Dukkhasaccaniddeso 苦しみの真理について
"Katamañca , bhikkhave, dukkhaṃ ariyasaccaṃ? Jātipi dukkhā, jarāpi dukkhā, maraṇampi dukkhaṃ, sokaparidevadukkhadomanassupāyāsāpi dukkhā, appiyehi sampayogopi dukkho, piyehi vippayogopi dukkho, yampicchaṃ na labhati tampi dukkhaṃ, saṅkhittena pañcupādānakkhandhā dukkhā.
修行者たちよ、苦しみの聖なる真理とは何でしょう?
誕生は苦しみ
老いは苦しみ
死は苦しみ
悲しみ、嘆き、痛み(肉体的苦痛)、
不愉快(精神的苦痛)、悩み、これらも苦しみ
嫌なものと関わることは苦しみ
好むものから離れることは苦しみ
欲しいものが得られないのは苦しみ
つまり、5つの集合体(物質・感覚・思考・反応・意識)への執着が苦しみです。
誕生とは何でしょう?
"Katamā ca, bhikkhave, jāti? Yā tesaṃ tesaṃ sattānaṃ tamhi tamhi sattanikāye jāti sañjāti okkanti abhinibbatti khandhānaṃ pātubhāvo āyatanānaṃ paṭilābho, ayaṃ vuccati, bhikkhave, jāti.
いかなる種類の生き物であっても、その肉体は誕生する。受胎して誕生する、生成して集合体が出現する、その感覚器官の獲得、
修行者たちよ、これが誕生と呼ばれるものです。
老いとは何でしょう?
"Katamā ca, bhikkhave, jarā? Yā tesaṃ tesaṃ sattānaṃ tamhi tamhi sattanikāye jarā jīraṇatā khaṇḍiccaṃ pāliccaṃ valittacatā āyuno saṃhāni indriyānaṃ paripāko, ayaṃ vuccati, bhikkhave, jarā.
いかなる種類の生き物であっても、その肉体は老衰する。歯は割れて、髪の毛が白くなり、皮膚にしわが寄り、寿命により成熟した能力が減退する、
修行者たちよ、これが老いと呼ばれるものです。
死とは何でしょう?
"Katamañca, bhikkhave, maraṇaṃ? Yaṃ tesaṃ tesaṃ sattānaṃ tamhā tamhā sattanikāyā cuti cavanatā bhedo antaradhānaṃ maccu maraṇaṃ kālakiriyā khandhānaṃ bhedo kaḷevarassa nikkhepo jīvitindriyassupacchedo, idaṃ vuccati, bhikkhave, maraṇaṃ.
いかなる種類の生き物であっても、その肉体は死ぬ。死滅して分解し、消滅し、絶息して死ぬ、生命の終わり、集合体の崩壊、肉体の崩壊、生命力の停止、
修行者たちよ、これが死と呼ばれるものです。
悲しみとは何でしょう?
"Katamo ca, bhikkhave, soko? Yo kho, bhikkhave, aññataraññatarena byasanena samannāgatassa aññataraññatarena dukkhadhammena phuṭṭhassa soko socanā socitattaṃ antosoko antoparisoko, ayaṃ vuccati, bhikkhave, soko.
あれやこれやの苦しい心の状態、悲しみ、哀悼、愁い、内面的な悲痛、人が経験するさまざまな種類の喪失や不運に影響される内面的悲しみ、
修行者たちよ、これが悲しみと呼ばれるものです。
嘆きとは何でしょう?
"Katamo ca, bhikkhave, paridevo? Yo kho, bhikkhave, aññataraññatarena byasanena samannāgatassa aññataraññatarena dukkhadhammena phuṭṭhassa ādevo paridevo ādevanā paridevanā ādevitattaṃ paridevitattaṃ, ayaṃ vuccati, bhikkhave paridevo.
あれやこれやの苦しい心の状態。号泣、すすり泣き、嘆き、激しい慟哭、深い嘆き、人が経験するさまざまな種類の喪失や不運に影響され泣き叫び嘆いている状態、
修行者たちよ、これが嘆きと呼ばれるものです。
痛みとは何でしょう?
"Katamañca , bhikkhave, dukkhaṃ? Yaṃ kho, bhikkhave, kāyikaṃ dukkhaṃ kāyikaṃ asātaṃ kāyasamphassajaṃ dukkhaṃ asātaṃ vedayitaṃ, idaṃ vuccati, bhikkhave, dukkhaṃ.
身体的な苦痛・身体的な不快・身体の接触によって感じる苦痛・不快感
修行者たちよ、これが痛み(身体的苦痛)と呼ばれるものです。
不愉快とは何でしょう?
Katamañca , bhikkhave, domanassaṃ? Yaṃ kho, bhikkhave, cetasikaṃ dukkhaṃ cetasikaṃ asātaṃ manosamphassajaṃ dukkhaṃ asātaṃ vedayitaṃ, idaṃ vuccati, bhikkhave, domanassaṃ.
