Atta-vaggo 自分の章
ダンマパダ12章は、Atta「自分」がテーマです。
DhP.157
attānañ ce piyaṁ jaññā, 自分を・もし 大切 知るなら rakkheyya naṁ surakkhitaṁ; 守りなさい それを よく・守る tiṇṇam aññataraṁ yāmaṁ, 3つの 異なる・渡る 夜分に paṭijaggeyya paṇḍito. 主人・目覚めているように 賢者は
自分を大切に思うなら
自分をしっかり守りなさい。
賢明な人は
3つの時間帯を通して
目覚めていなさい。
解説
yāmaṁ=闇王の時計。古代インドでは、夜間には3つの時間帯があると考えられていました。ここではその3つの時間帯を、人生における3つの段階、少年期・壮年期・老年期に例えて、自分が何をしているか常に気づいていなさい、ということです。
DhP.158
attānam eva paṭhamaṁ, 自分を・こそ 第一に patirūpe nivesaye; ふさわしい 解決する athaññam anusāseyya, さらに・他の 次に・忠告するように na kilisseyya paṇḍito. ない 汚れることは 賢人は
まずは自分がやってみなさい
それから人に忠告するように
賢い人は非難されない。
解説
人に忠告する前に、まず自分がそのことについて、きちんと行動していなければならない、という教えです。
DhP.159
attānañ ce tathā kayirā, 自分を もし ように 行う yathaññam anusāsati; ように・他の 次に・忠告する sudanto vata dametha, よく・訓練された 実に 訓練 attā hi kira duddamo. 自己を 故に 実に 困難
人に忠告するように
まず自分で実行すること。
自分を正すことは実に難しいから
確実にできるようになれば
人にも忠告できる。
解説
他者に忠告する前に、まずは自分自身を戒めてから、という教えです。そうすると、ほとんどのことは他者に忠告できなくなるかもしれませんね。
DhP.160
attā hi attano nātho, 自分は 実に 自分の 保護者 ko hi nātho paro siyā; 誰 実に 保護者 他は あるだろう attanā va sudantena, 自分が なぜなら よく訓練された nāthaṁ labhati dullabhaṁ. 保護者を 得る 得難い
自分にとって
一番頼りになるのは自分
他人がどれだけ頼りになるだろう
自分をしっかり鍛えておけば
滅多にいない頼れる人になる。
解説
心は常に不安がるのが仕事です。心は、外からの刺激によって揺れ動くことで、エネルギーを得ているからです。人は不安になると、何かに頼ったり、依存したり、信じたりしたくなるものですが、他に拠り所を求めても、一時的に気が紛れるだけで、心の不安は消えません。頼れるのは自分だけです。
DhP.161
attanā hi kataṁ pāpaṁ, 自分が 実に した 悪が attajaṁ attasambhavaṁ; 自分から出た 自分から発生した abhimatthati dummedhaṁ, 破砕する 愚かな人を vajiraṁ vasmamayaṁ maṇiṁ. ダイヤが 如く 石でできた 宝石を
自分に起きることは
自分がしたことが原因。
利己的な悪い行いは
ダイヤが宝石を削るように
愚かな自分自身を削るの。
解説
自分に起きる出来事の原因は、かつて自分がした行為です。原因は他にはありません。大昔のことかもしれないし、最近のことかもしれませんが、それを言及することはできません。善いことをすれば、それが原因となって善い結果が出る。悪いことをすれば、それが原因となって悪い結果が出る。ただそれだけです。これが自然の法則です。
DhP.162
yassa accantadussīlyaṁ, 人は 極端な・破壊 māluvā sālamivotataṁ; 蔓草 沙羅を・ように・這う karoti so tathattānaṁ, なす 彼は そのように・自分に yathā naṁ icchatī diso. ように 彼に 望む 敵が
極端に破壊的な人は
蔓草が沙羅の木に這うように
自分勝手に自滅していく。
解説
心には簡単に悪意が生じます。相手の過ちを許すよりも怒る方が楽、他者を理解したり尊重するよりも、疑ったり嫌悪したり嫉妬する方が楽だからです。そして相手が悪いのだから当然と、正当化します。この正当化された悪意は、潜在意識の奥深くに記録されます。
DhP.163
sukarāni asādhūni, 簡単 不良のことは attano ahitāni ca; 自分が 不利益の また yaṁ ve hitañ ca sādhuñ ca, 所のこと 実に 益ある と 善良の と taṁ ve paramadukkaraṁ. それは 実に 最高の・困難
自分のためにならないことや
悪いことをするのは簡単だが
役に立つこと善いことをするのは
実はこの上なく難しい。
解説
人はどうして悪いことをするのでしょう? 心は良くも悪くも外からの刺激によってエネルギーを得ています。何か刺激的なことがあると、生きてる実感がわくのも、その仕組みによるものです。貪りや怒りといった悪い衝動は、刺激が強いのです。しかしこの刺激は、精神の成長には役に立ちません。
DhP.164
yo sāsanaṁ arahataṁ, その 教えを アラハンの ariyānaṁ dhammajīvinaṁ; 聖人の ダンマに・生きる paṭikkosati dummedho, 非難する 愚かな人は diṭṭhiṁ nissāya pāpikaṁ; 見解に 依って 邪悪な phalāni kaṭṭhakasseva, 果実 竹・のように attaghaññāya phallati. 自分を・破壊 熟して
真理に従って生きる
聖なるアラハンたちの教えを
邪見によって
否定する愚な人は
竹が結実して枯れるように
自分を破滅させる。
解説
竹は滅多に開花しません。俗説では60年に一度とも言われていますが、開花するとほとんどが枯死します。自己の欲が全くないアラハンの教えを否定するということは、真理を否定するということで、それは自分自身の考え方が真理に反することになります。
DhP.165
attanā va kataṁ pāpaṁ, 自分が 実に した 悪が attanā saṅkilissati; 自分が 汚れる attanā akataṁ pāpaṁ, 自分が ない・した 悪が attanā va visujjhati; 自分が 実に 清まる suddhī asuddhī paccattaṁ, 純粋 不純 各自 nāñño aññaṁ visodhaye. ない・他は 他を 浄化
自分がした悪いことで
自分が汚れる
悪いことをしなければ
清らかになる
汚すも汚さないも自分次第
誰も他者を浄化できない。
解説
善も悪も、全ては自分自身の選択です。
DhP.166
attadatthaṁ paratthena, 自分の・必要を 他の・必要が bahunā pi na hāpaye; 多く・ある もし ない 減少 attadattham abhiññāya, 自分の・必要を よく・認知 sadatthapasuto siyā. 利益・自分の・求める あるだろう
どんなに重大なことが
他にあっても
自分が成すべきことを
おろそかにしてはいけない
自分が成すべきことを
十分に理解した上で
まずそれを達成するために
専念しなさい。
解説
この言葉は、ブッダが80歳の時、死を目前にして弟子たちが悲しみ、側を離れなかったので言ったものです。他者の心配より、自分がやるべきこと(修行)に専念しなさい、という教えです。善悪の判断もろくにできず、自分の心すらコントロールできないのに、まして他者のことなど、どうすることもできません。自分の心の汚れをなくすことが先決です。
ダンマパダ12章「自分」了