ティピタカとは

Tipiṭakaティピタカ)」は、南伝の上座部仏教に伝わるパーリ語で書かれた原始仏典です。 北伝の大乗仏教に伝わる漢語の大乗仏典、8世紀末以後にサンスクリット語仏典からチベット語に翻訳されたチベット仏典と並ぶ、三大仏典群の1つです。

パーリ語で「Ti(ティ)= 3つの」+「piṭakaピタカ=籠、容器」のことで、「3つの籠」を意味します。仏教用語では「三蔵」と訳しています。

3つのピタカには、ブッダが定めた規律である「戒律」、ブッダの教えである「ダンマ」、それらの「解説・注釈書」が全て納められています。

1. Vinaya Piṭaka ヴィナヤ・ピタカ

ブッダが比丘(男性出家者)や比丘尼(女性出家者)のために定めた、全ての戒律・規則・道徳・生活様相が収録された「律集」です。以下の構成になっています。

  1. Pātimokkha パーティモッカ 戒律索引
    • Pārājika
    • Pācittiya
  2. Khandhaka カンダカ サンガ(出家僧の集団)への入団方法、作法・衣食住の規則、違反や紛争の処理方法、ブッダによって定められた規則の由来などが、年代順に構成されています。
    • Mahā-vagga マハー・ヴァッガ — 大の部
    • Cūḷa-vagga チュッラ・ヴァッガ— 小の部
  3. Suttavibhaṅga スッタ・ヴァッガ 戒律の説明
    • Suttavibhaṅga スッタ・ヴァッガ — 比丘戒(男性出家者用)227戒について
    • Bhikkhuni-vibhaṅga ビクニ・ヴァッガ— 比丘尼戒(女性出家者用)311戒について
  4. Parivāra パリヴァーラ — 補足事項

2. Sutta Piṭaka スッタ・ピタカ

ブッダが説いた教え・法話「Dhammma ダンマ」が、全て収録された「法話集(経集)」です。

  1. Dīgha Nikāya ディーガ・ニカーヤ — 長編集・3巻
  2. Majjhima Nikāya マッジマ・ニカーヤ — 中編集・3巻
  3. Saṃyutta Nikāya サンユッタ・ニカーヤ — テーマ別短編集・5巻
  4. Anguttara Nikāya アングッタラ・ニカーヤ — 数字別短編集・11巻
  5. Khuddaka Nikāya クッダカ・ニカーヤ — 短編集19巻(うち2巻は上下巻あり)

長編集 Dīgha Nikāya第2巻 Mahāvagga(マハー・ヴァッガ)の9篇目が「Mahāsatipaṭṭhānasutta マハーサティパッターナ・スッタ 」、短編集 Khuddaka Nikāya第2巻が「Dhammapada ダンマパダ」、第5巻が「Suttanipāta スッタニパータ」です。

3.  Abhidhamma Piṭaka アビダンマ・ピタカ

ブッダの教え(ダンマ)に対する解釈・注釈書のようなものです。ダンマの論理を、後世の弟子たちが分析・分類し、わかりやすくまとめた「論理集」修行者のためのマニュアルです。

  1. Dhammasaṅgaṇī ダンマ・サンガニ
  2. Vibhaṅga ヴィバンガ
  3. Dhātukathā ダートゥカター
  4. Puggalapaññatti プッガラ・パンニャッティ
  5. Kathāvatthu カターヴァットゥ
  6. Yamaka ヤマカ
  7. Paṭṭhāna パッターナ(Eka、Duka、Tīka の3部門)

全部で7巻ありますが、アビダンマ・ピタカは初期段階では存在しません。当サイトで確認できたのは、5巻のKathāvatthuは、モッガリプッタ・ティッサが、ブッダ の没後200年後のアショーカ王の時代にまとめたらしいということだけです。

ブッダの教えを全て記憶

ブッダが35歳で悟りを開いてから後の45年間、出家した弟子や在家者に説教をしたり、僧侶の戒律を定めたりすると、その場にいた熱心で学識のある僧侶たちは、ブッダの言葉を一語一句、忘れずに記憶しました。

この時代のインドでは、既に文字が普及していましたが、ブッダ自身が文書化を許さなかったため、弟子たちはブッダの言葉記憶してとどめたのです。

ブッダの説法を直接聞いた僧侶の中には、アラハンと呼ばれる悟りの最終段階に至った純粋な者が多くいたため、ブッダの言葉を完璧に記憶することができたようです。また、ブッダの従兄弟のアーナンダは、悟りの3段階目に達した時点で既に完璧な記憶力を持ち、常にブッダと行動を共にしていたため、ブッダが説いた教えの全てを正確に記憶していたそうです。