精神的な苦痛・精神的な不快・精神的接触によって感じる苦痛・不快感
修行者たちよ、これが不愉快(精神的苦痛)と呼ばれるものです。
悩みとは何でしょう?
"Katamo ca, bhikkhave, upāyāso? Yo kho, bhikkhave, aññataraññatarena byasanena samannāgatassa aññataraññatarena dukkhadhammena phuṭṭhassa āyāso upāyāso āyāsitattaṃ upāyāsitattaṃ, ayaṃ vuccati, bhikkhave, upāyāso.
あれやこれやの心の苦しい状態、苦難、悩み、苦悩、人が経験するさまざまな種類の喪失や不運に影響されて心が悩み苦しんでいる状態、
修行者たちよ、これが悩みと呼ばれるものです。
嫌なものと関わる苦しみとは何でしょう?
"Katamo ca, bhikkhave, appiyehi sampayogo dukkho? Idha yassa te honti aniṭṭhā akantā amanāpā rūpā saddā gandhā rasā phoṭṭhabbā dhammā, ye vā panassa te honti anatthakāmā ahitakāmā aphāsukakāmā ayogakkhemakāmā, yā tehi saddhiṃ saṅgati samāgamo samodhānaṃ missībhāvo, ayaṃ vuccati, bhikkhave, appiyehi sampayogo dukkho.
いつであれどこであれ、望んでいない、気に入らない、不快で嫌な光景、音、匂い、味、感触、考えに遭遇し、その状態にとどまり、密接に関わらなければならないことです。あるいはいつであれどこであれ、自分の不幸や損失、困難や危険を望む人たちがいて、それらと付き合い、一緒にさせられ、密接に関わらなければならないことです。
修行者たちよ、これが嫌な人や嫌なものに関わる苦しみと呼ばれるものです。
好むものから離れる苦しみとは何でしょう?
Katamo ca, bhikkhave, piyehi vippayogo dukkho? Idha yassa te honti iṭṭhā kantā manāpā rūpā saddā gandhā rasā phoṭṭhabbā dhammā, ye vā panassa te honti atthakāmā hitakāmā phāsukakāmā yogakkhemakāmā mātā vā pitā vā bhātā vā bhaginī vā mittā vā amaccā vā ñātisālohitā vā, yā tehi saddhiṃ asaṅgati asamāgamo asamodhānaṃ amissībhāvo, ayaṃ vuccati, bhikkhave, piyehi vippayogo dukkho.
いつであれどこであれ、望んでいる、気に入っている、愉快で楽しい光景、音、匂い、味、感触、考えに遭遇し、その状態にとどまり、密接に関わり、一緒になることができないことです。いつであれどこであれ、母や父のように、兄弟姉妹のように、友人や同僚や親戚のように自分の幸運や繁栄、快適さや安全を願う者がいて、それらと離れ、会えず、接触できず、一緒になれないことです。
修行者たちよ、これが愛する人や好ましいことと離れなければならない苦しみと呼ばれるものです。
欲しいものが得られない苦しみとは何でしょう?
Katamañca , bhikkhave, yampicchaṃ na labhati tampi dukkhaṃ? Jātidhammānaṃ, bhikkhave, sattānaṃ evaṃ icchā uppajjati – 'aho vata mayaṃ na jātidhammā assāma, na ca vata no jāti āgaccheyyā’ti. Na kho panetaṃ icchāya pattabbaṃ, idampi yampicchaṃ na labhati tampi dukkhaṃ. Jarādhammānaṃ, bhikkhave, sattānaṃ evaṃ icchā uppajjati – 'aho vata mayaṃ na jarādhammā assāma, na ca vata no jarā āgaccheyyā’ti. Na kho panetaṃ icchāya pattabbaṃ, idampi yampicchaṃ na labhati tampi dukkhaṃ. Byādhidhammānaṃ, bhikkhave, sattānaṃ evaṃ icchā uppajjati 'aho vata mayaṃ na byādhidhammā assāma, na ca vata no byādhi āgaccheyyā’ti. Na kho panetaṃ icchāya pattabbaṃ, idampi yampicchaṃ na labhati tampi dukkhaṃ. Maraṇadhammānaṃ, bhikkhave, sattānaṃ evaṃ icchā uppajjati 'aho vata mayaṃ na maraṇadhammā assāma, na ca vata no maraṇaṃ āgaccheyyā’ti. Na kho panetaṃ icchāya pattabbaṃ, idampi yampicchaṃ na labhati tampi dukkhaṃ. Sokaparidevadukkhadomanassupāyāsadhammānaṃ, bhikkhave, sattānaṃ evaṃ icchā uppajjati 'aho vata mayaṃ na sokaparidevadukkhadomanassupāyāsadhammā assāma, na ca vata no sokaparidevadukkhadomanassupāyāsadhammā āgaccheyyu’nti. Na kho panetaṃ icchāya pattabbaṃ, idampi yampicchaṃ na labhati tampi dukkhaṃ.
