レディ・サヤドー『アーナーパーナ瞑想マニュアル ③』

レディ・サヤドーの著書「Ānāpāna Dīpanī(呼吸瞑想のマニュアル)」の続きです。

11. 第2の四分法

次に、集中(appanā-jhāna)達成の段階である固定法の段階で試みられる、あるいは実践される第2の四分法について説明する。

‘Pītippaṭisaṃvedī assasissāmī’ti sikkhati,
喜びを・感じながら 入息しよう・私は と 訓練する
‘Pītippaṭisaṃvedī passasissāmī’ti sikkhati.
喜びを・感じながら 出息しよう・私は と 訓練する

‘Sukhappaṭisaṃvedī assasissāmī’ti sikkhati,
幸せを・感じながら 入息しよう・私は と 訓練する
sukhappaṭisaṃvedī passasissāmī’ti sikkhati.
幸せを・感じながら 出息しよう・私は と 訓練する

‘Cittasaṅkhārapaṭisaṃvedī assasissāmī’ti sikkhati.
心の・形成作用を・感じながら 入息しよう・私は と 訓練する
‘Cittasaṅkhārapaṭisaṃvedī passasissāmī’ti sikkhati.
心の・形成作用を・感じながら 出息しよう・私は と 訓練する

‘Passambhayaṃ cittasaṅkhāraṃ assasissāmī’ti sikkhati.
安静に 心の・形成作用 入息しよう・私は と 訓練する
‘Passambhayaṃ citta­saṅkhāraṃ passasissāmī’ti sikkhati.
安静に 心の・形成作用 出息しよう・私は と 訓練する

「喜びを感じながら、私は息を吐く」と訓練する。
「喜びを感じながら、私は息を吸う」と訓練する。

「幸せを感じながら、私は息を吐く」と訓練する。
「幸せを感じながら、私は息を吸う」と訓練する。

「心の反応を感じながら、私は息を吐く」と訓練する。
「心の反応を感じながら、私は息を吸う」と訓練する。

「心の反応を鎮めて、私は息を吐く」と訓練する。
「心の反応を鎮めて、私は息を吸う」と訓練する。

  1. 対象となるニミッタ)が現れたら、喜び(pīti)が優勢となる第1、第2のジャーナに到達するまで努力することが、「喜びを感じる」ということである。
  2. 幸福感(sukha)が優勢となる第3ジャーナに到達するまで努力することが、「幸せを感じる」ということである。
  3. 平静な心を形成する作用(citta-saṅkhāra)が優勢となる第4のジャーナに達するまで努力することが、「心の反応を感じる」ということである。
  4. 粗雑な感情や感覚を鎮める努力をすることが、「心の反応を鎮める」ということである。

解説書では、この四分法は達成集中に関連付けられているが、喜び・幸福感・平静の感覚もまた、接近集中に関連付けられている。

これで第2の四分法を終了する。

12. 第3の四分法

それでは、達成集中に入るときの練習法を記した第3の四分法について説明する。

‘Cittapaṭisaṃvedī assasissāmī’ti sikkhati. 
心を・感じながら 入息しよう・私は と 訓練する
‘Cittapaṭisaṃvedī passasissāmī’ti sikkhati.
心を・感じながら 出息しよう・私は と 訓練する

‘Abhippamodayaṃ cittaṃ assasissāmī’ti sikkhati.
喜ばせる 心を 入息しよう・私は と 訓練する
‘Abhippamodayaṃ cittaṃ passasissāmī’ti sikkhati.
喜ばせる 心を 出息しよう・私は と 訓練する

‘Samādahaṃ cittaṃ assasissāmī’ti sikkhati. 
集中させて 心を 入息しよう・私は と 訓練する
‘Samādahaṃ cittaṃ passasissāmī’ti sikkhati.
集中させて 心を 出息しよう・私は と 訓練する

‘Vimocayaṃ cittaṃ assasissāmī’ti sikkhati. 
解放させて 心を 入息しよう・私は と 訓練する
‘Vimocayaṃ cittaṃ passasissāmī’ti sikkhati.
解放させて 心を 出息しよう・私は と 訓練する

