Nirodhasaccaniddeso
停止の真理について
"Katamañca , bhikkhave, dukkhanirodhaṃ ariyasaccaṃ? Yo tassāyeva taṇhāya asesavirāganirodho cāgo paṭinissaggo mutti anālayo. "Sā kho panesā, bhikkhave, taṇhā kattha pahīyamānā pahīyati, kattha nirujjhamānā nirujjhati? Yaṃ loke piyarūpaṃ sātarūpaṃ, etthesā taṇhā pahīyamānā pahīyati, ettha nirujjhamānā nirujjhati.
修行者たちよ。苦しみの停止の聖なる真理とは何でしょう?
それは、この渇望の完全な停止と消滅であり、それを捨て去り、放棄すること、渇望から自由になり、渇望を切り離すことです。
では修行者たちよ、
この渇望はどこで取り除くことができるのか?
この渇望が止む時には、どこで止むのか? 愛着を抱くもの、心地快いと思うものが生じたのと同じ場所で、渇望を放棄すると渇望は放棄され、止めると渇望は止まるのです。
では、この世で、愛着を抱くもの、心地快いと思うものとは何でしょう?
目に見える世界(Cakkhu loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
耳に聞こえる世界(Sotam loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
鼻で嗅ぐ世界(Ghanam loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
舌で味わう世界(Jivha loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
身体の感覚の世界(Kayo loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
精神の世界(Mono loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
この世にある光景(Rūpā loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
この世にある音(Saddā loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
この世にある匂い(Gandhā loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
この世にある味(Rasā loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
この世にある感触(Phoṭṭhabbā loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
この世にある心の中の動き(Dhammā loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
視覚でとらえたもの(Cakkhu·viññāṇaṃ loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
聴覚でとらえたもの(Sota·viññāṇaṃ loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
嗅覚でとらえたもの(Ghāna·viññāṇaṃ loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
味覚でとらえたもの(Jivhā·viññāṇaṃ loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
身体感覚でとらえたもの(Kāya·viññāṇaṃ loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
心でとらえたもの・意識したもの(Mano·viññāṇaṃ loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
視覚が接触する世界(Cakkhu·samphasso loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
聴覚が接触する世界(Sota·samphasso loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
嗅覚が接触する世界(Ghāna·samphasso loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
味覚が接触する世界(Jivhā·samphasso loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
身体感覚が接触する世界(Kāya·samphasso loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
心が接触する世界(Mano·samphasso loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
視覚の接触で生じた感覚の世界(Cakkhu·samphassa·jā vedanā loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
聴覚の接触で生じた感覚の世界(Sota·samphassa·jā vedanā loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
嗅覚の接触で生じた感覚の世界(Ghāna·samphassa·jā vedanā loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
味覚の接触で生じた感覚の世界(Jivhā·samphassa·jā vedanā loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
身体感覚の接触で生じた感覚の世界(Kāya·samphassa·jā vedanā loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
心の接触で生じた感覚の世界(Mano·samphassa·jā vedanā loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
認識された光景の世界(Rūpā·saññā loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
認識された音の世界(Sadda·saññā loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
認識された匂いの世界(Gandha·saññā loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
認識された味覚の世界(Rasa·saññā loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
認識された感触の世界(Phoṭṭhabba·saññā loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
認識された心の中の動きの世界(Dhamma·saññā loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
光景に対する心の反応(Rūpā·sañcetanā loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
音に対する心の反応(Sadda·sañcetanā loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
匂いに対する心の反応(Gandha·sañcetanā loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
味に対する心の反応(Rasa·sañcetanā loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
感触に対する心の反応(Phoṭṭhabba·sañcetanā loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
心の中の動きに対する心の反応・意志(Dhamma·sañcetanā loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
光景への渇望(Rūpā·taṇhā loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
音への渇望(Sadda·taṇhā loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
匂いへの渇望(Gandha·taṇhā loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
味への渇望(Rasa·taṇhā loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
感触を生むものへの渇望(Phoṭṭhabba·taṇhā loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
心の中の動きへの渇望(Dhamma·taṇhā loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
目に見えた光景を〇〇であると認識した時(Rūpā·vitakko loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
耳に聞こえた音を〇〇であると認識した時(Sadda·vitakko loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
鼻で嗅いだ匂いを〇〇であると認識した時(Gandha·vitakko loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
舌で味わった味を〇〇であると認識した時(Rasa·vitakko loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
触れた感触を〇〇であると認識した時(Phoṭṭhabba·vitakko loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
心に浮かんだ心の中の動き(思考内容)を〇〇であると認識した時(Dhamma·vitakko loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
目に見えた光景について思いをはせる時(Rūpā·vicāro loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
耳に聞こえた音について思いをはせる時(Rūpā·vicāro loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
鼻で嗅いだ匂いについて思いをはせる時(Rūpā·vicāro loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
舌で味わった味について思いをはせる時(Rūpā·vicāro loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
触れた感触について思いをはせる時(Rūpā·vicāro loke)に、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
心の中の動きについて思いをはせる時(Rūpā·vicāro loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがあり、渇望が生じた時に、その場で放棄すると放棄され、止めると渇望は止まるのです。
修行者たちよ。これが苦しみの停止の聖なる真理です。
4.ダンマーヌパッサナー(心の中の動きの観察): 3. 苦しみの停止の真理 了
解説
渇望が生じる場所と、消滅する場所は同じです。渇望は6つの感覚器官 (視覚、聴覚、嗅覚、味覚、身体感覚、心)に生じた時に、その時にすぐ気づいて観察することで消滅します。知的な理解だけでは消滅しないのです。
例えば、瞑想中に雑念が生じたとします。
「(心にふと雑念が生じる)そういえばあいつ、こないだ、あんなこと言いやがった。今度会ったら、こんな風に言い返してやる……(心に浮かんだ記憶に反応している状態)……あ、また妄想してる!(反応に気づいたと同時に反応が消滅)いかんいかん、瞑想、瞑想」
このように反応は心から生じ、それが単なる反応であると、気づいた瞬間に消えるのです。これを何度も自分の体験で繰り返しなさい、とブッダは説いています。
気づきをもって繰り返し瞑想を続けると、だんだん早く気づけるようになります。
「(心にふと雑念が生じる)そういえばあいつ、こないだ…!(心に雑念が生じ、怒りが生じそうと気づく。感情が生じたことに気づいたと同時に雑念が消滅する)」
この現象に意味はありません。何の意味もなく心に浮かぶものです。これにただひたすら気づく訓練を続けると、最終的には雑念が一切生じなくなるということです。高度な修行や集中力は必要ないのです。ただ、ひたすらやって、1つ1つ気づかないと、理解しただけでは反応は消えてくれないのです。