Bāla-vaggo 愚かな人の章
ダンマパダ5章は、Bāla「愚かな人」をテーマにしています。
Bāla(バーラ)の原義は「未熟、話すことができない、子供のような」という意味です。つまり、今現在は愚かではあっても、改善の余地がある人です。
この章は、自分自身の未熟さ・愚かさの現状を自覚するための章です。
DhP.060
dīghā jāgarato ratti, 長い 眠らない人には 夜は dīghaṁ santassa yojanaṁ; 長い 疲れた ヨージャナ dīgho bālānaṁ saṁsāro, 長い 愚か者にとって 輪廻は saddhammaṁ avijānataṁ. 本当のダンマを 無明
眠れない人にとって
夜は長く
疲れている人にとって
10キロの道は長い。
真のダンマを知らない
愚かな人にとって
輪廻は長〜く続く。
解説
yojanaṃ:ヨージャナ。古代インドの距離の単位。牛車の一日行程であり、1ヨージャナ=約8マイル=約12.8kmです。
saṁsāra:輪廻
avijā:無明。無知(moha)と同義ですが、a(ない)+vijā(智慧):智慧が現れていない。真理に明るくない、真理が見えていない、という意味です。明かりがなければ目が見えないのと同様に、物事の本質が見えていない=智慧がないということです。仏教用語では「無明」と呼びます。
DhP.061
carañ ce nādhigaccheyya, 歩く もし ない・見つけるなら seyyaṁ sadisam attano; より優れた 同等の 自分と ekacariyaṁ daḷhaṁ kayirā, 1人で歩く しっかりと するべき natthi bāle sahāyatā. ない・する 愚か者と 親交
自分よりも優れた人か
あるいは似たような仲間を
見つけられなければ
毅然とした態度で1人でいなさい。
愚かな人とは関わらずに。
エピソード
長老マハーカッサパは、ラージャガハの近くに滞在していた時、2人の修行僧を連れていました。1人はとても優秀で勤勉で礼儀正しく従順でしたが、もう1人は怠け者で礼儀知らずのいたずら好きでした。
ある日、カッサパが怠け者の修行僧を諭すと、彼は怒り出しました。そして施しをもらいに村に行き、カッサパが病気だと嘘をつきました。人々は「カッサパのために」と思って、たくさんのおいしい食べ物を与えました。するとこの修行僧は全部自分で食べてしまい、手ぶらでカッサパのところに戻ってきました。
彼はもう一度諭されましたが、悔い改めるどころか、さらに怒り出しました。次の日、カッサパが托鉢に出かけると、その修行僧はすべての物を壊して、僧院に火をつけました。これを聞いたブッダは「カッサパはこんな馬鹿と一緒にいるよりも、一人で生きていった方がいい」とこの言葉を語りました。
DhP.062
puttā matthi dhanam matthi, 息子 私の存在 財産 iti bālo vihaññati; だと 愚か者は 憂う attā hi attano natthi, 自我 さえ 自分は ない・存在 kuto puttā, いかなる理由で 息子 kuto dhanaṁ. いかなる理由で 財産
私の息子が…
私の財産が…
と愚かな人は心配する。
私という自我さえ
存在しないのに
どうして息子や財産がある?
エピソード
サーヴァッティという町に、裕福だけどとてもケチな男が住んでいました。慈善事業で何かを与えることもなく、死ぬ前に5つの黄金の壺を庭に埋めましたが、そのことは息子にすら教えませんでした。
彼は、隣の貧乏な村で生まれ変わりました。母親が彼を身ごもった時から、収入は激減しました。母親が一人で物乞いに行くと、それなりの収入がありましたが、少年を連れて行くと、何も得られませんでした。 母は少年を一人で物乞いに行かせ、置き去りにしました。
少年はサーヴァッティを彷徨い歩き、前世での息子の家にたどり着きました。息子は汚い少年を追い出そうとしました。
その様子を見ていたブッダは、その乞食は死んだ父親であることを息子に伝えました。息子がそれを信じなかったので、ブッダは少年に黄金をどこに埋めたのかを明かすように命じました。
解説
このエピソードでは、現世に存在する少年=前世の父親として、無我を説明していますが、「私」などという自我は、そもそも前世にも現世にも存在しません。自身が心に作り出した現象なのだから、そもそも存在しない「私」に息子も財産もない、という教えです。
DhP.063
yo bālo maññati bālyaṁ, 人 愚か者は 思う 愚かだと paṇḍito vā pi tena so, 賢い または たとえ それ故 彼は bālo ca paṇḍitamānī, 愚か者は と 賢い・慢心のある人 sa ve bālo ti vuccati. 彼は 実に 愚か者 と 言われる
自分を愚かだ
と思う愚かな人は
少なくともその範囲では賢明。
自分は賢い
と自負する愚かな人は
実に愚か!