「心を感じながら、私は息を吐く」と訓練する。
「心を感じながら、私は息を吸う」と訓練する。

「心を喜ばせて、私は息を吐く」と訓練する。
「心を喜ばせて、私は息を吸う」と訓練する。

「心を集中させ、私は息を吐く」と訓練する。
「心を集中させ、私は息を吸う」と訓練する。

「心を解放して、私は息を吐く」と訓練する。
「心を解放して、私は息を吸う」と訓練する。

  1. 心の知覚を極めて明瞭にするために、4つのジャーナに繰り返し入ることが、「心を感じる 」ことである。
  2. 心の知覚が極めて明瞭である時、(喜びに関連する)第1ジャーナと第2ジャーナに繰り返し入ることによって、心を著しく喜ばせることが、「心を歓喜させる」ことである。
  3. 心が非常に喜んでいる時、第3ジャーナと第4ジャーナに入ることで、心を徹底的に集中させることが「心を集中させる」ことである。
  4. 4つのジャーナに繰り返し入ることによって、心を障害から解放することが、「心を解放する 」ことである。

注釈書では、この4つを到達集中と関連づけているが、接近集中に関連する修行も含まれている。

これで第3の四分法を終了する。

13. 第4の四分法

次に、呼吸の気づきから洞察に至る方法を記した第4の四分法について説明する。

‘Aniccānupassī assasissāmī’ti sikkhati. 
無常を・観察しながら 入息しよう・私は と 訓練する
‘Aniccānupassī passasissāmī’ti sikkhati.
無常を・観察しながら 出息しよう・私は と 訓練する

‘Virāgānupassī assasissāmī’ti sikkhati. 
離欲を・観察しながら 入息しよう・私は と 訓練する
‘Virāgānupassī passasissāmī’ti sikkhati.
離欲を・観察しながら 出息しよう・私は と 訓練する

‘Nirodhānupassī assasissāmī’ti sikkhati. 
滅尽を・観察しながら 入息しよう・私は と 訓練する
‘Nirodhānupassī passasissāmī’ti sikkhati.
滅尽を・観察しながら 出息しよう・私は と 訓練する

‘Paṭinissaggānupassī assasissāmī’ti sikkhati.
捨離を・観察しながら 入息しよう・私は と 訓練する
‘Paṭinissaggānupassī passasissāmī’ti sikkhati.
捨離を・観察しながら 出息しよう・私は と 訓練する

「無常を観察しながら、私は息を吐く」と訓練する。
「無常を観察しながら、私は息を吸う」と訓練する。

「離欲を観察しながら、私は息を吐く」と訓練する。
「離欲を観察しながら、私は息を吸う」と訓練する。

「消滅を観察しながら、私は息を吐く」と訓練する。
「消滅を観察しながら、私は息を吸う」と訓練する。

「放棄を観察しながら、私は息を吐く」と訓練する。
「放棄を観察しながら、私は息を吸う」と訓練する。

洞察の進め方については後述する。

これで第4の四分法を終了する。

14. 気づきの基盤はどのように築かれるか

ブッダは、呼吸の気づきを修め、大いに活用する者は、気づきの4つの基礎の発展も達成すると述べた。ここでは本質的な意味についてだけ述べる。

これまで説明した4つの四分法において、カウント段階と追従段階を含む最初の四分法における努力は、完全に身体の気づきを確立(kāyānupassanā-satipaṭṭhāna)することからなる。出息と入息は、物質の集合体(rūpakkhandha)の一部であり、カーヤ(kāya 身体)と呼ばれる。「kāyesu kāyañatarāhaṃ bhikkhave etaṃ vadāmi yadidaṃ assāsapassāsā(これは身体の中のある部分、すなわち、息を吸うことと息を吐くことである」(M.iii.83)

第2の四分法における修行は、感情の気づきを確立(vedanānupassanā-satipaṭṭhāna)することである。「Vedanāsu vedanaññātarāhaṃ bhikkhave etaṃ vadāmi. Yadidaṃ assāsapassāsānaṃ sādhukaṃ manasikāraṃ.(これは感覚の中のある感覚、すなわち、息を吸うことと、吐くことに細心の注意を払うことである」 (M.iii.84)

「Sādhukaṃ(近い、徹底的な)」は、「Pītippaṭisaṃvedī(喜びを感じながら)…etc.」で必要とされる特別な努力を示す。ここでは、出息と入息に注意を向け続けながら、智慧を伴って感覚を明確に認識する努力がなされる。

第3の四分法の修行は、意識の気づき(cittānupassanā-satipaṭṭhāna)を確立することからなる。ここでもまた、出息と入息に注意を向け続けながら、智慧を伴って心を完全に知覚する努力がなされる。

