瞑想をしているつもりが、ずっと妄想中ということは、ないでしょうか? この思考を悪者と考えて、必死に追い払おうとしてませんか?
この思考を追い払うというのが、そもそも間違いです。
追い払うのではなく、自分の中に思考があることに気づくことが瞑想なのです。ガッカリしたりせず「あ! 妄想してた!」と、少しでも早く気づくのです。妄想しないように、する必要はありません。妄想した瞬間に少しでも早く気づけるように訓練するのです。
また、内容的に低俗な妄想でも、高尚な推考でも同じことです。いいも悪いもなく、どちらも単なる思考です。「あ、思考が浮かんだ、気づいて消えた」と気づくのです。
思考の正しい使い方
ブッダが八正道の「正しい見方 sammā‑diṭṭhi」について語るとき、それは今、自分が何をしていて、何が苦しみの原因になっているか見極めるということです。
世間の価値観での正しさを考えるのではなく、自分が引き起こしている苦しみを終わらせるためには、どうすればいいのかを正しく考える。自分だけで完結できる方法を考える。それが「正しい意図 sammā-saṅkappa」=思考の正しい使い方です。
外で起きることは、すべて自分の内に反映される
自分の外側(bahiddhā)で起きるすべてのことが、自分の内側(ajjhatta)に返ってきます。
サティーパッターナ・スッタの中でブッダは、外にある身体や外にある感情、外にある心の状態を意識することについて語ることがありますが、それはすべて、最終的には自分の内側に反映させるためです。
他者がつらい目に遭っているのを見て、「私も同じような目に遭うかもしれない」と考えることで、他者に起こっている経験が、まだ経験していない自分に反映されて、気づきを得ることができます。
他の人が欲張りな時、怖れている時、怒っている時、それを見て自分自身に反映させることで、当事者ではないからこそ、客観的に自分自身を振り返ることができるのです。「そういう状況の自分はどんな感じだろう? こんな風に周りから見えるのか」と、 他者の姿を見て、それが自分だった時にどう映るかを擬似体験できるチャンスなのです。
迷惑な人や厳しい人に接した時、不快な思いをするのが嫌で避けていませんか? 以前の私はすぐに難を逃れるようと避けていましたが、しかし、これは実にもったいないことだったと、最近気づいたのです。貴重な学びの体験の機会を自ら放棄していたのです。
嫌な人も好きな人もその場のすべてが相互に関わって、自分の内面を成長させてくれるのです。だから、嫌なことを言われても、ムッとしたり、怒ったりして反応するのではなく、黙って観察して自分に置き換えてみるのです。このことに気づくと、嫌いな人に会うのも楽しみになってきます。
このようにして、他者を自分の鏡のように見ることで、自分のことを客観的に考えられるようになります。これが本来の、思考の正しい使い方だと思います。「人の振り見て我が振り直せ」ですね。
自分が何をしているから苦しいのか、どうすればそれを終わらせることができるのかを、しっかりと見極めるためには、冷静に客観的に考えることが必要です。思考が役に立つのはその時です。
よく「思考を手放しなさい」と言いますが、手放す必要はないと思います。思考を正しく使う方法を学ぶことが大切です。
以上です。