とは何なのでしょう?
「感情・意志」、「外部からの刺激に対して、対象を区別して分類し、認識する作用」。感情・意志には、無意識(emotion)と意識(feeling)の2種類があり、まず対象が危険かどうか emotion が判断し、次にどう行動するか feeling が決めます。この作用が「心」です。
心を観察すること=心の動き(気分)を観察することです。喜怒哀楽など、漢字で書くと、心が含まれる字が多いのです。
心を観察すると言っても、思考を観察するわけではありません。思考が浮かぶ時、心は刺激され渇望や嫌悪が起こります。この時に、渇望や嫌悪の対象や思考に注意を向けるのではなく、その瞬間に渇望や嫌悪が起こっていること、あるいは渇望や嫌悪が起こっていないこと、をただ観察するのです。これがブッダの教えるチッターヌパッサナーの修行法で、そこにはダンマも含まれるので、ダンマーヌパッサナー とセットになっています。
「心に浮かぶものが、渇望であれ嫌悪であれ、思考であれ感情であれ、必ず身体の感覚として現れる」とブッダは明確に言っています。心と身体は常に密接に関係しているので、それを観察するのです。
「ヴェーダナーヌパッサナー」でも触れましたが、心には4つの部分があります。意識(ヴィンニャーナ)、認識(サンニャー)、精神感覚(ヴェーダナー)、反応(サンカーラ)です。 身体の感覚は、精神の感覚を感じとる部分によって、感じ取られます。これら2つが合わさったものが感覚です。
ブッダは、身体と感覚の観察に関しては、「身体を他人の身体のように、感覚を他人の感覚のように観察する」と言っています。
「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門」(春秋社 1999年)では、「心は全身に、からだの原子のひとつひとつにあります。何かを感じるとき、心はそこにある。感じるのが心なのです。」(P37)とあります。
これは、原子核(陽子+中性子+クォーク)の1つ1つ、つまりすべての素粒子に意識が存在するということだと思います。