Jarā-vaggo 老いの章
ダンマパダ11章では、Jarā「老い」をテーマにしています。
DhP.146
ko nu hāso kim ānando, 誰が かどうか 笑い 何が 喜び niccaṁ pajjalite sati; 常に 火の中に 存在 andhakārena onaddhā, 暗黒によって 覆われた padīpaṁ na gavesatha. 燈火を ない 求めるのか
いったい何が
可笑しいのか?
何が楽しいのか?
常に火中にいるというのに
闇に覆われているのに
なぜ光を求めないのか?
解説
ブッダは、酒を飲んで酔い、歌ったり踊ったりして笑い楽しむ人々に、「酒を飲むと苦しみや不幸をもたらし、心が曇り、悪しき情念の影響を受けやすくなる。心の中の情熱の炎を消しなさい」と諭しました。
「情熱=passion」というと、いいイメージがあるかもしれませんが、「情熱に突き動かされる」というように激しい衝動であり、火の要素の大きなエネルギーです。ブッダ の教えでは、渇望につながる3つの心の汚れ(欲望 rāga・憎悪 dosa・無知 moha)の1つです。
DhP.147
passa cittakataṁ bimbaṁ, 見よ 心の・作為を 影像を arukāyaṁ samussitaṁ; 傷・身体 隆起した āturaṁ bahusaṅkappaṁ, 悩んだ 多くの・思い yassa natthi dhuvaṁ ṭhiti. そこに ない 永久に 続く
見なさい
美しいと思っていた姿を
膨れ上がった痛ましい肉体を
心をあれほど悩ませた肉体を
永遠に続くものはない。
エピソード
ラージャガハにシリマという美しい宮廷女官が住んでいました。彼女はブッダの教えに熱心で、毎日、僧侶に托鉢をしていました。ある僧侶が仲間に、彼女の気前の良さと美しさ、彼女がつくる食べ物の美味しさを語りました。それを聞いた一人の若い僧侶が、シリマを見ずして恋に落ちました。
翌日、僧侶たちと一緒にシリマの家に行ってみると、シリマは病気で寝ていました。しかし、僧侶たちに敬意を表して、食事を作って施しました。その姿を見て若い僧侶は、ますます彼女が欲しいと思いました。しかしその夜、シリマは亡くなってしまいました。
ブッダは若い僧侶を戒めるため、王様に、遺体を数日間放置するよう頼みました。4日目、墓地の地面に置かれた遺体は膨れ上がり、異臭を発して虫がわいていました。ブッダは若い僧侶に、シリマに会いたいかを尋ねました。シリマが亡くなったことを知らない僧侶は、とても喜び、会いに行きました。しかし墓地に着いてシリマの遺体を見たとき、彼は大きなショックを受けました。
さらにブッダは王様に、大金を払えば誰でもシリマと一晩過ごせることを発表するように頼みました。しかし誰もそんなことは望みません。徐々に値段を下げ、無料になりましたが、それでもシリマと一夜を共にしたいという人はいませんでした。
ブッダは僧侶たちに「数日前までは、多くの男たちが彼女と一夜を共にするためなら大金を払ってもいいと望んでいたのに、今では誰も無料でも彼女を欲しがらないことを理解しなさい。人の肉体は劣化し、衰えていくものだ」と言いました。若い僧侶は肉体の本質を理解し、シリマへの情熱も消えていきました。
解説
出家者は男女問わず性的関係を持つことをブッダは禁じていました。出家者が恋をした場合、その情熱を消さなくてはなりませんが、在家修行者または世俗に戻って恋を叶える選択肢もあったようです。
DhP.148
parijiṇṇam idaṁ rūpaṁ, 老朽の この 色形は roganiḍḍhaṁ pabhaṅguraṁ; 病の・巣で 壊れやすい bhijjati pūtisandeho, 壊れる 腐った・肉体は maraṇantaṁ hi jīvitaṁ. 死で終わる 実に 生命
この物体は老朽化し
衰えて病いの巣となる。
生命は死をもって終了し
腐敗した肉体は朽ちる。
解説
肉体は老いとともに、病気にかかり、衰弱して寿命は死で終わります。「生老病死」は当たり前の真実ですが、人間はこれに逆らって生きようとします。
DhP.149
yānimāni apatthāni, あたかも 投げ捨てられた alāpūneva sārade; 瓢箪 秋の kāpotakāni aṭṭhīni, 灰白色の 骨 tāni disvāna kā rati. それを 見て どの女 愛
まるで秋に投げ捨てられた
瓢箪のような
灰白色の骨を見て
愛してると思うのか?
