心の浄化

心を浄化して、涅槃に至るためには、次のものを完全に滅しなければなりません。

タンハー(Taṇhā 渇望)

渇望とは、「もっと〜したい」と求めるエネルギーです。すべての「dukkhaドゥッカ苦しみ・痛み・不満足思うがままにならないこと」の原因で、求める心渇望)が欲求を生み出します。語源は、ヴェーダ語(古代サンスクリット語)の「tṛ́ṣṇā」で「渇き、願い」という意味です。

人が生きている間、ずっと流れ続ける意識であり、反応し続ける心のエネルギーです。渇望は生命を生み出すエネルギー源でもあり、輪廻転生のエネルギーを作り出しています。母親の象徴です。

つまり生きている限り、心は求め続けるものです。その求めに応じて(反応して)「このままではいけない」と焦ったり、「何かが足りない」と物足りなさを感じたりして、人生を何とかしようとしたところで、決して満たされることはなく、死ぬまで心は求め続けるのですから、反応するだけ無駄なのです。

タンハーの3つのタイプ

タンハーには3つのタイプがあります。

kāmataṇhā カーマタンハー
感覚的快楽の渇望。6つの感覚器官によって得られる刺激から発生する精神的肉体的快楽への渇望。心地よい気分にさせてくれる物や、感覚的、心的な喜び、心的な喜び(理想・意見・信念などに対する欲求と愛着)への渇望です。承認されたい

bhavataṇhā バーヴァタンハー
存在して欲しいと求める渇望。存在欲・生存欲です。好きなものが、ずっとなくならないで欲しいという渇望です。

vibhavataṇhā ヴィバーヴァタンハー
存在して欲しくないと求める渇望=嫌悪。不愉快な経験をしたくはない、嫌いなものがなくなって欲しいという渇望です。自殺もここに含まれます。

この渇望は、どこから生まれてくるのでしょう? この世に、愛着を抱くもの(piya·rūpaṃ)があり、心地快いと思うもの(sāta·rūpaṃ)があれば、どこであれ、そこに渇望が生じて確立します。同様に、愛着を抱かないもの不快と思うものがあれば、どこであれ、そこに嫌悪が生じて確立します。

6つの感覚器官とその感覚対象

つまり、6つの感覚器官(目・耳・鼻・舌・体・心)とその感覚対象(色・音・香・味・触・意)の接触(phassa)によって感覚・感情(vedanā)がもたらされ、タンハー渇望・嫌悪)が生まれます。

好き」とは、人が心地よく、楽しみ・幸福を感じるものごとや行為ですが、「好き=善い」ではありません。

生きる楽しみとは、「好き」な感覚対象に触れて、快い刺激を受けることです。生きるということは「嫌い」を避けて「好き」を追うことなのです。

心が6つの感覚器官から刺激を受けて転回する。このタンハーのエネルギーが、輪廻転生の源です。だから人は、刺激を受けて喜びを感じたいのです。しかし常に喜ばしい刺激が入るわけではありません。少量の楽しい刺激を受けるために、大量の楽しくない刺激を受けることになるのです。

すべての物事は納得する以前に消えてしまいます。満足する前に状況は変わってしまうのです。瞬間瞬間、絶えず起こる変化・無常が、渇望を生み出すのです。

欲望と執着

この渇望のエネルギーが、快は欲望となり、不快は嫌悪となり怒りを生みます。そしてその反応が習慣となり、執着(upādāna ウパーダーナ)が生まれます。

渇望のうち、カーマタンハーバーヴァタンハーは「好き」の大元で、ヴィバーヴァタンハーは「嫌悪」の大元ですが、決して満足は得られません。

好き(piya)」なものも「(pema)」するものも、必ず自分から離れていくのが真理だからです。それは、得た楽しみと割に合わないほどの苦しみを生み出します。好きなものが目の前にある時だけ、楽しいからです。好きなものがなくなったら、心にある「好き」の感情が、際限なく人を苦しめることになります。好きなものがなくならなくても、なくなるかもしれないという恐怖心も生まれます。人には好きなもの、愛するものが現れた瞬間から、楽しみと同時に怖れという感情を味わうことになるのです。

何かを好きになるということは、その人の心の主観的な感情に過ぎません。何かを「好き」になるということは、その何かに依存することでしかないのです。

心に欲があると、人は何でも「好きだ」と思い、嫌な側面は見ていません。心に怒りがあると、何でも「嫌だ」と思い、良い側面は全く見ていません。好き勝手に、自分の都合でものを見たり判断しているだけで、ものごとをありのままに見ていません。心の中で解釈して作り上げた幻想なのです。