解説
ブッダは愚か者には2つのタイプがあると言っています。1つは自分の過ちを過ちだと思わない人、もう1つは他人の犯した過ちを許さない人です。
DhP.064
yāvajīvam pi ce bālo, 長い人生 実に と 愚か者は paṇḍitaṁ payirupāsati; 賢者に 仕えても na so dhammaṁ vijānāti, ない 彼は ダンマを 了知する dabbī sūparasaṁ yathā. 匙 スープを・味わう ように
愚かな人は
賢者に一生仕えても
ダンマを理解できない。
匙がスープを味わえないように。
解説
「匙がスープを味わうことができない」のはなぜでしょう? 匙には感覚がないからです。
スープの味を理解するためには、味覚が必要です。味覚を発揮するためには、スープの刺激を受けとめる感覚器官がなくてはなりません。舌です。スープが舌と接触してはじめて、味覚が生じます。
生き物には、なんらかの感覚が必ずあります。愚かな人は、感覚に振り回されるだけで、感覚を理解できていない人です。
DhP.065
muhuttam api ce viññū, 瞬間 実に たとえ 聡明な者 paṇḍitaṁ payirupāsati; 賢者に 仕えても khippaṁ dhammaṁ vijānāti, すぐに ダンマを 了知する jivhā sūparasaṁ yathā. 舌が スープを・味わう ように
聡明な人はたとえわずかな時間
賢者に仕えただけでも
すぐにダンマを理解できる。
舌がスープを味わうように。
解説
舌がスープを味わうように、目・耳・鼻・身体・心を通して外から入る刺激について、いま自分がどのように感じているのかに気づくことが大切です。
DhP.066
caranti bālā dummedhā, 行う 愚かな 困難・知恵 amitteneva attanā; 敵のように 自我 karontā pāpakaṁ kammaṁ, 為して 悪しき 行為を yaṁ hoti kaṭukapphalaṁ. その 存在 辛い・果実
浅はかで愚かな人は
まるで自分自身が
敵であるかのように
悪いことをして辛い結果になる。
解説
私たちが何かの行為をすると、それが原因となり、必ず結果が生じます。「因果の法則」です。因果の法則は恐ろしいものではありません。自然(宇宙)は、私たちに試練を与えます。それは災難であったり、幸運であったりします。試練に出会った時、どう対処するかで、その後の人生の方向が決まります。これが因果の法則=自然の法則です。
「親の因果が子に報う」は、自然の法則ではありません。自分がした行為の結果を受け取るのは、必ず自分自身です。生まれ変わった来世の自分が結果を受け取ることはありますが、いずれにせよ、必ず自分に還ります。子供や孫が結果を引き継ぐことはありません。
DhP.067
na taṁ kammaṁ kataṁ sādhu, ない 彼は 行為 為された 善く yaṁ katvā anutappati; それは 為した 悩まされる yassa assumukho rodaṁ, その 泣き顔 喚く vipākaṁ paṭisevati. 果報に 受ける
悪いことをすれば
後で後悔し
その報いを受けて
泣くことになる。
解説
悪いことをしたからといって、自然が行為者を罰するのではありません。
自分がした行為と同じことを、結果として自分が体験するということです。自然の法則として、自分が何かの行為を為すと、それと同じ行為を逆の立場から体験するという仕組みがあるのです。現象を両面(陰と陽)から体験することで学びとなるからです。
この時の行為は、善行為でも悪行為でも同じです。自然は善悪を区別することも、判断もしません。ただ、行為を為せば(原因をつくる)、結果がかえるのです。だから、私たちが自分がされて嫌なこと=悪いことは、しない方が嫌な思いを後でしないよ、ということです。
DhP.068
tañ ca kammaṁ kataṁ sādhu, それの そして 行為が 為した 善き yaṁ katvā nānutappati; その 為して ない・後悔 yassa patīto sumano, その 満足して 幸福 vipākaṁ paṭisevati. 果報 受け取る