無常観のような第4の四分法の修行は、心的対象への気づき(dhammānupassanā-satipaṭṭhāna)を確立することである。ここでもまた、出息と入息に注意を向け続けながら、貪欲(abhijjā)や憂い(domanassa)のような不善の状態を智慧で克服することによって、捨離を明確に認識する努力がなされる。

“Yo yaṃ abhijjādomanassānaṃ pahānaṃ taṃ paññāya disvā sādhukaṃ ajjhupekkhitā hoti.(貪欲や憂いを捨てることを智慧で見た者は、平静を保ってよく見ている」 (M.iii.84)

無常のような心的対象は、出息と入息とともに観察されるので、心的対象の心性を確立するという言い方もふさわしい。

15. 悟りの要因はどのように達成されるか

では、呼吸の気づきを達成した人が、悟りの7つの要素をどのように満たしているかを紹介しよう。

呼吸の気づきの作業は、気づきを日々より強固なものにしていくことからなるため、この作業は実質的に気づきの悟りの要素に相当する。呼吸の気づきを実践する瞑想者にとって、気づきが確固たるものとなり、気づきのない瞬間がなくなるとき、気づきの悟りの要素は満たされる。

呼吸の気づきを実践している瞑想者が、その実践に関連する現象を洞察するようになれば、現象の探求という悟りの要素が満たされる。

呼吸の気づきの実践におけるエネルギーの喚起は、エネルギーの悟りの要素を満たすものである。

喜びを観察する段階に達すれば、喜びの開発が進むことが歓喜の悟りの要素を満たすことになる。

呼吸の気づきを実践している間に歓喜に達すると、怠けや退屈という障碍が和らいで落ち着き、この落ち着きの成長段階が静寂の悟りの要素である。

静寂が発達すると、集中力が発達する。これが集中の悟りの要素である。

集中力が発達すると、不注意な心から生じる不安や心配がなくなり、平静という悟りの要素が開発される。

パーリ語テキストでは、悟りの7つの要素が、気づきの4つの基礎のそれぞれを確立することでどのように満たされるかを詳しく説明している。

16. 智慧と解放はいかにしてもたらされるか

呼吸を意識することから、洞察、道知(vijjā)、成道知(vimutti)へと進む方法を教えるために、ブッダはこう言った。

“Kathaṃ bhāvitā ca, bhikkhave, 
いかに 修習される そして 比丘たちよ
satta bojjhaṅgā kathaṃ bahulīkatā vijjāvimuttiṃ paripūrenti? 
7つの 覚支により いかに 発展させ 智慧と解放を 成し遂げる
Idha, bhikkhave, 
ここに 比丘たちよ
bhikkhu sati­saṃbojjhaṅgaṃ bhaveti vivekanissitaṃ 
比丘は 気づき・正しい・覚支を ある 遠離・依存する
virāganissitaṃ nirodha­nissitaṃ vossagga­parināmiṃ…
離欲・依存する 滅尽・依存する 最捨に・至る
Evaṃ bhāvitā kho, bhikkhave, 
このように 修習される 実に 比丘たちよ
satta saṃbojjhaṅgā evaṃ bahulīkatā vijjāvimuttim paripūrenti.” (M.iii.88)
7つの 正しい・覚支により このように 発展させ 智慧と解放を 成し遂げる

比丘たちよ、
智慧と解脱を得るためには、悟りの七つの要素をどのように発展させ、成し遂げなければならないか。
比丘たちよ、
ここで比丘は気づきという悟りの要素を発展させ、隠遁・無執着・滅尽によって、放棄することで達成される…
このように発展させ、成し遂げることで、比丘たちは、悟りの7つの要素である智慧と解脱を成就する。

***

隠遁(viveka)、無執着(virāga)、滅尽(nirodha)、放棄(vossagga)はすべて涅槃の同義語である。「現世で涅槃を達成することを目的として修行すること」が、隠遁などに依存することである。輪廻転生を止めることに依存する(vivaṭṭanissita)とも言う。単に功徳を積むために努力するのであれば、それは再生の輪廻に依存することである(vaṭṭanissita)。

