ダンマパダ23章 320〜333

Nāga-vaggo 象の章

ダンマパダ23章は、Nāga(ナーガ)」の章です。

象??? と思うかもしれませんが、インドにおいて象は神聖な生き物であり、ブッダも前世で象だったことがあるのです。

DhP.320

ahaṁ nāgo va saṅgāme,
私は 象 ように 戦場
cāpāto patitaṁ saraṁ;
弓から 落ちた 矢に
ativākyaṁ titikkhissaṁ, 
誹謗に 耐える
dussīlo hi bahujjano.
不道徳 だから 多くの人々

弓から放たれた矢に
耐える戦場の象のように、
私は誹謗に耐える。
多くの人々にモラルがなくても。

エピソード
この詩句のエピソードは、ダンマパダ14章のDhP.179のエピソードの続きです。ブッダを娘の婿にと申し出てブッダに断られたマーガンディヤと妻ですが、2人は納得し、自分の娘に心を動かすはずがないと理解しましたが、その娘は自分の美貌を侮辱されたと思い、密かに恨みました。

その後、娘はウデーナ王の3人の王妃の1人となりました。ブッダがコーサンビに来たことを知った王妃は、托鉢に来たブッダを罵倒するために、何人かの悪人を雇いました。悪人たちはブッダに付きまとい「盗人、愚か者、ラクダ、ロバ、ニラヤに向かう者」などと罵倒しました。それを聞いたアーナンダは、ブッダにこの町を出て別の場所に行こうと提案しました。

しかしブッダ は「他の町でも罵倒されるかもしれないし、罵倒されるたびに引っ越すのは不可能だ。問題は発生した場所で解決するのがよい。私は戦場にいるゾウのようなもので、あらゆる方面からの矢に耐える象のように、道徳のない人からの罵倒にも辛抱強く耐える」と答えました。

解説
ブッダは自分がしたことの結果を、ここで逆らわずに受け取ったのですね。

DhP.321

dantaṁ nayanti samitiṁ,
訓練された 運ばれ 集まり
dantaṁ rājābhirūhati;
訓練された 王が・乗る
danto seṭṭho manussesu,
訓練者は 最上 人間の中で
yotivākyaṁ titikkhati.
人・誹謗に 耐える

訓練された象が集められ
訓練された象に王が乗る。
人間の中で最高の訓練者は
誹謗に耐える人だ。

解説
誹謗中傷に耐えて自制心を鍛えることは、最高の目標を目指す人にとって非常に良い訓練です。誹謗に耐え忍ぶブッダは決して可哀想ではないのです。むしろいい機会を得たのです。

DhP.322

varam assatarā dantā,
優れる ラバ 訓練された
ājānīyā ca sindhavā;
良馬 または シンドゥ産の
kuñjarā ca mahānāgā, 
象 または 巨象
attadanto tato varaṁ.
自分を・訓練した人 それより 優れる

訓練されたラバや
シンドゥ産の名馬
象や巨象は素晴らしい。
自分自身を訓練した人は
それよりも素晴らしい。

解説
Assatara(ラバ)は、雄のロバと雌のウマを交配させた家畜です。

DhP.323

na hi etehi yānehi,
ない 実に これらの 乗物により
gaccheyya agataṁ disaṁ;
行ける 未到の 地に
yathattanā sudantena,
ように・自分を よく・訓練して
danto dantena gacchati.
訓練者が 訓練により 行く

実際にはこれらの乗り物で
未到の地に行けない。
自分自身をよく訓練した
鍛えた人が
訓練によって到達できる。

解説
未到の地=涅槃です。ラバでも、シンドゥ産の名馬でも、象や巨象に乗っても、最終目標である涅槃には行くことはできません。自分自身を訓練するによってのみ、涅槃に到達することができます。訓練とは8つの正しい道を実践することです。