誕生と転生にさらされている者には、このような望みが生まれます。「ああ、誕生しなければいいのに。誕生しませんように」 しかし、これはただ望むだけでは実現しません。これが得られないことを望む苦しみです。
老いにさらされた者には、このような望みが生まれます。「ああ、老いなければいいのに。老いることがありませんように」 しかし、これはただ望むだけでは実現しません。これも得られないことを望む苦しみです。
病にさらされている者には、このような望みが生まれます。「ああ、病でなければいいのに、病になりませんようのに」 しかし、これはただ望むだけでは実現しません。これも得られないことを望む苦しみです。
死にさらされた者には、このような望みが生まれます。「ああ、死ななければいいのに、死にませんように」 しかし、これはただ望むだけでは実現しません。これも得られないことを望む苦しみです。
悲しみ、嘆き、肉体的苦痛、精神的苦痛、悩みにさらされている者には、望みが生まれます。「ああ、悲しみ、嘆き、肉体的苦痛、精神的苦痛、悩みがなければいいのに、悲しみ、嘆き、肉体的苦痛、精神的苦痛、悩みがなくなりますようのに」 しかし、これはただ望むだけでは実現しません。これも得られないことを望む苦しみです。
Katame ca, bhikkhave, saṅkhittena pañcupādānakkhandhā dukkhā? Seyyathidaṃ – rūpupādānakkhandho, vedanupādānakkhandho, saññupādānakkhandho, saṅkhārupādānakkhandho, viññāṇupādānakkhandho. Ime vuccanti, bhikkhave, saṅkhittena pañcupādānakkhandhā dukkhā. Idaṃ vuccati, bhikkhave, dukkhaṃ ariyasaccaṃ.
「つまり、執着を生む5つの集合体が苦しみなのです」。これはどういう意味でしょう?
5つの集合体は、物体の集まりであり、感覚の集まりであり、思考の集まりであり、反応の集まりであり、意識の集まりです。
これらのことが「つまり、執着を生む5つの集合体は苦しみなのです」という意味です。
修行者たちよ。これが苦しみの聖なる真理です。
4.ダンマーヌパッサナー(心の中の動きの観察):1.苦しみの真理 了
解説
ブッダ の教えでは「生老病死」が苦しみの基本ですが、原典であるこのスッタでは「生老死」の3つになっています。ただし、「欲しいものが得られない苦しみ」として「生老病死」の4つを挙げていますので、病は生老死につきまとう二次的な作用と考えていいのではないでしょうか。
誕生は感覚器官の獲得であり、老いは感覚器官が衰えること。死は感覚器官の喪失である、ということだと思います。
dukkha
ドゥッカは一般的には「苦しみ」と訳されますが、ひろさちや氏は『釈迦』(春秋社2011年)の中で、ドゥッカを「思うがままにならないこと」と訳しています。「dukkha」は苦しみだけを言っているのではなく、常に変わっていくものに対して人間が求めるものは、求めた段階でもうその対象は変化してしまっているので、追い求めてもいつも不満で、満足が得られない状態に置かれてしまいます。「満足が得られない=思い通りにならない」から、苦しくなっていくのです。
また、ビルマの上座部仏教の大長老レディ・サヤドーはイギリスのパーリ翻訳者リス・デイヴィッド夫人の質問に対して、「Here the word dukkha means pain which is experienced, and has the essential mark of “unpleasant“.(ここでのドゥッカという言葉は、経験する苦痛を意味し、「不快」という本質的な意味がある)」と答えています。
さらに「私たちはdukkhaを、平穏も安らぎも幸せもない、恐れと危険に満ちた状態という意味で考えている。人生を楽しむという一般的な観点から見れば、楽しい気分はdukkhaではないが、「安らぎがない」という意味でいえば、この快い感覚もdukkhaの一側面に過ぎない。もし、楽しい美味しい食事も食べ過ぎれば、大きな苦痛を味わうことになるだろう。このように sukha(スカ・楽しみ)もまたdukkhaである。sukhaの感情も結局は安全でない、満足できない、dukkhaなのである」と解説しています。
レディ・サヤドーの著書『Vipassanā Dīpanī』では、dukkhaを2種類に分けています。Vedayita-dukkha(感受による苦痛)は、身体的苦痛と精神的苦痛を意味し、Bhayattha-dukkha(怖れからくる苦しみ)は、恐怖や危険を察して苦しみが生じると解説しています。
domanassa
Dukkha(ドゥッカ)が肉体的な苦痛であるのに対して、domanassa(ドーマナッサ)は、精神的な苦痛を表す言葉です。
四苦八苦
四苦八苦の四苦とは、生老病死(生きること・老いること・病気になること・死ぬこと)のことです。これに、五取蘊苦(人間が生きていること自体の苦しみ)・怨憎会苦(苦手な人や嫌いな人間とのつき合い)・愛別離苦(愛しい人との別れ)・求不得苦(欲しいものが手に入らない苦しみ)がついて八苦となります。