カウント法追従法固定法(接近集中と到達集中が入る)に従って修行すれば、気づきの4つの基礎悟りの7つの要素を満たすことができる。しかし、死後のデーヴァとブラフマーの存在に憧れてそれを行うと、悟りの7つの要素は輪廻のサイクルに依存するようになる。接近集中、到達集中、無常観の達成で止まってしまうと、人は輪廻のサイクルに依存する方向に向きやすくなる。従って、遠離、離欲、滅尽、放棄に依るとは、現世において転生を止めることを目標に努力することであり、接近集中や到達集中のような達成に留まらないことである。転生を止めるとは、涅槃を意味する。

現在、ブッダサーサナ(ブッダの教え)の中にいる人々は、輪廻転生を止めることを達成するために取り組む機会があるので、その達成に全力を注ぐべきである。もし生まれ変わりを止めたいなら、智慧と解脱のために努力しなければならない。智慧と解脱を達成するためには、悟りの7つの要素を確立しなければならない。悟りの7つの要素を確立するためには、気づきの4つの基礎を確立しなければならない。気づきの4つの基礎を確立するためには、呼吸の気づきを実践しなければならない。呼吸の気づき、気づきの4つの基礎、悟りの7つの要素、智慧と解脱が達成されれば、悟りの37の条件も達成される。これがアーナーパーナ・スッタの要約された意味である。

この智慧と解脱を速やかに達成する方法は、「無常を観察しながら、息を吐く」…などと言われている第4の四分法で示されていることに他ならない。悟りの7つの要素が確立された後、道についての智慧と解脱、流転の成就、そして若干の残余を残した再生の停止(sa-upādisesa nibbāna)、つまりわずかな集合体が残ったままの涅槃が達成される。この時点で、間違った考えや迷いがなくなり、不善の行いや間違った生活から解放され、下界への転生から解放される。これはまさに今生で達成できる。

17. 洞察への進み方

ここで、第4の四分法の修行を簡潔に説明しよう。

いつヴィパッサナーに進むことができるか?
Ānāpānassati Suttaとその注釈では、修行の順序は、4つのジャーナが達成された後にのみ、第4の四分法の作業に着手することである。この順序を厳守できれば理想的である。しかし、この修行順序を守れないと判断した場合は、第3ジャーナから洞察に進むことができる。また、第2ジャーナから、あるいは第1ジャーナから、あるいはジャーナに到達する前の接近集中から、あるいは追従段階から、あるいは心の迷いを克服した後のカウント段階から、洞察に進むことも許される。

2つの方法
出息と入息に注意を向けるという作業を守りつつ、洞察に進むこともできるし、呼吸に注意を向けることを接近集中とみなし、5つの集合体のいずれかを注意の対象として洞察に進むこともできる。

ここで扱う『Ānāpānassati Sutta』では、「無常を観察する」という文章に従って、洞察の修行と呼吸を意識することを結びつけた方法を続けている。つまり、息を吐き、息を吸う時、その無常の特徴に心を向け、その無常をはっきりと認識しようとする特別な努力を加えなければならないということである。

カウント法と追従法の段階から
この2つの段階での作業は、出息と入息に注意を向け続け、智慧をもってそれらを知覚することだけである。したがって、これらの段階から洞察に進みたいのであれば、その努力は身体的現象に基づかなければならない。

固定法の段階から
接近集中の段階には2つの段階がある:感情の気づき意識の気づきである。第2の四分法(喜びを感じる…、幸せを感じる…)は、感情の気づきである。第3の四分法(心を感じる…)は、意識の気づきの段階である。感情の気づきから洞察に進みたいのであれば、その努力は感情の心的現象に基づかなければならない。意識の段階から洞察に進みたいのであれば、その努力は意識の心的現象に基づかなければならない。もし人が集中の達成の段階から進みたければ、努力は感情か意識か、あるいは到達したジャーナの特徴のいずれかに基づくことができる。

物質に基づくヴィパッサナー
カウント法
での努力が達成されたら、次に追従法に進む代わりに、「無常を観察する…など」の文章に従って、無常への洞察の段階に進まなければならない。

カウント段階で達成した一瞬の集中(khaṇika-samādhi)は、接近集中であると見なさなければならない。洞察の実践を望む人は、普通の人間であるため、一日中努力することは不可能だろう。従って1日に3、4時間を割り当て、毎日時間厳守で規則正しく努力しなければならない。練習を始めたら、まず心の迷いを克服し、呼吸の気づきを確立しなければならない。彷徨う心を克服してから、洞察に向けて心を凝らすのである。呼吸を意識することを放棄してはならず、洞察力を得て道と結実の智慧に到達するまで、それを発展させ続けなければならない。結実の智慧に入るときでさえ、呼吸への気づきを接近集中として尊重しなければならない。

