レディ・サヤドー『ヴィパッサナーの手引き』⑧

前回は、Tīraṇa-pariññā(3種類の正確な知識)の解説として、物質的・精神的現象における無常の印苦しみの印無我の印についての解説でした。続きです。

Tīraṇa-pariññā精神と物質(nāma-rūpa)の流れを、一瞬の究極的な現象に細かく分解することで、瞬間的な現象(精神と物質の両方)を深く正確に識別し、生起と消滅を洞察することを意味し、これには「無常・苦・無我」の3種類がある。

Tīraṇa-pariññāの解説(続き)

無常と苦しみの印はいかにして無我の印となるか

前回説明した無常の印苦しみの印は、無我の印でもある。なぜか? 人や生き物の観念(paññatti)は、現存在においても、その後に続く存在においても、永遠で不滅であると考えられているが、現象は無常の印である瞬間的な衰えや死の影響を受けるため、永遠ではないと説明される。しかし、人や生き物の観念には、根本的な変化(vipariṇāma)や継続的な変化(añathābhāva)は見られない。もしそのような変化が、人や生き物の観念に見られるとすれば、当然ながら、この観念もまた誕生・衰退・死の対象となり、一日のうちにも何度も生まれ変わり、衰退し、死ぬことになる。しかし、そのような形跡は観念には見いだせない。私たちは、このような形跡を物質的・精神的な現象にのみ見出す。

物質的な現象:川や小川の水の流れや、やかんの中の沸騰したお湯、人体の変化など、物理的な変化によって生じる物質的な現象の再生は、新しい現象の絶え間ない誕生であり、古い現象の絶え間ないである=根本的な変化(vipariṇāma)。新しい物質の統合と古い物質の死が並行して起こる=継続的な変化(añathābhāva)。

精神的な現象:光が生まれれば、見ることも生まれ、視覚も生まれる。光が発達すれば、視覚も発達する。光が続けば、見ることも続く。光が衰えれば、見ることも衰える。光が消えれば、見ることも消える。これはという原因による視覚意識の根本的な変化(vipariṇāma)や継続的な変化(añathābhāva) で、聴覚・嗅覚・味覚・触覚の各機能でも同様に生じる精神的な現象心=認識も変化を通じて、vipariṇāmaañathābhāva がある。

従って、精神的・物質的現象(nāma-rūpa-dhammā)は、人や生き物の本質や実体とは見なされない、ということになる。このような理由から無常の印無我の印になる。asārakatthena anattā(核がないという理由で、anattāという言葉が使われている)

苦しみの印はどのようにして無我の印になるのか? すべての生き物は、良い状態にあること、繁栄すること、満足することを望んでいる。もし、精神的・物質的現象が人と生き物の真の本質であるならば、現象と人は一体でなければならない。つまり、人の欲望は現象の欲望でもあり、その逆もまた然りである。もしそうでないなら、それぞれが他とは別のものでなければならない。

ここでの「人の欲望」とは、強欲(lobha)と、したい欲求(chanda)を意味し、「現象の欲望」とは、原因に従って物事が起こることを意味する。人や生き物の主な特徴は、心身の幸福を渇望することであり、現象の主な特徴は、原因や条件と一致することである。つまり、現象の発生と消滅は、原因に従うもので、原因に逆らって人の欲望に従って起こることはない
例えば、暖かさが欲しければ、暖かさを生み出す原因を探し求めなければならないし、冷たさが欲しければ、冷たさを生み出す原因を探し求めなければならない。長生きが欲しければ、長生きの原因、例えば、適切な食物を毎日摂取することを追求しなければならない。また、幸せな世界に生まれ変わることを望むなら、その原因となる道徳的な行為徳の高い行いを追求しなければならない。

ときどき「人は、望めば何でもできる」と勘違いされることがある。というのも、自分が願ったことが、のちに実現することがあるからだ。しかし実際には、それは事前に探求して実行した、原因に従って実現したに過ぎない。多くの人々は、健康状態が良好だったり、身体の姿勢(立つ・座る・歩く・横たわる)がいずれも健やかな時、自分が望んだ通りに自分を維持できていると誤解しているが、その原因は前日にとった食事であり、原因を探し求め、それを実行に移したという事実を無視している。

また、前からある建物の中で幸せに暮らしていることに気づくたびに、自分の願いは必ず叶うものだと勘違いしている。しかし実際にはそうではない。この世を見回して、人間の事業、仕事、職業などが、どれほど多種多様で膨大かを見れば、(原因によって)条件付けられた現象に伴う苦しみである saṅkhāra-dukkha が、人間の活動と同じだけ膨大で多種多様なことが、すぐに心の目で見分けられる。この dukkha は、望む結果を得るために、不可欠な原因判明したことよって起こる。現象は、衆生が望んだり命じたりした通りには、決してならないので。

