わがままと我慢

私はできる

私はできる」と思っていることはありませんか?

常にそう思ってるわけでも、自信過剰なつもりもなくても、ちょっとうまくいって、周りから褒められたりすると、いつの間にか「私様」がムックリ起き上がり、「私はできる」と思ってしまうことはないでしょうか?

自分が物事のやり方を知っていると思ったり、自分の方がキャリアが長くて、「他の存在は従ってくれる」と期待したりすると、自尊心が高くなります。

この「私はできる」とおごる気持ちは、「我慢」です。

「え? 我慢って、我慢すること、耐え忍ぶことじゃないの?」と思うかもしれませんが、本来の意味は、「我が強く(おごる)」気持ち、「他の存在を軽んじる」心があるという意味です。

我慢は、自分が嫌なことを耐えることですよね。

我慢は要注意

例えば、掃除をしようとした時、本当は掃除は好きではないけど、自分のためだったり家族のためだったり、きれいにしようと自らやろうとする時の気持ちは、我慢ではなく辛抱です。自らの志をもって、努力する心です。

ところがこの時、横から、椅子をまず避けろとか、床も拭いてとかゴチャゴチャ言われると、機嫌が悪くなり、自らの志による努力が、人から押しつけられた苦労に感じられるようになります。ゴチャゴチャいう相手に対して不満が生じ、健全な方向に向かっていたはずの努力(viriya)する心が、苦しみ(dukka)に変わる瞬間です。

ここで「じゃあ、やーめた」と掃除をやめれば「わがまま」となり、不満を心に抱いたまま続けると「我慢」になります。

この時、心に不満が生じるのは「私の正しいやり方」があるからです。「私はできる」から指図しなくていい、という他を軽んじる気持ちがあるのです。これが「慢心」であり「我慢」です。

横からゴチャゴチャ言う人にも「私の正しいやり方」があり、それもまた慢心ですが、他者のことはコントロールできないので、それに時間を使う必要はありません。

すべては外から学んだこと

自分が考えついた素晴らしい計画」があったとします。

自分1人で考え出したと思っているかもしれませんが、それを考え出すためには、他からの情報が必要です。すべてが既存の考えをアレンジした情報の寄せ集めです。各自が思考パターンに沿って選び取って、再構築したものに過ぎません。だから「自分が考え出した」とは、自信過剰の思い上がりなのです。

さらに言えば、今まで自分がやってきたことはすべて、他から教わったことです。

歩き方から、しゃべる言葉、箸を持って食べる、排泄する、計算や技術、習慣や常識、あらゆることが、他者から教わったものです。思考も同じです。自分で考えるているつもりでも、その考え方も、誰かに教わって学んだものから派生しています。

人ではなく自然からだったり、飼い犬からだったり、路傍の石だったり、いずれにせよ、他の存在から教わったものです。もし自分が日本ではなくアフリカに生まれていたら、まったく違った教育や知識を得て、全然違う自分になっていたはずですよね。

」を形成するすべては、外の世界から受けた影響の結果でしかないのです。

自由に生きていない

自分の意志でものごとを判断しているつもりでも、その判断自体が他の影響を反映させたものです。何かを選択する時、自分の好みで選んだつもりでも、それは他から得た情報に基づいて、選んでいるに過ぎないのです。

つまり私たちは、言われたままに生きているだけで、存在があるがままに自由に生きているわけではないのです。

仮に、自分が世界を支配し、他者を自由自在に動かすことができたとしても、自分の能力のすべては、他者に教わったものです。これは真実です。

もっと言えば、私たち人間が作り出したものは、この地球に何一つありません。車もビルも街も国も、すべて自分たちで作ったつもりでいますが、すべてが地球上の資源をアレンジしたものです。

だから「私はできる」などという気持ちは、高慢以外のなにものでもないのです。

「私はできない」も同じ

私はできない」と落ち込む気持ちも、同じことです。要は、自分ひとりでは何一つ成り立たないことを、ちゃんと理解できていません。

私はできない」という思いは、「理想の自分よりも、現状の自分が劣っている」と感じている状態です。ここにもやはり「正しくできるべき私」が存在します。結局、他の存在はどうでもいいのです。できないのであれば、他者に協力してもらえるように、謙虚で素直な体制をとればいいだけです。

「私はできる」「私はできない」、あるいは「私と同じだ」と思う気持ちは、いずれも「」を基準にした「他の存在をあなどる心」なのです。他の存在を否定したり、侮辱したり、非難したりはしなくても、自分の基準で自分中心に勝手に判断しているので、これは「他を軽んじている、見くびっている」態度なのです。

自分の周囲を見渡して、「最近、あいつ調子に乗っている」と思う人はいませんか? いたとしたら、調子に乗っているのはその人ではなく、好き勝手に自分中心に考えて、そう判断する自分の心です。

我慢はわがまま

自分の周囲に存在するモノやコトに執着して、自分自身をそれと同一視してしまうと、「他の存在が、こうあって欲しい」という欲望が大きくなります。一般的にいうところの「わがまま」です。

このように考えると、わがまま我慢欲に基づく不健全な精神作用です。世間が思う「わがままは悪くて、我慢はいいこと」ではなく、どちらも悪いことになります。

ところが「わがまま」も別の解釈では、「我のまま、ありのままに」と捉えることもできます。こうなるとわがままはいい意味になり、我慢はよろしくない意味ともなります。世間の価値観とは真逆ですね。

そもそも宇宙的には、良いも悪いもなく表現があるだけです。あるゆる物事は、こうだと決めた瞬間に、コロンコロンと反転していくのかもしれません。

好き勝手に感情をむき出しにしたり、気分次第でコロコロ変わるのではなく、不満があればありのままに正直に伝えて(わがままに)、我慢することなく、他の存在から協力してもらえるようにすることが、「自由に生きる」ということなのかな、と思います。

他人は自分を映す鏡

最初の掃除の話に戻ると、ゴチャゴチャ言った相手の方も「私の正しいやり方」を教えてやろうという、他を軽んじる気持ちがあるのです。だからこそ、ゴチャゴチャ言われて腹が立つのです。これが心の反映他人は自分を映す鏡」です。

黙って他者の話を聞くのは難しいものです。人は常に自分の考えを確認したいのが本心です。相手の話を評価して、自分の考えを確認したいのです。この時、相手に関心はありません。

そのことに気づき、相手に関心を持って、相手の話をしっかり聞くことから、つながりが始まり、信頼関係を築くことができるのです。正しい答えはどこにもなく、他者との関係性の構築が、人として生きる上で大切です。

そうすれば、より多く、助けてもらえるようになります。

以上です。