ダンマパダ10章 129〜145

Daṇḍa-vaggo 暴力の章

ダンマパダ10章は、Daṇḍa暴力」がテーマです。Daṇḍa(ダンダ)は「(つえ)・」で、古代の権威の象徴であり、「罰・暴力」という意味です。

DhP.129

sabbe tasanti daṇḍassa, 
すべては 震える 棒に
sabbe bhāyanti maccuno; 
すべては 怖れる 死を
attānaṁ upamaṁ katvā, 
自己を ごとく して
na haneyya na ghātaye.
ない 害する ない 害させる

誰もが暴力に怯える
誰もが死ぬのは怖い
みんな自分と同じ
だから誰も殺さない
誰にも殺させない。

解説
殺して欲しいと願う生命はありません。そう思う時があっても、真意は「死にたい状況をなくして欲しい」です。生命の本能は常に「死にたくない」です。だから人を殺すということは、「私は殺されたくない。でも、あなたは殺されていい」という考えです。自分が殺されたくないと思っている生命は、他の生命を殺したり、殺させてはいけないのです。自分がした行為は、必ずいつか返ってくるからです。

そしてこの行為は実際に自分が手を下さなくても、心の中で思っただけでも行為(カルマ)として成立します。この詩句の最後の「誰も傷つけさせない」は、誰かを利用して傷つけさせた場合、自分は何もしていなくても、その時の自分の心には「傷つけたい」という意志があります。それが潜在的なエネルギーとして心にしっかり蓄積されるのです。身体の行為や言葉の行為がいけないとわかっていても、心の中で悪態をつくのは、バレなければ平気と思ったら大間違いです。確実に自分の心を汚しているのです。

DhP.130

sabbe tasanti daṇḍassa, 
すべては 震える 棒に
sabbesaṁ jīvitaṁ piyaṁ, 
すべての 命は 愛する
attānaṁ upamaṁ katvā, 
自己を ごとく して
na haneyya na ghātaye.
ない 害する ない 害させる

誰もが暴力に怯える
誰の命も大切
みんな自分と同じ
だから誰も殺さない
誰にも殺させない。

解説
「私の命は大事、あなたの命も大事」いかなる生命も同等です。なぜなら、自分が生きるためには他の生命の存在が不可欠で、他の生命の協力や助けがあればあるほど、楽に生きられるからです。地球に1人放置されたら、生きることはできません。これが真理です。

DhP.131

sukhakāmāni bhūtāni, 
幸せ・欲求 生き物を
yo daṇḍena vihiṁsati; 
彼が 棒で 害するなら
attano sukham esāno, 
自己の 幸せを 求める人は
pecca so na labhate sukhaṁ.
死後に 彼は ない 得る 幸せを

生き物はみんな
幸せを願っている。
他を傷つけてまで
自分の幸せを求める人は
来世で幸せにはならない。

解説
人間の心の本音はみんな「自分のニーズを満たしたい」です。だから他者は「自分のニーズを満たす存在」であって欲しいわけですが、そのニーズの目的は「自分を満足させて幸福感を持続させる」ことです。人を傷つける行為も、気に入らない他者を、自分が気に入るようにすることで、満足して幸せを感じようとする行為です。そんな不自然な形では、幸福感が続くはずはないですよね。

DhP.132

sukhakāmāni bhūtāni,
幸せ・欲求 生き物を
yo daṇḍena na hiṁsati; 
彼が 棒で ない 害する
attano sukham esāno, 
自己の 幸せを 求める人は
pecca so labhate sukhaṁ.
死後に 彼は 得る 幸せを

生き物はみんな
幸せを願っている。
他を傷つけずに
自分の幸せを求める人は
来世で幸せになる。

解説
他の生き物を害するということは、他の生き物よりも自分のニーズを優先させるということです。しかし自然の法則では、自分も他の生き物も常に同等です。幸せになるためには、自分を優先させても、他の生き物を優先させてもダメなのです。気に入らない相手を自分のニーズに沿わせても、大好きな相手のニーズに自分を沿わせても、どちらも幸せにはなれないのです。

DhP.133

māvoca pharusaṁ kañci, 
なかれ・言う 粗暴な 誰にも
vuttā paṭivadeyyu’ taṁ, 
言われたら 返す あなたに
dukkhā hi sārambhakathā, 
苦しみ 実に 憤慨の語
paṭidaṇḍā phuseyyu’ taṁ.
返す・棒 触れる あなたに