エピソード
ある日、僧侶たちが森に行って瞑想をしていました。彼らは非常に熱心に集中を極めて深い精神状態「ジャーナ」に到達しました。彼らはこの達成感をアラハンになったと勘違いし、ブッダのもとに戻って自分たちの成果を伝えようとしました。
ブッダは彼らが、ジャーナを覚醒と勘違いしていることを知っていました。そしてアーナンダに、彼らをまず墓地に行かせるよう頼みました。
僧侶たちは墓地に行き、様々な死体を見ました。古い朽ち果てた死体や骨を見たとき、彼らはそれらを平常心で受け止めることができました。ウジがわいた醜い遺体を見たとき、彼らは目を背けて足早に通り過ぎました。しかし、まだ死んで間もない裸の女の死体を見たとき、彼らは足も目も止め、裸体に釘付けになりました。自分に欲望が残っていることに気づいた僧侶たちは、自分たちが何も成し遂げていないことを明確に理解しました。
解説
「jhāna ジャーナ」は瞑想によって到達する精神状態で、仏教用語では禅定(ぜんじょう)と呼びます。
これは「paṭikūlamanasikāra(不浄観)」という伝統的な修行法で、どんな人も必ず老いて死んで朽ち果てることを、体験を通して理解するための修行です。特に若くて性欲のコントロールが未熟な修行者に、ブッダはこの不浄観を指示しました。死の問題は禁忌されがちですが、事実をありのままに知る必要があるのです。死を正しく見つめることで、命の尊さを本当に理解することができるのだと思います。
DhP.150
aṭṭhīnaṁ nagaraṁ kataṁ, 骨に 城 作る maṁsalohitalepanaṁ; 肉・血・塗布 yattha jarā ca maccu ca, その中には 老い と 死 と māno makkho ca ohito. 慢心 偽善 と 置く
城は骨で作られ
肉と血で塗り固められている
その中には老いと死
傲慢さと偽善が置いてある。
エピソード
ルパナンダはブッダの妹で、とても美しい女性でした。従兄弟と結婚していましたが、「君主になれたはずの兄は、世を捨ててブッダになり、その息子ラーフラも、私の夫ナンダも僧侶になってしまった。母も尼僧になって、私はここに一人ぼっち」と考えて、自分も尼になりました。寂しさから、真似をして尼僧になったのです。
ルパナンダは自分の美貌を意識していました。そしてブッダが自分を見てどう思うかをいつも気にしていました。真面目に修行して見えるだろうか、褒めてもらえるだろうか、と妄想し続けていました。
そこでブッダは、少女の姿の幻影を作り、説法をしている自分の横で扇がせました。少女は若くてとても美しかったので、ルパナンダは彼女を見て、この少女に比べると自分は猿のようだと思いました。
ルパナンダが見ている間に少女は成長し始めました。若い女性になり、大人の女性になり、中年になり、年老いて最後には老婆になりました。ルパナンダは、身体の変化は継続的なプロセスであることを理解し、若く美しかった少女が、ヨボヨボの老婆に変わったことに気づきました。そして老婆は死に、その肉体はみるみる朽ちていきました。
ルパナンダは、自分の美しさもまた無常であり、病いや老いや死の対象であることを悟りました。ブッダはさらにこの詩句で彼女を諭したのです。
解説
城=私の大切な身体です。身体は、骨と肉と血でできていて老化して朽ちるもの、心は、傲慢さと他から良く思われたいという偽善があるものだ、という教えです。
DhP.151
jīranti ve rājarathā sucittā, 老いる さえも 王の馬車 豪華な atho sarīram pi jaraṁ upeti; また 肉体も 老いに 近づく satañ ca dhammo na jaraṁ upeti, 善 と ダンマは ない 老いに 近く santo have sabbhi pavedayanti. 善は 実に 善き人々と 知らせる
豪華な王の車も古くなり
肉体も衰えるが
ダンマの教えと善は古くならない
善人は必ず善い人々に伝える。
解説
全ての生命には老いと死がつきものであり、だからこそ、私たちは真摯に教えを実践しなければならない、というブッダ の言葉です。
DhP.152
appassutāyaṁ puriso, 少聞の 人は balivaddo va jīrati; 牛 ように 老いた maṁsāni tassa vaḍḍhanti, 肉 彼の 増える paññā tassa na vaḍḍhati. 智慧 彼の ない 増える
学びの少ない人は
老いた牛のようだ
肉は増えても智慧は増えない。
解説
おっしゃる通りですね。”appassuta” は、少ししか聞かないという意味です。当時は教えは全て口頭で伝えられ、書き残すことはしませんでした。全て音で記憶するのです。つまり聞く=学びです。少ししか聞かなければ学びは少なく、たくさん聞けば「多聞」多くを学んだ人です。
DhP.153
anekajātisaṁsāraṁ, 多くの・生まれ・輪廻 sandhāvissaṁ anibbisaṁ; 流転した ない・得るもの gahakārakaṁ gavesanto, 家の・作者を 探し求めて dukkhā jāti punappunaṁ. 苦しみを 生 繰り返し
見つけられないまま輪廻して
何度も何度も生まれ変わった。
生まれては苦しみを繰り返し
家(身体)の作者を
探し求めてきた。
エピソード
ある晩、ネランジャラー川のほとりの菩提樹の木の下で、瞑想をしていたゴータマ・シッダッタは、35歳にして最終段階の悟りに到達しました。その夜、彼は過去の出来事を思い出す力を得て、続いて視覚の超常能力を獲得しました。そして「Pratītya-samutpāda 縁起」と「発生と消滅」の原理について考え、夜明けとともに「cattāri ariyasaccāni 4つの聖なる真理」を完全に理解しました。この時から彼はブッダ と呼ばれるようになりました。
解説
この詩と次のDhP.154)は、ゴータマ・シッダッタが菩提樹の木の下に座って悟りを開き、最初に発した言葉です。家=身体、家の作者=生まれ変わる身体をつくる原因です。
DhP.154
gahakāraka diṭṭhosi! 家の・作者 見つけた puna gehaṁ na kāhasi; さらに 家を ない つくる sabbā te phāsukā bhaggā, すべての その 垂木 破壊される gahakūṭaṁ visaṅkhitaṁ; 家の・屋根 離れる・形成 visaṅkhāragataṁ cittaṁ, 離れる・反応・行ける 心は taṇhānaṁ khayam ajjhagā. 渇望を 滅尽 到達した
家(身体)の作者を見つけた!
