レディ・サヤドーの生涯

生誕と幼少期

レディ・サヤドー(Ledi Sayādaw)は1846年12月、ビルマ(現・ミャンマー)北部のシュウェボ郡(現モニワ県)のサインピイン村の農家に生まれました。幼名はマウン・テット・カウン(Maung Tet Khaung)。ビルマ語でマウンは「師匠」に相当する少年や青年に対する称号、テットは 「上に登る」、カウンは「屋根・頂上」という意味です。

村では伝統的な上座部(テーラワーダ)仏教の僧院の学校に通っていました。そこでは比丘(僧侶)が子供たちにビルマ語の読み書きを教えるだけでなく、多くのパーリ語の教典(Mangala Sutta、mettā Sutta、ジャータカ物語など)を暗唱する方法も教えていました。このような僧院付属の学校のおかげで、ミャンマーの識字率は非常に高かったようです。

8歳の時、最初の師であるウ・ナンダ・ダジャ・サヤドーに師事しました。15歳の時、サマネラ(見習い僧)として出家して、Ñāṇa-dhaja(ニャーナ・ダジャ:智の旗)という名を授かりました。僧院の教育では、パーリ語の文法や専門的な解説書 Abhidhammattha-sangaha、パーリ原典ティピタカのさまざまなテキスト、アビダンマ(Abhidhamma)などを学びました。

還俗:出家をやめて在家に

18歳の時、見習い僧ニャーナ・ダジャは出家をやめて、在家の生活に戻りました(還俗・げんぞく)。自分が受けた教育があまりにもティピタカに限定された物語的なものであると感じ、不満を抱いたのです。半年後、最初の師ともう一人の有力な師であるミンティン・サヤドーが彼を訪ねてきて、僧院生活に戻るよう説得しましたが、彼は拒否しました。ミンティン・サヤドーは、せめて学ぶことだけは続けるべきだと提案しました。若きマウン・テット・カウンは、学ぶことに熱心だったので、この提案を受け入れました。

比丘になり首都へ

僧院に戻った見習い僧ニャーナ・ダジャは、ガンダマ・サヤドーのもとで、8ヶ月でヴェーダをマスターし、ティピタカの研究を続けました。1866年4月20日、20歳の時、恩師であるウ・ナンダ・ダジャ・サヤドーのもとで比丘になるための上級の出家式を受け、比丘ニャーナ・ダジャとなりました。

1867年、比丘ニャーナ・ダジャマンダレーで勉強を続けるため、モニワを離れました。マンダレーは当時、ミンドン・ミン王(1853〜1878年統治)の統治下にあったビルマの王都で、ビルマで最も重要な学問の中心地でした。彼はそこで、何人かの高名なサヤドー(長老)や、学識ある一般の学者のもとで学びました。Maha-Jotikaramaサン・キョン僧院に滞在し、Visuddhimagga(浄化の道)をビルマ語に翻訳したことでミャンマーでは有名な、サン・キョン・サヤドーのもとで学びました。

第5回ティピタカ結集と最初の出版

ミンドン王はマンダレー滞在中、ティピタカ編纂のために第5回結集を主催し、遠方から比丘たち2,400人を呼び集めました。ティピタカを読誦して確認し、再編集するための結集は、1871年にマンダレーで開催され、比丘ニャーナ・ダジャはアビダンマの編集と翻訳を担いました。この結集で公式認証されたテキストは、マンダレーの丘のふもとにある金色のクトードー・パゴタを囲む、729の大理石の平板に刻まれ、今日では「世界最大の書物」と呼ばれています。

比丘ニャーナ・ダジャは非常に優秀な学生でした。サン・キョン・サヤドーが2千人の学生に対してパーラミーに関する20の質問をした時、すべての質問に答えることができた唯一の人でした。この回答は後に『Pāramī Dīpanī(パーラミーのマニュアル)1880』というタイトルで出版されました。これがレディ・サヤドーによって、パーリ語とビルマ語で出版された最初の書籍でした。