浄化の5段階

洞察の道には、浄化の段階が5つある。

1)見方の浄化(diṭṭhi-visuddhi)
2)疑いの克服による浄化(kaṅkhāvitaraṇa-visuddhi)
3)何が道であり、何が道でないかについて 知識と視覚による浄化(maggāmaggañāṇadassana-visuddhi)
4)修行の過程についての知識と視覚による浄化(paṭipadā ñāṇadassana-visuddhi)
5)知識と視覚による浄化(ñāṇadassana-visuddhi)

物質面における見方の浄化

では、どのようにして物質における見方の浄化が達成されるのかを紹介しよう。

出息と入息の物質的現象には、常に8つの物質的要素が存在する。:(paṭhavī)・(āpo)・(tejo)・空気(vāyo)・(vaṇṇa)・匂い(gandha)・(rasa)・生命力(ojā)。音が発生するときは9つの要素が含まれ、追加要素は(sadda)である。これらの要素のうち、基本的な要素は、土・水・火・空気である。

土の要素の働きは、固まりである。すべての物質的現象には、この固まりという基本要素が存在する。土が優勢なものでは、固まりという性質は触ったり感じたりすることができる。太陽の光や月の光のようなものでは、固まりを感じることはできないが、その存在を論理的に理解することはできる。例えば、結合する固体がないのに、どうして水が結合できるだろうか? 燃える固体がないのに、どうして火が燃えるだろうか? 押し出す固体がなければ、空気はどうやって運動を生み出すことができるだろうか?

究極の現実においては、出息と入息の中に、土・水・火・空気という四大元素だけが存在する。智慧の眼がこの四大元素を貫き、知覚することができた時、人は現実を見ることができたと言える。もし知覚が十分に突き抜けず、この4つの要素に到達せず、息を吐いたり吸ったりする形や形態といったものに留まっているのであれば、その人はまだ個体的な信念(sakkāya-diṭṭhi)の道を進んでいる。この信念によれば、 「出息の始まりへそであり、終わりは鼻先である。息は始めに一度出る。終わりで一度消える。途中で発生や消滅が繰り返されることはない。入息も同様である」。 これが世俗人の心にしっかりと根付いている信念である。人は、自分の身体の知覚に深くしっかりと根を下ろしたこの信念を、息を吐く部分と吸う部分から取り除くことによって、自分自身から取り除かなければならない。

智慧の眼が四大要素に入り込み、究極の現実が知覚される時、出息や入息における形や姿といったものは消え去り、それらを観察するたびに、根深い個体観は消えていく。人は、現実には形も姿もないこと、つまり吐く息も吸う息もないことを認識する。人は、四大要素だけが存在することを認識する。こうして「見解の浄化」が達成される。

頭髪や体毛など、身体の他の部分に関しても同じである。一方には、「これは頭髪だ」という形や形態に対する深く根付いた習慣的知覚が存在し、他方には四大要素が存在する。この四大要素を頭髪に浸透させ、智慧をもって明確に認識することができれば、深く根付いた間違った形や形態の認識は消えてなくなる。頭髪は実際には存在しないことが知覚される。このように見えた時、頭髪における個体観の浄化が達成される。体の毛などについても同じように進める。

これで物質における見方の浄化を終了する。

精神面における見方の浄化

出息と入息の対象に向かって求める心がある。四大要素を求める心がある。その心には、気づき・努力・知識といった属性がある。これらはすべて心の要素である。対象を知る機能は心である。それらを繰り返し思い出すことが気づきである。励むことが努力である。熟達の働きが知識である。

「息を吐き、息を吸うために自分の心を動かそう」と考えて知覚することは、心の中に深く根ざした個体観の働きである。人はこの深く根ざした個体観を克服しなければならない。どのようにしてこの個体観を克服するのか。出息と入息に注意を向けることは、機能的な要素であり、精神的な要素である。その要素が心のドアに現れると、息を吐き、息を吸うことへの意識が生じる。それは単なる精神的機能である。それは物質的な集合体ではない。物質的な集合体の機能でもない。それは実体でも存在でもない。存在の機能でもない。それは「私」ではない。「私」の機能でもない。それはアビダンマでは思考・意識・精神と呼ばれる要素である。このように人は知覚しようとしなければならない。それを物質的な集合体、存在、あるいは「私」だと混同してはならない。このことが明確に認識されれば、精神における見方の浄化が達成され、意識における見方の浄化が達成されれば、気づき・努力・知識といった他の精神的要素においても浄化が達成される。

