『ヴィパッサナーの手引き』の最終回です。
Pahāna-pariññā の解説
5種類の断捨離
仏教の教えには、5種類のPahāna(パハーナ)がある。
Pahāna(パハーナ):払拭・捨てること・離れること・断つこと・まさに断捨離です。
- Tadaṅga-pahāna:正反対のものに置き換えることで、一時的に穢れを払うこと
- Vikkhambhana-pahāna:ジャーナの状態での抑制による一時的な払拭
- Samuccheda-pahāna:解脱の道(magga・sotāpatti-maggaなど)に到達する瞬間の穢れの根絶
- Paṭippassaddhi-pahāna:解脱の成就段階(sotāpatti-phalaなど)で、穢れを鎮めること
- Nissaraṇa-pahāna:Nibbāna(涅槃)に到達した時の、穢れからの最終的な脱出または解放
これら5種類の pahāna を明確にするために、まず3つの期間または段階(bhūmi)について、説明しなければならない。それらは
- Anusaya-bhūmi:潜伏期間、穢れの根源的な傾向
- Pariyuṭṭhāna-bhūmi:穢れた思考プロセスの発生による心的関与や固執の段階
- Vītikkama-bhūmi:行為や言葉で実際に罪を犯す段階
この3つの期間のうち Anusaya-bhūmi(アヌサヤ・ブーミ)は、生命体を取り囲むように穢れが潜伏している(bhavaṅga:潜在意識)期間だが、3期間の中では(他と違って)思考プロセスが存在しない。
Pariyuṭṭhāna-bhūmi(パリユッターナ・ブーミ)は、穢れを誘発する力を持つ何らかの対象が、6つの感覚器官のいずれかに動揺を生じさせた時、穢れが潜伏状態(潜在意識)から立ち上がり、心の扉に思考プロセスとして現れる段階である。
Vītikkama-bhūmi(ヴィーティッカマ・ブーミ)とは、穢れが非常に激しくなり、制御できなくなって、行為や言葉において悪行を生み出すようになる段階のこと。このように、始まりのない存在が繰り返される間(輪廻転生し続ける間)、ある存在の一生に伴う欲の発生にはすべて、この3つの期間がある。同様に嫌悪・無知・驕りなど、他のすべての穢れにも各々3つの期間がある。
仏教には、道徳の修行(sīla)、集中の修行(samādhi)、智慧の修行(paññā)という3種類の修行(sikkhā)がある。道徳の修行は、3番目の穢れ(実際に罪を犯したこと)のみを取り除くことができる。まだ2つの段階が残っているので、道徳によって一時的に取り除かれた穢れが再び生じ、いずれ罪を犯す段階に達するまで溜まる。
第2の修行である集中の修行は、第1ジャーナ、第2ジャーナ……と到達していくが、道徳によって払拭されずに残っていた2番目の穢れ、つまり悪い思考プロセスによる心的関与だけを払拭できる。潜在段階がまだ払拭されていないため、もしジャーナが妨げられるようなことがあれば、ジャーナによって一時的に払拭されていた穢れがすぐに生じ、罪の段階に達するまで成長するだろう。瞑想は道徳よりも穢れに対抗する力が強いので、集中による払拭は vikkhambhana-pahāna(ヴィッカンバナ・パハーナ)と呼ばれる。
第3の修行である智慧の修行は、洞察に関する知識と、超俗的な道に関する知識だが、道徳と集中によって取り除かれずに残っている1番目の潜在的な段階の穢れを取り除くことができる。智慧によって完全に取り除かれた穢れは、何も残らず、二度と蘇ることはない。それゆえ、「流れに入る」などの超俗的な道に達した智慧によって取り除くことを、根絶による払拭(samuccheda-pahāna サムッチェーダ・パハーナ)と呼ぶ。
超俗的な成就に関する知識は、超俗的な道に関する知識によって払拭したのと同じ穢れを、鎮めることで穢れを遠ざけ、paṭippassaddhi-pahāna(パティッパッサッディ・パハーナ)と呼ばれる。Nibbāna(ニッバーナ 涅槃)に入ることで穢れを払拭することは、nissaraṇa-pahāna(ニッサラナ・パハーナ)と呼ばれ、存在のしがらみから永遠に完全に逃れることである。
さて、知識には、洞察の知識、超俗的な道に関する知識、超俗的な道の成就に関する知識の3種類があることがわかった。このうち、洞察の知識は、穢れの最初の潜在的な段階(anusaya-bhūmi)を取り除くことはできるが、完全に取り除くことはできない。それぞれの道に属する穢れをすべて取り除くことができるのは、それぞれの道に関わる知識だけである。