善いことをすれば
後悔することはなく
果報を受け取り満足して
幸せになる。
解説
善行為は、それをした後で後悔することはありません。いいことをすれば、清々しい気持ちになりますよね。それだけでも十分満足ですが、さらにその恩恵を結果として受け取るのです。
欲・怒り・無知がない心で、行為を為せば、それは善行為になります。
「生きる」ということは行為の連続です。呼吸する、ごはんを食べる、料理する、掃除する、仕事する、勉強する、遊ぶ、排泄する、しゃべる、寝る……等々。「考える」ことも行為です。身体は動かしていませんが、行為です。「興奮する」ことや「憎む」のも、顔には出ていなくても、行為です。生きるとは、何かの行為をし続けることです。
DhP.69
madhuvā maññati bālo, 蜜の如き 思う 愚か者は yāva pāpaṁ na paccati; まで 悪い ない 苦しめられる yadā ca paccati pāpaṁ, の時に そして 苦しめられる 悪い bālo dukkhaṁ nigacchati. 愚か者は 苦悩 受ける
愚かな人は
悪行の報いを受けるまでは
それを甘い蜜のように思う。
でも、その罪の報いを
受けた時に苦しむ。
エピソード
サーヴァティーにある金持ちの娘がいました。その娘はとても美しく、青い蓮の花のように優しくて甘い表情をしていたので、「ウッパラヴァンナ(青い蓮)」と呼ばれていました。彼女の美しさは広く伝わり、王子や金持ちなど多くの求婚者がいました。しかし、彼女は出家して尼僧になろうと考えました。
ある日、ランプに火をつけた後、彼女は炎に心を留め、火を集中対象にして瞑想していると、すぐに洞察を得て、ついにアラハンとなりました。
しばらくして彼女は森の中の僧院に移り、瞑想しながら独りで暮らしていました。ある日、彼女が托鉢に出かけている間、彼女の叔父の息子であるナンダが彼女の僧院にやってきて、ソファの下に潜んでいました。ナンダは、ウッパラヴァンナに恋していたので、力づくで彼女を奪おうとしたのです。
ウッパラヴァンナが戻ってくると、ナンダを見つけ、「愚か者。危害を加えないでください」と言いました。しかし彼は止めませんでした。満足した彼は、彼女のもとを去りました。彼が地面を踏んだ途端、大地が大きく開き、彼は飲み込まれてしまいました。
解説
ブッダ はこのようなことを懸念して、女性が出家することに反対でした。そしてこの事件の後ブッダ は、街中に尼僧専用の僧院を作るよう、王にお願いしました。
「甘い汁を吸う」という言葉があります。他人をうまく利用して良い思いをする悪い行為です。「甘い言葉」は、話しぶりが巧みで、人をたぶらかす行為。甘い考え、子供に甘い親、甘く見る、甘い罠、甘い誘惑。こうしてみると、甘い行為は、どれも悪い行為です。そして人は、甘いものに弱いのです。
DhP.070
māse māse kusaggena, 月に 月に 草の葉先 bālo bhuñjetha bhojanaṁ; 愚か者は 食べる 食べ物 na so saṅkhātadhammānaṁ, ない 彼は 悟った・ダンマを kalaṁ agghati soḷasiṁ. 微音 値する 16分の
愚かな人が毎月、毎月
断食をしたところで
ダンマを悟った人の
16分の1の価値もない。
解説
草の先ほどの食べ物を食べる=断食。kalaṁ agghati soḷasiṁ:16分の1にも値しない。
当時のインドでは、解脱するためには苦行が必要だと信じられていました。ブッダは35歳で解脱するまで、慣習に従ってあらゆる苦行を実践しました。そして「王族の楽な生き方では解脱できないのと同様に、苦行もまた解脱には至らない」と、気づいたのです。修行は心を育てることであり、肉体を甘やかしたり、痛めつけても意味はなく、心は育たないと理解したのです。必要なのは、心の観察と訓練です。
DhP.071