DhP.324

dhanapālako nāma kuñjaro,
ダナパーラという 名前の 象は
kaṭukappabhedano dunnivārayo;
激しい・破壊の 難しい・禁制
baddho kabalaṁ na bhuñjati,
縛られて 食べ物を ない 食べる
sumarati nāgavanassa kuñjaro.
想う 象を・森の 象は

ダナパーラという名の象は
強い破壊力を持ち
抑えるのが難しい。
捕まっても餌を食べずに
森に残る象を想う。

解説
dhanapāla
(ダナパーラ)は「dhana(財の)+pāla(守護者)」財を守るという意味です。この象の本当の名前は、ナーラーギリです。ナーラギリは捕らえられて、人間に利用されていた凶暴な象です。古代インドにおいて象は、王国の重要な戦力で、敵軍に突撃して踏みつぶすために使われていました。戦いで敵を踏みつぶせば、食べ物がふんだんに与えられました。

エピソード
ブッダ の従兄弟であり、弟子だったデーヴァダッタは、ブッダの地位を狙って、ブッダを3回殺そうとした邪悪な僧侶です。暗殺計画が2回失敗し、「人間ではブッダの威厳を前に暗殺は不可能」と考えました。そして「象なら、ブッダもダンマもサンガも関係なく、ブッダを殺せるはずだ」と、象を使ってブッダを殺そうと計画しました。

デーヴァダッタは王を騙し、象使いを騙して、凶暴な象ナーラーギリにトディ(ヤシの樹液を樹上で天然発酵させた酒。強壮剤として飲ませる)を通常の倍量飲ませて、ブッダが歩く通りに放つよう仕向けました。

象はブッダに向かって突進してきました。ブッダと一緒にいた比丘たちは、ブッダに引き返すよう頼みましたが、ブッダは「恐ることはない。正覚者(ブッダ)の命を暴力によって奪える、ということはありえない」とひるみませんでした。

見かねたサーリプッタ(ブッダ の二大弟子)が、「私が代わりに象をなだめます」と申し出ましたが、「ブッダと弟子では力が違う。あなたが面倒を見る必要はない」と断りました。

アーナンダ(ブッダ の秘書であり弟子)は我慢できなくなり、ブッダを守るためにブッダの前に立ちはだかりました。ブッダはアーナンダに、「私の前にいてはいけない」と忠告しましたが、アーナンダはブッダ の前から離れようとしません。そこでブッダは、神通力を使ってアーナンダを移動させました。

ナーラーギリ象が鼻を振り上げて、ブッダに一撃を加えました。ところが、ブッダはそれを軽々とかわしました。何度やっても同じです。そのブッダ の瞳は恐れも敵意もなく、ただ深い慈悲の愛に満ちていました。そしてナーラーギリに言いました。「象は象らしく生きていけばいい。人間におもねることもなく、自由に悠々とこの大地を歩いたらどうだ」

象は正気を取り戻し、長い鼻を下げて両耳を垂れ、ブッダのもとへ近づきました。ブッダは右手を伸ばして、象の額をなでました。

この光景に驚いた民衆は、象の体にあらゆる装飾品を投げて覆いました。それ以来、ナーラーギリ象はダナパーラ(Dhanapāla)財を護る者」と呼ばれるようになりました。

DhP.325

middhī yadā hoti mahagghaso ca, 
惛沈 の時に ある 大食漢 と
niddāyitā samparivattasāyī;
眠る ころごろする
mahāvarāho va nivāpapuṭṭho, 
大きな・豚 のように 餌で・育った
punappunaṁ gabbham upeti mando.
何度も 母胎に・至る 鈍いの人は

眠りこけて大食いで
ゴロゴロしている
怠け者は
よく肥えた大豚のように
何度も生まれ変わる。

解説
お腹いっぱいに食べれば、眠くなります。もし3食食べるならば、3回眠くなります。瞑想していても、眠くなります。眠くなったことに気づいていれば、まだマシです。瞑想しているつもりで、寝ていることも多いのです。

瞑想修行を妨げる5つの障害(五蓋)の1つが「怠惰・眠気」です。どうして眠くなるのでしょう?