このようにしてブッダの言葉は、純粋な心の弟子たちによって正確に記憶され、口伝されていきました。

ティピタカはその記憶された全てのダンマと戒律を体系的に整理し、まとめたものです。ブッダの没後、弟子たち(サンガ)が結集(けつじゅう・編纂会議)して、その記憶に基づいて口頭で互いに一語一語を確認し合い、今日まで伝承し続けているものです。

ティピタカを作るきっかけ

ブッダの没後、弟子たちに結集を呼びかけたのは、長老マハーカッサパでした。そのきっかけは、ブッダが死んだ際に、それを喜ぶ僧侶がいたことでした。

ブッダが亡くなったと聞いて、多くの僧侶たちは嘆き深く悲しみましたが、スバッダという僧侶は、「これでブッダが定めた面倒な戒律を守らなくても済む。私たちは苦しめられていたが、これからは好きなようにできて、嫌なことをしなくて済む」と喜びました。

長老マハーカッサパは、この発言に危機感を覚え、他の僧侶がスバッダのように行動し、ダンマや戒律を好き勝手に解釈するようになれば、ブッダの教えと規律が崩壊し、後世に正しく伝えられないと危惧しました。そのような事態を避けるために、ダンマと戒律を保存し、保護しなければならないと考えて、500人のアラハンを召集したのです。

最初の結集(けつじゅう)

第1回結集Paācasatika」は、ブッダが亡くなってから3ヶ月後の紀元前544年(注1)に、ラージャガハ(現インド・ラジギール)郊外のサッタパーイー洞窟で開催されました。

ダンマの教えはスッタ・ピタカ」としてアーナンダを中心に、戒律はヴィナヤ・ピタカ」としてウパーリが中心となり、ブッダの言葉の全てを500人のアラハンが互いに暗唱して確認し合い、統一見解として記憶をまとめました。

この結集の段階では、アビダンマ・ピタカはまだ存在しません。この結集の詳細は、『ヴィナヤ・ピタカ』の「クーラヴァーガ」に記載されています。

注1)ゴータマ・ブッダの没年に関しては諸説ありますが、Vipassana Research Institute(インド)は紀元前544年としています。これは、第6回結集でティピタカが完成した1954年を基準に、その2500年前をブッタの入滅と考えているようです。インドには、サンマー・サン・ブッダ(正覚者のことで、ゴータマ・ブッダは4人目)の没後、その教えの発祥の地であるインドからダンマの教えが途絶え、2500年後に再び復活するという予言があり、これに基づいているようです。

2500年間に6回の結集

ティピタカの結集は、ダンマや戒律に関する論争を解決したり、経典の内容を修正したりするために召集され、現代に至るまでに2500年間で計6回開催されています。

第2回結集

2回目の結集はブッダ入滅の100年後に、ヴェーサーリー(現インド・ビハール州ヴァイシャリ)で開催されました。ヴェーサーリーの僧侶たちが10の細かい規則を破ったことについて、「10の罪」をめぐる深刻な論争を解決するために召集されました。

発端となった事件は、ヤサ長老がヴェーサーリーにある大僧院を訪れた際、ヴェーサーリーの僧侶たちが、僧侶が金銀を受け取ることを禁止する規則に違反して、在家者に公然と金銀を求めていたことでした。ヤサ長老はすぐに彼らの行動を批判しましたが、彼らはヤサ長老に不正な利益の分け前を提供して買収しようとしました。ヤサ長老はそれを断り、彼らの行動を軽蔑しました。

ヤサ長老は、金銀を受け取ったり、勧誘したりしてはいけないというブッダの教えを引用して、「ヴェーサーリーの僧侶たちがしたことは悪いことだ」と在家者たちに説きました。在家者たちはヤサ長老を支持しましたが、頑固で反省しない僧侶たちは、ヤサ長老が非難したとして、他のサンガ(僧侶集団)の承認を得ずに、ヤサ長老を停職させようとしました。

ヤサ長老は、ヴィナヤ・ピタカ(律集)に関する正しい見解を支持する他の僧侶たちに支援を求めました。パーヴァーの森に住む60人の僧侶と、アヴァンティの南の地域の80人の僧侶が、ヴィナヤ・ピタカの腐敗を止めるために協力を申し出て、彼らは一緒にダンマとヴィナヤに詳しいレヴァタ大長老に相談しました。