このように、私たちを取り巻く saṅkhāra-dukkhatā の形跡を見るだけで、現象は人や生き物の願望に自然に沿うものではなく、従って本質も実体もないことが明らかになる。これに加えて、dukkha-dukkhatā(思い通りにならないという苦の性質)vipariṇāma-dukkhatā(反応・条件付けられた行為という苦の性質)jāti-dukkha(誕生の苦しみ)jarā-dukkha(衰えの苦しみ)maraṇa-dukkha(死の苦しみ)など、前述した他の種類の(病・わずらい・災難・不幸)に関して、いかに実体がないかが際立っていることにも、よく留意すべきである。

わずらいや苦しみから見た無我の印は以上

3つの印の洞察に関する3つの知識

3つの印の意味を正確に把握する洞察に関する3つの知識を tīraṇa-pariññā と呼ぶ。

洞察に関連するこれら3つの知識は次のとおりである.

  1. Anicca-vipassanā-ñāṇa:無常を観想する洞察知識
  2. Dukkha-vipassanā-ñāṇa:苦を観想する洞察知識
  3. Anattā-vipassanā-ñāṇa:無我を観想する洞察知識

これら3つの知識のうち、自我の誤った考え方を払拭するためには、3番目に述べた無我の洞察知識をまず完全に習得しなければならない。そして、この無我の洞察知識を完全に習得するためには、1番目の無常の洞察知識から入るべきだ。なぜなら1番目の無常の洞察知識がよくわかれば、3番目の無我の洞察知識は容易に習得できるからである。

2番目の苦の洞察知識は、無常の洞察知識の習得によって得られるものではない。超越的な道には4つの段階があるのは、2番目の苦の洞察知識の習得が不完全なためであり、欲と驕りが払拭されずに残されているからだ。従って仏教徒にとって最も重要なことは、不幸な世界の苦しみapāyadukkha)、すなわち人間よりも下の世界に生まれ変わることで経験する苦しみから完全に解放されることである。ブッダの教えがこの世から消えてしまえば、そこから逃れる方法はない。不幸な生まれ変わりの災いから逃れるには、すべての不道徳な行為と誤った見方を捨てることであり、すべての誤った見方を捨てるとは、自我についての見解を完全に捨て去ることである。だから、ブッダの教えに出会う幸運に恵まれたこの人生において、私たちは物事の無常について熟考し、瞑想するよう努めなければならない。このことを確認するために、以下はテキスト(ティピタカ)からの引用である。

メギヤよ、
無常を理解する者には
無我の理解が現れる。
そして無我を理解する者には
5つの集合体を司る
「私」という幻想が破滅に導かれ
現世でも涅槃に到達する。

この文章の真理を説明する必要はない。無常の印無我の印にもなりうることはすでに述べた通り。

洞察の訓練は、平静さや samatha(サマタ 集中)の訓練に必要なように、ひとりで行うだけでなく、どこでも行うことができる。必要なのは知識の深まりだ。知識が成熟していれば、無常の洞察は、講話を聞きながらでも、家人の平凡な生活を送りながらでも、容易に達成できるからでだ。知識が成熟した者には、自分の内外、自分の家の内外、自分の村や町の内外を問わず、あらゆるものが無常観の対象になる。しかし、いわば知識がまだ未熟な者は、熱心に静かに修行を実践することによってのみ、これを達成することができる。

瞬きする間に無数に起こる瞬間的な死についての考察は、アビダンマについての議論においてのみ必要である。瞑想や洞察の訓練で必要なのは、santati-vipariṇāma  santati-aññathābhāva、つまり根本的な変化連続的な変化について考えることであり、これらは生きているすべての人間にとって明らかであり、個人的に経験していることだ。

まず、物質的性質の中から四大元素を、そして精神的性質の中から6種の認識を見分ける。1日だけでも四大元素の生滅を無数に見分けることができれば、そこから派生する物質的性質の変化生滅も見分けることができる。精神的な性質についても、意識の変化が分かれば、心の付随物(チェターシカ)の変化も同時に分かる。とりわけ、物質的性質のうちから目立つ形、匂いなどを、また、精神的性質のうちから目立つ感情、知覚、意志などを、修行の対象として取り上げることで、瞑想者が無常の洞察力を無理なく身につけることができる。

しかしながら哲学的な観点から言えば、洞察力は「生き物」「人」「自我」「生命」「永続性」「快楽」といった概念を払拭し、幻覚を取り除くために習得されるものである。洞察力の習得もまた、すでに十分に説明した3つの印の正しい理解にかかっている。

tīraṇapariññā についての解説はここまで