判断をやめる

私たちは常に判断して社会生活を送っていますが、判断って一体何でしょう?

物事の真偽善悪などを見極め、それについて自分の考えを定めること。ある現象と現象との間に、一定の関係があることを肯定的または否定的に断定する思考作用です。

区別と判断

私たちが何かを判断する時には、区別すると同時に判断しています。この区別する能力は物事を理解するための識別能力です。外部からの刺激(見るもの、聞くもの、嗅ぐもの、味わうもの、触れるもの)に対して区別する知覚能力で、この識別能力がなければ、危険にさらされても認識できないことになります。

例えば、歩いていて車が急に飛び出してきたら、「車だ」とその部分を空間内から区別して認識し、同時に「危険」と判断して、「避ける」という行動(反応)をとるのです。

もし車を見たことがない人であれば「車だ」という認識はありませんが、「高速で動く自分より大きなもの」という識別が起こり、同時に「危険」と判断して、「避ける」という行動(反応)をとります。人によっては「危険」と判断せず、そのままぶつかる場合もあるでしょう。

また、反対方向を見ていて車が視界に入っていない場合は、車を視覚が識別しないので、「危険」という判断が生まれず、「避ける」という行動も起こらず、ぶつかります。この時、人によっては、車の音を感受して「車かも」と認識し、「危険かも」と判断して、「避ける」行動をとるかもしれません。

生まれたばかりの赤ちゃんであれば、まだ色の区別も、危険かどうかの判断も、経験していないのでできません。当然「避ける」という行動もしません。大人が保護しなければ、危険を察知できず、死ぬ可能性が高くなります。

つまり人間の心は、区別すると同時に判断する認識システムです。区別することには何の問題もありません。これがなければ、危険物を識別できず、死ぬリスクが高くなります。問題は経験によって蓄積した判断です。区別してから判断するはずの認識が、先に判断してから区別するようになるのです。

経験が増えるほど、歳を取れば取るほど、自分の判断を優先させて、認識システムの順序が変わってしまうのです。いわゆる偏見です。

偏見

私たちがレストランを選ぶ時、他者の評価を見て、判断してから行くことが多いのではないでしょうか? なぜでしょう? 失敗したくないから、損したくないからです。

何かを買う時、学校を選ぶ時、会社を選ぶ時、結婚する時、子育てする時、損しないように先に判断してから区別しているのです。

しかしこの判断は、欲・怒り・無知の感情から生まれたものです。損したくない=欲であり、損した=怒りです。先に判断して行動すると、心が固くなって変化に対応できなくなります。判断することで、心の成長が止まるのです。

人はどうしてレストランに行こうと思うのでしょう?

レストランでおいしいものが食べたいからです。家で食べるいつもの味や雰囲気に飽きて、新しい経験をして五感を刺激して満足したいからです。実際には、毎日、身体の健康を維持するための食事ができていれば、足を知る心であれば不満はないはずです。しかし人は退屈になると刺激を得て満足感を得たくなるので、レストランでおいしいものが食べたいと欲求するのです。

そしてレストランでお金を使う場合に、損したくないという思いがあり、ガッカリする事態を避けるために、先に他者の感想を調べて、大丈夫だと予め判断してから行くのです。自分が行く価値があるかないかをまず判断しているのです。そしてレストランでは、自分の舌でよく味わって感じるわけでもなく、写真を撮りまくり、同席者と喋りまくってご馳走に興奮したり、あるいは一人で心の中で悶々と「雰囲気や味、接客、盛り付け」の価値評価のすり合わせをしていたりします。

レストランで何かを食べることも、次々に流れる現象に過ぎません。未知の味や雰囲気を経験する中で、時には不味い・不快という感覚もあっていいのです。それが経験を豊かにするのです。価値という値札を先につけても、それは想像の産物でしかないし、正しい判断ではあり得ないのです。感覚は各自で違うし、時と場合によって変化するから、同じ経験をすることはあり得ないのです。

認識は一貫しない

私たちは「判断した。決めた」と思っていますが、人には一貫した気持ちは起こりません。何かを判断して実行しても、途中でやめたくなったり、違う方がよかったかもと思ったりして、気持ちが揺らぎます。

何かが良いと決めても、状況が変わるとそれが悪いと認識することもできるのです。だから判断は当てにならないのです。心に繰り返し生じる概念・妄想を基に判断しているからです。何かを判断するために、心が照会する過去の事例(記憶)も、現状に対する認識も、ありのままの事実ではなく、すべて自分の印象に過ぎません。自分の都合に合わせたものです。

例えば、ある抽象画を見た時、Aさんは素晴らしいと感じ、Bさんは子供の落書きだと感じます。さらに、その作者がピカソだという情報を得ると、Aさんはやっぱりすごいと判断を強化し、Bさんはピカソだからすごいと判断を変えるかもしれません。その判断は各自の saññā(サンニャー・認識、印象)によるのです。

判断は妄想の回転に過ぎません。その人が外部から目耳鼻舌体を通して得た情報について、受けた印象を基に妄想を膨らませた結果が、判断なのです。

私たちは何かを判断した時、それを貫こうと努力します。ちょっと違うかもと思っても、意地になってその判断を貫こうとして、無意味なことをやり続けてしまうこともあります。

実際には時や場所が変わると、判断も合わなくなるのが当たり前なのです。

だから、どんなにすごい人の判断でも、判断は当てにならないのです。これが真理です。諦めて判断しないか、その瞬間、その瞬間で、より良い判断にコロコロ変えていく方がいいのです。判断にしがみつかずに、状況に応じて判断を変えることができれば、私たちはもっと楽に生きられると思います。