厳しいことは言わないように。
言われた人は言い返してくる
怒りの言葉は実に不愉快で
あなたも嫌な思いをするよ。

解説
人が発する言葉には、発する人の感情が含まれます。同じ言葉でも言い方や心の持ち方で、受け取る方の印象も変わります。

DhP.134

sace neresi attānaṁ, 
もし ない・動じる 自己を
kaṁso upahato yathā; 
銅鑼 壊れた ように
esa pattosi Nibbānaṁ, 
この 到達した者 涅槃を
sārambho te na vijjati.
憤慨は あなたに ない 見出す

壊れた銅鑼のように
黙って動じなければ
涅槃に到達したも同然
怒りはなくなる。

解説
銅鑼(ドラ)や鐘はバチで打ち鳴らすと、バチが当たった部分(接触)から振動が生じて広がり、銅鑼全体を振動させて音を発生します。そして余韻を残しつつ音は消えていきます。人の身体や心も、この銅鑼と同じ原理です。

6つの感覚器官の接触した部分から振動が生じて、身体全体・心全体に振動が広がります。そして消えていきます。大きな振動もあれば、小さな振動もあります。接触する部分によって、発する振動音もさまざまです。

苦手な人から文句を言われた時(耳に音が接触)が、「また始まった、嫌だ!」と嫌悪の振動が生じて心全体に振動が広がり、身体も同時に硬ったり、ワナワナと震えたりするのです。

銅鑼が壊れることはまずないでしょうが、比喩的に壊れた銅鑼や鐘は叩いても音がしません。バチが接触しても振動しないのです。同様に、何があっても心が振動しない・動じないように意図的にコントロールするのです。

言い返したり、仕返ししたり、何らかの行為をすれば、それは必ず結果として自分に戻ってきます。わからなかったり、迷ったときには、何もせず黙っているのがいいのです。行為を作らないのが一番の得策です。

DhP.135

yathā daṇḍena gopālo, 
ように 棒で 牧牛者が
gāvo pāceti gocaraṁ; 
牛を 駆る 牧場に
evaṁ jarā ca maccu ca, 
このように 老い また 死 また
āyuṁ pācenti pāṇinaṁ.
寿命 駆り立てる 生き物

牛飼いが牛を
牧草地に追い立てるように
老いと死は生き物の
生命を駆り立てる。

エピソード
あるとき、サーヴァッティから大勢の女性がプッバーラーマ僧院にやって来て、熱心に修行していました。僧院の世話人であるヴィサーカ夫人は感心して、彼女たちになぜ僧院に来たのか尋ねました。すると、高齢女性は来世での富と繁栄を願いに、中年女性は夫の浮気がなくなるように、若い既婚女性は子供が授かるように、若い未婚女性は良い結婚ができるように、祈願しに来たと答えました。

ヴィサーカ夫人はソーターパンナ(第一段階の修行完成者)だったので、目先のことしか考えていない彼女たちに落胆しました。そして女性たちをブッダのもとへ連れて行き、ブッダに彼女たちの目的を伝えました。ブッダは「人の目的は次々と変わるものです。結婚は老女には無用で、来世の富も繁栄もいまの若い娘には不要でしょう。つまり目的に達しても達しなくても、時と場所が変われば、その目的は無意味になるのです。それなのに目的を叶えようと時間を浪費し、叶わなければ苦悩するのです」と言いました。

そしてブッダは、ヴィサーカ夫人に「生老病死は、常に存在のエネルギー源です。しかし、彼女たちは存在の輪(輪廻)からの解放を試みようともせず、いまだに輪廻の中に留まろうとしている」と言いました。

解説
願いは叶っても叶わなくても、常に自分と共に変化していくのです。だからそれを追い求めたり、叶わないことを嘆いても無意味です。その証拠に、願いが叶うと人はすぐに、違う願いを追い求めます。なぜでしょう? それはこの渇望のエネルギーが、生命の源のエネルギーだからです。「生老病死」について思い悩むことは、苦しみの原因ですが、同時に、輪廻転生のエネルギー源です。このエネルギー源を絶たない限り、輪廻のサイクルから解放されないのです。

DhP.136

atha pāpāni kammāni, 
また 悪い 行為を
karaṁ bālo na bujjhati; 
する 愚か者 ない 覚る
sehi kammehi dummedho, 
自らの 行い 反・知恵者は
aggidaḍḍho va tappati.
火・焼かれる 苦しむ