心の本質は眠ることが大好きです。やる気を失って眠くなるのは、6つの感覚器官の対象を認識したくない状態です。あれこれ反応したり、悩んだり、苦しんだりして疲弊するよりも、何もしないで寝ている方が、心のとっては楽なのです。

DhP.326

idaṁ pure cittam acāri cārikaṁ,
これ 過去は 心は 歩いた 徘徊
yenicchakaṁ yatthakāmaṁ yathāsukhaṁ;
所に・欲した ように・好き ように・楽
tad ajjahaṁ niggahessāmi yoniso,
それ 今 抑制する 根源から
hatthim pabhinnaṁ viya aṅkusaggaho.
象を 暴れる のように 象使い

以前、私の心は
欲の赴くままに好きなように
楽なように彷徨っていた。
今、私は自分の心を根本から
コントロールする。
象使いが暴れる象を操るように。

解説
心は意識しなければ、自由気ままに飛び回って、刺激を得てエネルギーにしようとします。外に刺激的な対象が見つからなければ、心を過去や未来に飛ばして、自主的に作ります。想像が妄想になり、幻想に期待したり()、被害妄想(怒り)や誇大妄想(無知)によって心を振り回わす(悩み苦しむ)ことで、エネルギーを得ます。

DhP.327

appamādaratā hotha,
不・怠惰・楽しむ あれ
sacittam anurakkhatha;
自分の・心を 守りなさい
duggā uddharathattānaṁ,
難しい・道から 引き上げよ・自分を
paṅke sanno va kuñjaro.
汚泥に 沈んだ ように 象の

気づきを楽しみ
自分の心を守りなさい。
悪路から抜け出しなさい。
泥沼にはまった象が
這い出すように。

エピソード
歳をとって弱った象がいました。ある時、象は池に行こうとして泥沼にはまってしまいました。象使いたちは象を助けようと太鼓を叩きました。象は気合を入れ、泥の中から抜け出しました。これを聞いたブッダは、「象が泥の中から自分を引きずり出したように、私たちも穢れや苦しみの泥の中から、自分を引きずり出さなければならない」と、この詩句を語りました。

DhP.328

sace labhetha nipakaṁ sahāyaṁ,
もし 得た 賢明な 仲間を
saddhiṁ caraṁ sādhuvihāridhīraṁ;
共に 歩む 善い・生活する・賢者を
abhibhuyya sabbāni parissayāni,
克服するだろう 全ての 困難を
careyya tenattamano satīmā.
行くだろう それ故・心に 気づきある

もし正しい生活する
賢明な仲間を得たなら
一緒に歩みなさい。
思慮深い心で
気づきをもって歩み
あらゆる困難を克服するだろう。

解説
ブッダの言う賢明な友とは、4つの聖なる真理を教え、8つの正しい道を共に実践できる人のことです。

DhP.329

no ce labhetha nipakaṁ sahāyaṁ,
ない もし 得た 賢明な 仲間を
saddhiṁcaraṁ sādhuvihāridhīraṁ;
共に・歩む 善い・生活する・賢者を
rājā va raṭṭhaṁ vijitaṁ pahāya,
王の ように 国を 征服した 捨てて
eko care mātaṅgaraññe va nāgo.
ひとりで 歩け 林中の象 ように 象は

もし正しい生活する
賢明な仲間を得られないなら
王が征服した国を捨てるように
森の中の象のように
一人で歩きなさい。

解説
もし、価値のある善い仲間を見つけられなければ、悪い人と付き合うよりも、一人でいる方がいいのです。善い仲間とは、私たちを教え、導き、従うに値する善い手本を示してくれる、とても大切な存在です。

DhP.330

ekassa caritaṁ seyyo,
ひとりの 歩みが よりよい 
natthi bāle sahāyatā;
ない 愚者と 親交は
eko care na ca pāpāni kayirā,
ひとり 歩め ない と 悪を 行う
appossukko mātaṅgaraññe va nāgo.
少ない・楽は 林中の象 ように 象は