na hi pāpaṁ kataṁ kammaṁ, ない 実に 悪い 為した 行為を sajju khīraṁ va muccati; 直ちに 牛の乳が ように 放出する ḍahantaṁ bālam anveti, 燃える 愚か者に 従っていく bhasmacchanno va pāvako. 灰で覆われた ように 火
悪いことをしても、
牛の乳が飛び出すように
すぐに結果が出るわけではない。
灰に埋もれた炭火は
愚かな人の身を焦がす。
解釈
悪事を働いている時には何の影響もないように見えても、将来必ず結果がやってきます。灰に覆われて炭火が見えないからといって、火がないわけではありません。
DhP.072
yāvad-eva anatthāya, だけ 無・利益 ñattaṁ bālassa jāyati; 知識 愚か者は 生む hanti bālassa sukkaṁsaṁ, 害する 愚か者は 徳を muddham assa vipātayaṁ. 混乱 彼の 破壊する
愚かな人の知恵は
不幸を生むだけ。
役に立たず混乱して
自分の害になるだけ。
解釈
愚かな人の考えは、欲・怒り・無知から生まれているのです。人が為す行為は、心・言葉・身体の3つがあります。心で思っただけでも悪い行為になり、自分の害になるのです。
DhP.073
asataṁ bhāvanam iccheyya, 虚偽の 存在の・理由を 願う purekkhārañ ca bhikkhusu; 尊敬 そして 比丘において āvāsesu ca issariyaṁ, 住居において そして 主権を pūjā parakulesu ca. 供養 他の・家において そして
愚かな修行者は求めてしまう。
他の修行者からの尊敬と
僧院での権力
そして在家にはお布施を。
私は他人から良く思われたい。私は他人から注目されたい。私は他人から褒められたい。
私たちは、承認欲求や所属欲求を満たすことで、自分の存在理由を確認したい生き物です。愚かな人は、自分の存在価値を誇示したいがために、他者からの尊敬や権力を求めるものです。
そこには常におごる心、慢心があります。また、私と他人という隔たりが必ずあります。
DhP.074
mameva kata’ maññantu, 私・だけ なした 思い込む gihī pabbajitā ubho; 在家・出家 両者 mameva ativasā assu, 私・だけ 権力が ある kiccākiccesu kismici; あれこれしろ 人に iti bālassa saṅkappo, こうして 愚か者による 思考は icchā māno ca vaḍḍhati. 欲求 傲慢 そして 増大する
私だけができる!
在家も出家も皆、
どんなことでも私に従え!
愚かな人の考えはこうして
欲も傲慢も増える。
解釈
もし私たちが周囲に執着しすぎて、自分自身をそれと同一視してしまうと、私たちの欲望は大きくなります。また、自分だけが物事のやり方を知っていると思ったり、何をするにしても自分のリーダーシップにみんなが従ってくれると期待したりすると、プライドが高くなるばかりです。言うまでもなく、欲望とプライドは、覚醒への道を阻むものです。
DhP.075
aññā hi lābhūpanisā, 他の 実に 利得・縁 aññā nibbānagāminī; 他の 涅槃・至る evam etaṁ abhiññāya, この ことを よく・理解し bhikkhu buddhassa sāvako; 比丘は ブッダの 弟子は sakkāraṁ nābhinandeyya, 尊敬を ない・喜ぶように vivekam anubrūhaye. 遠離に 従って・発展せよ
1つは世俗的な利益
もう1つは涅槃に至る道。
修行者は、このことを
十分に理解した上で
尊ばれても喜ぶことなく
孤独に身をゆだねて
成長しなさい。
解釈
私たちは大人のつもりでいますが、この世には本当の大人はいないのかもしれません。肉体的には成熟し、衰えても、精神的には未熟なまま死を迎え、だからこそ、輪廻して再び生まれるのかもしれません。ブッダ のいう愚か者とは、そうした精神的な未熟者のことで、つまり私たち全員なのかもしれません。
ダンマパダ5章「愚かな人」了