比丘になってから8年後、ティーボー王の統治時代に、すべての試験に合格したニャーナ・ダジャは、彼が学んでいたサン・キョン僧院の初級パーリ語教師の資格を得ました。1882年にモニワに移り住むまでの8年間、彼は教鞭をとり、学業にも励みました。

レディの森 昼は先生、夜は瞑想

1885年、イギリスがビルマを征服し、最後の王ティーボー(1878年から1885年まで統治)は追放されました。翌1886年、比丘ニャーナ・ダジャはモニワの北にあるレディの森に隠遁しました。しばらくすると、多くの比丘たちがそこにやって来て、教えを乞うようになりました。彼らを収容するために僧院が建てられ、Ledi-tawya僧院と名付けられました。この僧院名から、レディの長老レディ・サヤドー)を名乗るようになりました。

モニワが今日のように大きな町に成長した大きな理由のひとつは、多くの人々がレディ・サヤドーの僧院に魅了されたからだと言われています。モニワはチンドウィン川の東岸に位置する小さな町で、レディ・サヤドーは、日中はレディ・タウィヤ僧院で多くの志ある弟子たちに教える一方で、夕方になると川の対岸に渡り、小さなヴィハーラ(瞑想窟)にこもって瞑想することを習慣としていました。

正確な情報ではありませんが、この当時のビルマの伝統的なやり方であるアーナパーナ瞑想(呼吸瞑想)と vedanā(ヴェーダナー:感覚)によるヴィパッサナー瞑想(洞察瞑想)を実践していたようです。

ダンマの書籍を出版

レディ僧院での10年以上の間に、レディ・サヤドーの主な著作が出版されました。1897年に出版された『Paramattha-Dipani(究極の真理の手引き)』と『Nirutta Dipani(パーリ語文法の本)』の2冊で彼は、ビルマの最も学識ある比丘の1人として評判を得ました。レディ・サヤドーはレディ・タウィヤ僧院を拠点としていましたが、時にはビルマ中を旅して、経典と瞑想の両方を教えました。彼は pariyatti (パリヤッティ=ダンマの理論)と、patipatti (パティパッティ=ダンマの実践)の両方に秀でた、たぐい稀な比丘です。

出版された著書の多くこのビルマの旅の間に書かれました。例えば、マンダレーからプロメまで船で旅する間には、『Paticca-samuppada Dipani(縁起論の手引き)』を2日で書き上げました。彼は参考書を持っていませんでしたが、ティピタカを熟知していたので、参考書は必要ありませんでした。

一般の人々にダンマを伝える

その後、ビルマ語でダンマに関する多くの著書も執筆しました。彼は、ただの農民でも理解できるように書きたいと考えました。それまで、一般の人々がダンマの教えを理解できるように書き記すことはありませんでした。通常、比丘はパーリ語の長い節を暗誦して、そのまま口頭で記憶します。レディ・サヤドーは、この普通の人々が理解できないパーリ語の一節をビルマ語に翻訳し、文字に書き記したのです。

こうして僧侶だけで口伝されていたダンマの教えが、広く国民に伝わりました。農民のサヤ・テッジ(ウ・バ・キン先生の師)が学んだのもこの頃です。また、『Paramattha-sankhepa』はアビダンマの解説書である『Abhidhammattha-sangaha』をわかりやすくビルマ語に翻訳したもので、現在でもミャンマーで普及しています。

1911年、ビルマを統治していたイギリス政府よりアッガ・マハーパナ(Agga-MahāpaṇǠ)の称号を授与されました。その後、ラングーン大学から文学名誉博士号も授与されました。1913〜1917年には、ロンドンのPali Text Society(PTS)のRhys-Davids夫人とも交流がありました。アビダンマの要点について夫人の質問に答えた往復書簡が『Journal of the Pali Text Society』に掲載され、パーリ仏典ティピタカの世界的な普及に多大な影響を与えました。

晩年

長年に渡って読書・勉強・執筆と目を酷使したため、晩年は視力が低下し、73歳で失明しました。その後の残りの人生を瞑想と瞑想指導に捧げました。1923年、マンダレーとラングーン(現在のヤンゴン)の間にあるピンマナで暮らし、77歳の生涯を閉じました。