そのことを知ったヴェーサーリーの僧侶たちは、すぐにレヴァタ大長老を買収しようとしましたが、レヴァタ大長老は直ちに拒否しました。この僧侶たちは、レヴァタ大長老の従者である20歳のウッタラを買収して味方につけました。

ウッタラは彼らに促されて、「ヴェーサーリーの僧侶たちこそが本当の真実を語っている、ダンマを支持している」と、レヴァタ大長老の説得を試みました。レヴァタ大長老は彼らの策略を見破り、彼らを支持することを拒否して、ウッタラを破門しました。

この問題を解決するため、レヴァタ大長老は結集を開きました。ヴェーサーリーの僧侶たちのうち最年長であった Sabbjakāmi が代表として出席し、レヴァタ大長老が質問者となり、 sabbjakāmī がその質問に答える形で、8人の僧侶からなる委員会がそれを聞き、委員会の投票によってその有効性が決定されました。

審判に呼ばれた8人の僧侶は、東側からSabbakāmi、saḷha、 Khujjasobhita、Vāsabhagāmikaの4人の長老、西側からRevata、Sambhuta-Sāṇavāsī、Yasa、Sumanaの4人の長老でした。彼らはこの問題を徹底的に議論し、8人の僧侶はヴェーサーリーの僧侶に反対することを決め、その評決が発表されました。

その後、700人の僧侶が参加してダンマとヴィナヤを唱えました。この歴史的な第2回結集は、ヤサ長老が大きな役割を果たし、戒律を守ろうとしたことから、ヤサテーラ・サンギーティとも呼ばれています。ヴェーサーリーの僧侶たちはこの決定を断固として受け入れず、反抗して独自の結集を開き、それを『Mahāsaṅgiti マハーサンギティ』と呼びました。

第3回結集

3回目の結集は約200年後の紀元前326年、異端を唱える僧侶や汚職を排除するために、パータリプッタ(現インド・ビハール州パトナ)の僧院で、アショーカ王の後援を受けて開催されました。

アショーカ王は、ブッダの没後、218年目に即位し、インド亜大陸(インド・バングラデシュ・パキスタン・ネパール・ブータン)をほぼ統治しました。当初はダンマとサンガ(僧侶集団)に形だけの敬意を払い、先代の父と同様に他宗派の人々を支援していました。しかし、敬虔な修行僧ニグローダに出会い、 Appamāda-vaggaダンマパダ第2章)を聞いて全てが一変し、ダンマへの関心と献身を深めていきました。

アショーカ王はその莫大な財産を使って、サンガを支援しましたが、王の潤沢な支援と衣食住の提供に惹かれて、信仰心のない貪欲な男たちが、間違った考えを持ってサンガに入ってくるようになりました。その結果、サンガに対する尊敬の念は薄れ、一部の熱心な僧侶たちは、堕落した異端の僧侶たちと一緒に儀式を行うことを拒否しました。

これを聞いた王は、事態を収拾しようと、大臣の1人を僧侶のもとに派遣して、儀式を行うように命じました。僧侶たちはこれを拒否しました。憤慨した大臣は、座っている僧侶の列を進み、剣を抜いて次々と首を切りました。出家した王の弟ティッサのところまで来たところで大臣は我に返り、殺戮をやめて逃げ出し、アショーカ王に報告しました。

アショーカ王は、僧侶兼学者のモッガリプッタ・ティッサに助言を求めました。彼は、異端の僧侶たちをサンガから追放するため、直ちに結集を開催することを提案しました。

第3回結集ではモッガリプッタ・ティッサが議長を務め、6万人の参加者の中から1000人の僧侶を選び、ダンマとヴィナヤの唱和を9ヶ月間続けました。その際にアショーカ王自らが、僧侶たちにダンマについて質問しました。誤った見解を持っている者は暴露され、すぐにサンガから追放されました。このようにして、異端者や偽物の僧侶が一掃されました。

この結集では、他にも多くの重要な成果がありました。モッガリプッタ・ティッサは、多くの異端に反論し、ダンマの純粋性を保つために、結集の間に『Kathāvatthu カターヴァトゥ(論事)』をまとめました。これは23の章からなり、哲学的な事柄について様々な宗派が持つ異端の見解を論じ、反論したものです。『アビダンマ・ピタカ』7巻のうちの5巻目です。

また、アショーカ王はこの結集を通して、ダンマとヴィナヤに精通して全てを暗唱できる僧侶を見出し、9カ国に派遣しました。カシミール、ガンダーラ、マイソール、ヴァナヴァーシー(インド南部)、ヨナカ地方(ロン族、バクトリア族、ギリシャ族の地)、ヒマラヤ隣接地、スワンナプーム(現ミャンマー)、タンバパニ王国(現スリランカ)(9カ国のうち1カ国は不明)に派遣された僧侶たちは、ダンマの教えを伝道することに成功しました。