悪いことをしながら
悪いことだと気づかない
無知な人は自分の行いで
火に焼かれたように
苦しむことになる。

解説
すべての悩み苦しみは、その人の行いによるものです。行為の結果です。人は意志によって行為を行います。この意志が汚れていたら、当然その行為も汚れたものになります。

DhP.137

yo daṇḍena adaṇḍesu,
人は 棒によって ない・棒で
appaduṭṭhesu dussati; 
ない・邪悪で 害する
dasannam aññataraṁ ṭhānaṁ, 
十のうちの 1つに 状態になる
khippam eva nigacchati:
急速に だけ 至る

無抵抗で悪意のない人に
危害を加えたら
次にあげる10の
いずれかにたちまちなる。

解説
これはもちろん天罰ではなく、このような行為に及んだ場合に、次に起こる自然の法則です。

DhP.138

vedanaṁ pharusaṁ jāniṁ, 
感覚 粗悪な 損失
sarīrassa ca bhedanaṁ; 
身体に と 破壊
garukaṁ vā pi ābādhaṁ, 
重大な また・も 病気
cittakkhepaṁ va pāpuṇe.
精神錯乱 また 到達するだろう

罪悪感や喪失感
身体に怪我をしたり
また重い病気や
精神異常になるだろう

解説
まず自分自身の心には、罪悪感が入り混じった複雑な感情の動きが現れます。いわゆる良心の呵責です。罪悪感は自分の身体を攻撃し、痛みや傷害、病気などの現象をもたらします。そうすることで、報いを受けたと自分に認識させ、怖れている「悪行為の本当の結果」に直面しないで済むようにする心の動きです。

DhP.139

rājato vā upasaggaṁ, 
王による また 災難
abbhakkhānaṁ va dāruṇaṁ; 
誹謗 あるいは 中傷
arikkhayaṁ va ñātīnaṁ, 
衰退 あるいは 親族を
bhogānaṁ va pabhaṅguraṁ.
家財を あるいは 分散

または刑罰を受ける
誹謗中傷や
親族を亡くす
財産を失う

エピソード
ある時、ニガンタ派の僧侶たちが、大長老モッガラーナを殺そうと計画しました。モッガラーナには神通力があり、その力でブッダを護衛していたので、モッガラーナを殺せば、ブッダを失脚させられると考えたのです。彼らは殺し屋を雇い、ラージャガハ近郊に滞在していたモッガラーナの殺害を企てました。

殺し屋は僧院を襲いましたが、モッガラーナは神通力で、最初は鍵穴から、2度目は屋根から逃げ出しました。殺し屋は2ヶ月間、モッガラーナを捕まえられませんでした。3ヶ月目に再び僧院を襲撃したとき、モッガラーナは過去世で自分がした悪行の報いをまだ受けていないことを思い出し、神通力を発揮するのをやめました。そしてモッガラーナは捕まって暴行されました。

殺し屋は、彼が死んだと思い、モッがラーナの肉体を茂みに放置しました。しかしモッガラーナは神通力で、ジェタヴァナ僧院のブッダの前に現れました。そして自分がラージャガハの近くで、まもなく涅槃を実現することを、ブッダ に伝えました。ブッダは、「もう会うのはこれが最後だから、僧侶たちにダンマを説いてから行くように」と言いました。モッガラーナはダンマを説き、ブッダに7回の拝礼をして去っていきました。

モッガラーナの遺体が森で見つかり、殺し屋は捕らえれて処刑されました。僧侶たちは、モッガラーナの死を非常に悲しみ、なぜ大長老モッガラーナほどの人物が、殺し屋の手に掛からなければならないのか、理解できませんでした。そんな彼らにブッダは「モッガラーナは現世で立派に生きてきたのだから、このような死にかたをするはずがない」と言いました。

「しかし、彼は過去世において、盲目の両親に大きな過ちを犯していた。最初はとても従順な息子だったが、結婚後、妻がトラブルを起こし、妻は両親を追い出すべきだと言った。彼は盲目の両親を森に連れて行き、そこで両親を殴り、殴っているのは泥棒だと思わせて殺したのだ。その悪い行為のために、彼は長い間、地獄界で苦しみ、最後の存在界である現世では、惨殺されて死んだのだ。悪いことをしてはいけない人に悪いことをすれば、必ずそのことで苦しむことになる」とブッダは言いました。

解説
これら4つは、社会的な制裁です。善良で無抵抗の人に危害を加えれば、捕らえられて処罰されます。世間から非難され、親族も居場所がなくなります。当然、財産も失います。