真理の道は、好き嫌いを超えた道です。好きか嫌いかの判断はせずに、人格を向上させるもの、心を浄化する中道を選ぶのがいいのです。まず好きになる対象から身を引く。次に、依存しなくても幸福でいられるように心を育てるということです。

慢心(マーナ māna)

慢心、おごりは、父親の象徴です。

慢心は、自分を評価すること、計ることで、そこには自我の意識が存在します。他と比べて自らを過剰に評価して、自我に捉われ固執する煩悩です。これは悟りの最終段階まで残る煩悩でもあります。

「私」という幻想が生まれること自体が、慢心の始まりで、自分を正しい基準として他人を判断します。私は優れている(seyya māna)と思うのは、もちろん慢心ですが、私と等しい(sadisa māna)、私は劣っている(hina māna)と卑下するのも慢心です。

慢心をなくすためには、「変わらない自分がいるというのは錯覚だ、全てが瞬間瞬間に生滅変化しているので、自分という意識も瞬間瞬間変わっていくもので、実体・我・霊魂・魂と世間で言っているような永遠不滅のものなどない」と悟らなくてはなりません。

永遠不滅(sassatavādā)と消滅論(ucchedavādā)

永遠不滅:sassatavādā
「自我・魂・アートマン」は、永遠に続くもので不滅であるとする考えです。「バーヴァタンハー・存在して欲しいと求める渇望」は、この永遠不滅を求める心です。

消滅論:ucchedavādā
人の一生・人生はこの世の一回限りであるとして、死後やその運命を否定して、この世における善と悪の行為やその果報を無視し否定する見解のことです。「ヴィバーヴァタンハー・存在して欲しくないと求める渇望」は、この消滅を求める心です。

ブッダは、この両方の偏った見方に依らない、不断不常の中道を説きました。

疑い(ヴィチキッチャー vicikicchā)

疑いには、「これは事実なのか」と自分で確認しようとする善い疑いと、単に疑って理解しようとしない不善の疑いがあります。善い疑いは心を育て、不善の疑いは心の進歩を止めてしまいます。

ヴィチキッチャーは不善の疑いで、正しく理解しようとせず、信頼もしないことです。物事をきちんと見ようとしないので、自分の考えがはっきりとしません。疑いのある人は精神的に不安定になり、智慧が育ちません。

完全な智慧を得る

ブッダの教えはとてもシンプルです。理解すべき智慧は次の3つだけです。この3つを自分の身体で実体験して正しく理解することができれば、悟りに到達です。

すべては無常である Sabbe sankhārā aniccā

すべては苦である Sabbe sankhārā dukkhā

ものごとには実体はない Sabbe dhammā anattā

まとめ

「洞察の瞑想」の実践は、ドゥッカ(苦)、アニッチャ(無常)、アナッタ(無我)の3つを理解することになります。

無智ゆえにサンカーラ(反応)が生まれる。サンカーラゆえに意識が生まれる。意識ゆえに精神と肉体の流れ(生命の誕生)がはじまる。精神と肉体の流れゆえに6つの感覚器官が存在する。6つの感覚器官のゆえに接触(passa パッサ)が生まれる。接触のゆえに感覚(ヴェーダナ-)が生まれる。感覚のゆえに渇望と嫌悪が生まれる。渇望と嫌悪のゆえに執着が生まれる。執着ゆえに生成がはじまる。この生成のゆえに生命が生まれる。この生命ゆえに、誕生ゆえに、大きな苦悩が生まれてくる。

つまり、無智ゆえに人は、苦しみを生み続けるのです。

完全に無智を取り除けば、サンカーラ は生まれない。サンカーラ がなければ、意識は生まれない。意識がなければ、精神と肉体の流れは生まれない。精神と肉体の流れがなければ、6つの感覚器官は生まれない。6つの感覚器官がなければ、接触は生まれない。接触がなければ、感覚は生まれない。感覚がなければ、渇望も嫌悪も生まれない。渇望も嫌悪もなければ、執着も生まれない。執着がなければ、生成の過程は断ち切られる。生成の過程がなければ、再び誕生することはない。誕生がなければ、どのような苦しみももはや生まれない。

つまり、無智を滅ぼせば、すべての苦悩を滅ぼすことができます。

以上です。