これで精神面における見方の浄化を終了する。

疑念の克服による浄化

4つの物質的要素1つの精神的要素からなる五大要素の働きが智慧によって貫かれるとき、疑いに打ち勝つことによる浄化の知識を得るための努力がされなければならない。生起の知識に到達すれば、疑いに打ち勝つことによって浄化が達成される。

疑い(kaṅkhā)とは、心の迷い(vicikicchā)を意味する。限りなく長い輪廻転生の中で、上記の五大要素の働きについて、多くの間違った見方や理論が存在する。これらの衆生は、物質的要素と精神的要素の生起を知らないために、魂や永続性を信じるような間違った見方や理論に傾いている。これは普通の疑いである。「私は過去に存在しなかったのだろうか」というような考えは、特別な疑いである。体内に存在する4つの基本要素のうち、kamma(行為)によって引き起こされる物質的現象があり、意識によって引き起こされる物質的現象があり、温度によって引き起こされる物質的現象があり、栄養によって引き起こされる物質的現象がある。これら4つの物質現象の原因を知るべきである。

肉体の中には、kamma(行為)によって引き起こされる物質的現象があり、それは川の絶え間ない流れのように、一瞬も休みなく絶え間なく生じている。また、意識によって引き起こされる物質的現象もあり、絶え間なく生じている。同様に、温度の変化によって起こる物質的現象や、栄養によって起こる物質的現象もある。

心の要素の場合、特定の思考対象(例えば、吐く息や吸う息)に依存する思考が生じ、それぞれの特定の思考は、影や日光の反射の接続と依存のように、場合によっては、それぞれの特定の吐く息や吸う息と接続され、依存している。

これは5つの基本要素の生起を簡潔に示している。この生起を智慧をもって悟ることができれば、疑いを克服することで浄化が達成される。魂と永続性に対する見方は克服されるだろう。

これで疑いの克服による浄化を終了する。

まとめ

このように、土・水・火・空気・意識5つの基本要素がある。物質的要素には、行為・意識・温度・栄養という4つの原因がある。精神的要素には、外的感覚と内的感覚器官の2つの原因がある。これらの現象を物質性と精神性に区別し、それらの発生と消滅とともに、その特徴に照らし合わせて繰り返し観察しなければならない。

Rūpaṃ aniccaṃ khayaṭṭhena dukkhaṃ bhayaṭṭhena, 
色形 無常 滅尽するもの 苦しみ 怖れるもの
anattā asārakaṭṭhena
無我 無実体なもの

物質とは無常であり
朽ちるものであり
不快であり
怖れるものである。
自我はなく、実体はない。

このように、人は洞察力を高める努力をしなければならない。

これは、『Ānāpānassati Sutta』の第4章に説かれている「無常を観じ……etc……」という方法に従って洞察に至る方法を簡潔に示している。

もうひとつの方法は、自分の身体の物質的・精神的な現象を、普段知っているのと同じように眺め、呼吸を吸うことと吐くことを接近集中として扱い、智慧をもってそれらを貫き、知覚することである。ここでの接近とは次のように説明される。瞑想者が努力を始める時、まず心を集中させ、鎮めなければならない。瞑想者は努力するたびにこの手順を踏む。この事前の集中と鎮静化が、接近集中の仕事である。心を集中させ、鎮静化させた後に初めて、観察したい身体の部位を観察しながら修行するのである。

これはカウント法の段階から洞察に進む方法を簡潔に示している。より詳細な説明は、『Āhāra Dīpanī』と『Anatta Dīpanī』にある。

追従法の段階から、または固定法の段階の接近集中から、または到達集中の第1、第2、第3、第4ジャーナから洞察に進む場合、その方法は、カウント段階の場合に示されたものから得ることができる。

残りの3つの浄化、10個の洞察の知識、流転の道と成就の知識については、私の『Paramattha Saṅkhitta』の瞑想の対象の項を参照されたい。

これで『Ānāpānassati Sutta』に示された呼吸の瞑想法の簡潔な説明を終わる。

これで『アーナーパーナ瞑想マニュアル』を終了する。