愚かな人と付き合うよりも
ひとりで生きる方がいい。
森の中の象のように
少しで満足してひとりでいれば
悪いことはしない。

解説
愚かな人とつきあうと、非常にストレスがたまります。どうしてでしょう? 愚かな人は、自分が愚かであることを自覚していないからです。そんな人たちと一緒にいるよりも、一人になって精神的な成長と覚醒にだけ集中したほうがずっといいのです。

もしひとりでいることが寂しいと感じるならば、それは心が未熟な証拠です。寂しさを紛らす楽しみを他者に求めているのです。

DhP.331

atthamhi jātamhi sukhā sahāyā,
必要な時 生じる時 幸せ 仲間 
tuṭṭhī sukhā yā itarītarena;
満足する 幸せ ことも どんな
puññaṁ sukhaṁ jīvitasaṅkhayamhi,
功徳は 幸せ 生命・消滅時
sabbassa dukkhassa sukhaṁ pahāṇaṁ.
すべての 苦しみ 幸せ 捨てること

困った時に仲間がいるのは幸せ
なんでも満足できるのは幸せ
人生の終わりに徳があるのは幸せ
すべての苦しみを捨てるのは幸せ

エピソード
ブッダは、多くの人々が悪どい王様たちから不当な扱いを受けているのを知りました。どうにかして王様たちに、公正で賢明な統治をさせることができないものかと考えていました。するとマーラ(自分自身の煩悩の化身)が、「自分が王になって統治すればいい」と告げました。しかしブッダは、「邪悪なマーラよ。あなたの教えと私の教えは全く違います。あなたと私は何の議論もできない。これが私の教えです」と答えて、DhP.331〜333を語りました。

DhP.332

sukhā matteyyatā loke,
幸せ 母への孝行 この世で
atho petteyyatā sukhā;
また 父への孝行 幸せ
sukhā sāmaññatā loke, 
幸せ 沙門への奉仕 この世で
atho brahmaññatā sukhā.
また バラモンへの奉仕 幸せ

この世では
母に奉仕することは幸せ
父に奉仕することも幸せ
出家者に奉仕することは幸せ
アラハンに奉仕することも幸せ。

解説
ブッダの時代、親を大切にしないことは犯罪でした。現代でも親孝行は、社会の基本的な務めです。ここではアラハンに尽くすことは、親に尽くすことと同じく重要だとしています。なぜなら、両親が生きている間に覚醒できれば、両親に教えたり、両親が覚醒に向かうのを助けたりできるからです。

DhP.333

sukhaṁ yāva jarā sīlaṁ, 
幸せ まで 寿命  戒は
sukhā saddhā patiṭṭhitā;
幸せ  確信が 定立している
sukho paññāya paṭilābho, 
幸せ 智慧を 得ることは
pāpānaṁ akaraṇaṁ sukhaṁ.
悪を ない・為す 幸せ

生涯、道徳を守ることは幸せ
確信が揺るぎないことは幸せ
智慧を得ることは幸せ
悪いことをしないのは幸せ。

解説
覚醒(涅槃)への道を歩むために、大切な4つの要素です。

1:道徳(シーラ)を守る
他の生き物を傷つけない。与えられていないものは取らない。誤った性行為はしない。嘘をつかない。酒や薬など酔うものを摂取しない。

2:自分が選んだ道を信じる
正しい目的に向かっているのか、ブッダが教えた方法が本当に有効なのか、という信頼の確立です。つまり自分を信じることです。

3:智慧を得る
これは自分の心を洞察することで獲得できる智慧です。知識として頭で理解するのではなく、自分の体験の中で実感することで智慧が体得できます。

4:悪事をしない
私たちは常に小さな悪事を重ねています。無知だからです。まずは自分が、そのことに気づくことです。

ダンマパダ23章「象」了