もはや家が建つことはない。
すべての柱は折れ
屋根はなくなった。
すべての渇望を滅して
私の心は反応を止めて
涅槃に至った。
解説
ブッダはついに「生まれ変わって身体がつくられる原因」を発見しました。
「taṇhā(渇望)」が、家の作者=生命の作者です。
その家(身体)は、柱(kilesa 煩悩=心の汚れ)に支えられ、屋根(avijjā 無智)に覆われていますが、柱が壊されて、屋根が形を維持できなくなれば、家は建たないのです。
ブッダは、輪廻転生を繰り返す原動力が、苦しみの原因である「渇望のエネルギー」であることを理解しました。そしてこの真理を「4つの聖なる真理」としてまとめました。それが今日の仏教の原型(四諦)です。
DhP.155
acaritvā brahmacariyaṁ, ない・生活 禁欲・生活を aladdhā yobbane dhanaṁ; 得ずして 青年期に 財産を jiṇṇakoñcā va jhāyanti, 老いた・鷺 あるいは 悩む khīṇamacche va pallale. 尽きた・魚 あるいは 沼
若い頃に財産を得ずに
心を鍛えなかった人は、
年老いて鷺のように
魚のいない沼で悩むことになる。
エピソード
ある金持ちがいました。彼には息子がいましたが、若い頃に何も勉強しなかったので、無知のままでした。その後、彼は別の金持ちの娘と結婚しましたが、その娘も全く教育を受けていませんでした。両親が亡くなり、この若い夫婦は莫大な富を相続しました。
しかし、彼らはお金の使い方しか知らず、お金の稼ぎ方や管理の仕方を知りませんでした。どんどん浪費し、お金がなくなると家や畑を売り、ついに彼らは財産をすべて失い、物乞いをしなければならなくなりました。ブッダはその姿を見て、こう言いました。
「もし彼が人生の最初の段階で、世俗の富について学んでいたら、彼は一流の金持ちになっていただろうし、もし彼が僧侶になっていたら、彼はアラハンになっていたかもしれない。もし彼が人生の第2段階で、富について学んでいたら、彼は二流の金持ちになっていただろうし、もし彼が僧侶となっていたら、彼はアナーガーミ(アラハンの1段階前)になっていたかもしれない。
もし彼が人生の第3段階で富について学んでいたら、彼は三流の金持ちになっていただろうし、もし彼が僧侶になっていたら、サカダーガーミ(アラハンの2段階前)になっていたかもしれない。しかし、彼は人生の3つのステージで何もしなかったので、すべての世俗的な富を失い、精神的にもあらゆる機会を失ってしまった」
DhP.156
acaritvā brahmacariyaṁ, ない・生活 禁欲・生活を aladdhā yobbane dhanaṁ; 得ずして 青年期に 財産を senti cāpātikhittā va, 横たわる 弓で・射られた ように purāṇāni anutthunaṁ. 昔を 悲泣く
若い頃に財産を得ずに
心を鍛えなかった人は
矢が飛ぶように月日が過ぎ
過去を嘆きながら横たわる。
解説
「弓で射られたように」は、どう訳すかとても悩みましたが、「光陰矢の如し」のイメージで訳しました。「月(陰)日(光・陽)が過ぎるのは、矢のように早い」という例えですが、「矢の如し」には、射られた矢は戻ってこない、という意味があり、「過ぎ去った時間は戻ってこないから、大切にしなさい」という意味も含まれています。
物質的な目標であれ、精神的な目標であれ、時間を無駄にせず、必要な技術を熱心に学びなさい。そうしないと、年老いた時に知恵もお金もなく、「何もできなかった」と、嘆きあがら死ぬことになる、と解釈しました。
ダンマパダ11章「老い」了