第一の道である sotāpatti-magga に関する知識は、すべての誤った見解と疑いを完全に払拭し、根絶する。また、不幸な世界に生まれ変わることになる、すべての不道徳な行いを最終的に払拭する。(つまり不幸な世界に生まれ変わることはない、ということです)
第二の道である sakadāgāmi-magga に関する知識は、すべての卑しい欲望と嫌悪を払拭する。
第三の道である anāgāmi-magga に関する知識は、第二の道では払拭されなかったわずかな欲や悪意を払拭する。決して帰らない不還者(Anāgāmi アナーガーミ)にとって、この世との縁は断ち切られ、ブラフマー界(色界・無色界)だけが生まれ変わることのできる世界である。
第四の道である arahatta-magga に関する知識は、下位の道では払拭されなかった穢れを払拭する。すべての穢れを消した者はアラハンとなり、三界(欲界・色界・無色界)から逃れられる。私たちの仏教では、根絶による払拭が、達成されるべき主要な事柄である。
Pahāna-pariññā については以上
洞察瞑想の実践
ここで洞察の修行をする者に必要な要点を示そう。洞察の3つの知識のうち、無常の知識は何よりもまず身につけなければならない。どのように? 映画を注意深く見れば、素晴らしい情景を映し出す数多くの写真の変化が、いかに速く、すべてが瞬間的に行われているかが理解できるだろう。また、肉体が動くシーンを表現するためには、100枚以上の写真が必要であることも理解できるだろう。これらは実際、vipariṇāma(ヴィパリナーマ)と aññathābhāva(アニャターバーヴァ)の機能、すなわち無常や死、動きの停止を表現する機能である。
ある瞬間の身体の各部分の動きを注意深く観察すると、歩く、立つ、座る、寝る、曲げる、伸ばすなど、それらは変化に満ちていて、すなわち無常であることがわかる。歩いている瞬間、その一歩にも、無常や死と呼べるような写真の変化が数多くある。それは他の動きも同じである。さて、私たちはこのことを自分自身に当てはめなければならない。精神的・物質的現象の無常と死は、私たちの身体、頭、そして身体のあらゆる部分に余すことなく見出せる。
私たちの肉体の中で常に働いている無常と死の機能をはっきりと見分けることができれば、破壊(bhaṅga-ñāṇa バンガ)の洞察力を身につけることができる。つまり、頭、脚、手など、身体のあらゆる部分、小さな部分、大きな部分の変化を見分けるのである。このように見分けることができれば、無常観の訓練は十分に達成されたと言える。
また、無常観の訓練がよく達成されたなら、無我観の訓練もまた達成されたことになる。このように見分けられれば、無常観の訓練はよく達成されたと言える。「達成された」という言葉は、その訓練が人生の全期間を通じて永続的な所有物となるように適切に行われたことを意味するが、道と成就の知識が達成されたことを意味するのではない。道と成就の知識の達成は、より高い徳の実践における機会の有無によって、早かったり遅かったりする。
また、道と成就を正しく認識することは非常に難しい。実際、第一の道に到達した聖なる者でさえ、自分が道の流れの達成者になったことを、ほとんど自覚していない。なぜか?
穢れの潜在段階が計り知れないからだ。穢れの潜在段階の奥深さを知らないヨーギや瞑想者は、誤った見解や疑いが部分的に取り除かれただけで、完全には取り除かれていないにもかかわらず、自らを道の流れに到達したと考えることがある。もし誤りや疑いが、すべての潜在意識とともに、samuccheda-pahāna によって根絶されるなら、彼らは道の流れの真の到達者となるだろう。しかし、瞑想者や洞察の修行者は、人生の全期間、無常観の訓練が体得されるまで、喜々として修行を続けなければならない。アラハンでさえ、心の静けさを得るためにこれらの修行を止めることはない。瞑想者が人生の全期間、この訓練を実践するならば、その知識は、世俗の段階である puthujjana-bhūmi を越えて、聖なる者の段階であるariya-bhūmi に到達するまで成長するだろう。
結び
これで、ヨーロッパの仏教徒のために書いた簡潔な Vipassanā Dīpanī(ヴィパッサナーの手引き)は終わりとなる。この本は、私がマンダレーのラタナシリ僧院に滞在している間に書いたもので、そこでは海外に仏教を広める会の年次総会が開かれていた。1915年2月26日に完成した。
レディー・サヤドー『ヴィパッサナー の手引き』終わり