こうしてダンマはインドから周辺諸国へと広がりました。しかし、カースト制度を批判してきたブッダの教えは、イスラム教の勃興などで13世紀にインドから完全に消滅します。現在ではインド国民の80%がヒンドゥー教徒で、ブッダの教えを源流とする仏教徒は1%以下です。

第4回結集

第4回結集は約500年後の紀元前29年に、タンバパニ王国(スリランカ)で、ヴァータガーマニ王の後援のもとに、ティピタカを文字化するために開催されました。それまでのティピタカは口伝でしたが、この時期には文字を書く技術が大幅に発達し、ブッダの教えもすべて書き留めておくことが必要だと考えられました。長老マハーラキタと500人の僧侶がブッダの言葉を朗読し、それをヤシの葉に書き記し口伝の記憶から文字による記録となりました。

椰子の葉に記録されたパーリ仏典
スリランカのシンハラ語でヤシの葉に書かれたティピタカ(出所: Wellcome Images)

この作業は、マータレー(スリランカ)の近くにある古代の洞窟で行われました。このようにして結集の目的は達成され、ダンマが文書で保存されました。その後、18世紀にヴィジャヤラージャシーハ王がこの洞窟に仏像を作らせました。

第5回結集

第5回結集1871年ミンドン王の時代にビルマのマンダレー(現ミャンマー)で開催されました。この会議の主な目的は、ブッダの教えをすべて唱え、その中に変更、歪曲、脱落したものがないかどうかを詳細に検討することでした。3人の大長老が司会を務め、2400人の僧侶が参加しました。この結集には、20代半ばのレディ・サヤドーも参加し、アビダンマの編集と翻訳を担当しました。

5ヶ月間に及ぶ会議でティピタカ全体の読解が完了し、満場一致で承認された後、後世のためにティピタカの全てを729枚の大理石板にビルマ文字で刻みました。

大理石に刻まれたパーリ仏典
パゴダ内に置かれた大理石板のパーリ仏典(出所:Flickr)
大理石に刻まれたティピタカ拡大写真
ビルマ文字でティピタカが刻まれている(出所:Flickr)

この大理石板は、マンダレー・ヒルの麓にある「クートドー・パゴダ Kuthodaw Pagoda」に収められ、今日まで「世界最大の書物」と呼ばれています。

クートドー・パゴダ
Kuthodaw Pagoda(ミャンマー ・マンダレー)©️GFDL

第6回結集

第6回結集1954年ビルマのラングーン(現ミャンマー・ヤンゴン)で、ウー・ヌ首相率いるビルマ政府が主催して開催されました。第1回結集が行われたインドの洞窟のように、大洞窟が建設され、結集が開かれました。

第6回結集(ビルマ・ラングーン)1955年1月 ©️public domain
開会式に出席した当時のミャンマー大統領バー・ウ氏(最前列)©️public domain

この結集に参加した僧侶は、ミャンマー、カンボジア、インド、ラオス、ネパール、スリランカ、タイ、ベトナムの8カ国から集まった2617人のテーラワーダ派の僧侶たちです。マハーシ・サヤドー大長老も出席しました。S.N.ゴエンカ氏も奉仕者として参加したようです。この会議が開催されるまでに、インドを除くすべての参加国で、パーリ語のティピタカがそれぞれの母国語に翻訳されました。

ティピタカの朗読には2年を要し、その間にすべての国のティピタカとその関連文献が丹念に調べられました。見つかった相違点はすべて書き留められ、必要な修正が行われ、すべてのバージョンが照合されました。幸いなことに、どのテキストも内容に大きな違いはないことがわかりました。

最後に正式に承認した後、ティピタカとその注釈書の全巻が、ビルマ文字で印刷、出版されました。ブッダが涅槃を達成してから2500年後の1956年5月に、その活動は終了しました。この協議会が作成した『ティピタカ』は、ブッダの教えを忠実に再現したものであり、これまでで最も権威あるものと評価されています。

この第6回結集で認証されたテキストは、現在、ビルマ語、サンスクリット語、ローマ文字、スリランカ語、タイ語、モンゴル語の6ヶ国語で確認することができます。

当サイトのパーリー語経典はすべて、この第6回結集のテキストを基に翻訳しています。

もし興味が湧きましたら、ティピタカの中で、最も有名で読みやすい「Dhammapada ダンマパダ」を読んでみてはいかがでしょうか? ダンマパダ