DhP.140

atha vāssa agārāni, 
さらに 生活 家
aggi ḍahati pāvako; 
火 焼く 輝く
kāyassa bhedā duppañño, 
身体の 崩壊 ない・智慧
nirayaṁ so upapajjati.
地獄に 彼は 再生する

さらに家も暮らしも
燃えさかる炎に焼かれ
智慧のないまま死後は
地獄に生まれ変わる。

解説
エピソードでは、聖者を殺した犯人が火炙りの刑になっています。炎に焼かれることは極刑で、ニラヤ界(地獄)や霊界(餓鬼界)も常に火に炙られています。人類は火を扱うことができる唯一の生き物ですが、同時に火は常に生命にとって怖れの象徴なのです。

DhP.141

na naggacariyā na jaṭā na paṅkā, 
ない 裸 ない 結髪 ない 泥
nānāsakā thaṇḍilasāyikā vā;
ない・断食 地面に寝る あるいは
rajo ca jallaṃ ukkuṭikappadhānaṁ,
埃 と 垢 しゃがむ・動作で
sodhenti maccaṁ avitiṇṇakaṅkhaṁ.
浄め 人間を ない・超える・不確実性を

常に裸でいたり
髪を伸ばし続けたり
身体中に泥を塗ったり
断食したり
地ベタに寝たり
沐浴をやめたり
しゃがんだ姿勢を続けたり
そんなことをしても
人間は浄化されない。

解説
この詩句は自分に与える暴力、いわゆる「苦行」についてです。苦行は、肉体を苦しめることで欲望を抑えて精神力を高め、それによって過去の業を除去して心を浄化する方法です。

ブッダは6年間、激しい苦行を行いましたが、「こんな卑俗なことをしても、理想が達成されることはない」と止めました。仲間からは脱落者扱いでしたが、「過度な快楽が不適切なのと同じく、極端な苦行も不適切である」と気づいて中道を行き、瞑想を実践して悟りを得ました。

DhP.142

alaṅkato ce pi samaṁ careyya, 
飾る たとえ 同じく 行う
santo danto niyato brahmacārī;
穏やかで 制御し 決定し 純潔で
sabbesu bhūtesu nidhāya daṇḍaṁ,
すべての 生き物に 下に置く 棒を
so brāhmaṇo so samaṇo sa bhikkhu.
彼は バラモン 彼は 修行者 彼は 比丘

たとえ着飾っていても
穏やかで自制心があり
道徳を守って純潔で
すべての生き物に対して
非暴力であれば
その人はバラモンであり
修行者であり僧侶だ。

エピソード
ある時、大臣のサンタティが国境での反乱を鎮圧して戻ってきました。パセーナディ王はその功績を称え、彼を7日間楽しませる踊り子を贈りました。サンタティは毎日、心ゆくまで楽しみ、酒に酔い、若い踊り子に夢中になりました。王室の装飾を施した象に乗って川辺に降りて水浴びをしたり、食事をしたり、酒を飲んだりして楽しみました。

7日目の夕方、大臣一行は庭に出て、さらに酒を飲み、踊り子の接待を受けました。踊り子の方も、大臣を楽しませようと一生懸命でした。彼女は体を鍛えるため、この一週間、食事を減らしていました。踊っている最中に突然倒れ、そのまま死んでしまいました。大臣はショックを受けて深く悩みました。すがる思いでブッダ のもとに行き、踊り子の突然の死による悲しみと苦しみを話しました。

「尊い先生、どうか私の悲しみを乗り越えさせてください」。ブッダは「踊り子の死によってあなたが流した涙は、すべての海の水よりも多いのです。過去に、あなたには渇望による執着があったが、それを取り除きなさい。今後は、そのような執着を起こさないようにしなさい。何の執着も持たないことで、あなたの中で渇望と情念が静まり、あなたは涅槃を実現するでしょう」と言いました。

これを聞いて、大臣はその後アラハンになりました。そして、自分の寿命が尽きるのを悟ってブッダにこう言いました。「尊い先生、私に今、涅槃を実現させてください、時間が来たようです」。ブッダが承諾すると、サンタティはヤシの木の高さまで天に昇り、そこで火の要素を瞑想したまま、涅槃を実現してこの世を去りました。身体は炎に包まれ、肉と血は燃え尽き、遺骨が空から落ちてきて、ブッダの指示通りに僧侶たちが広げたきれいな布の上に落ちました。

僧侶たちはブッダに尋ねました。「正装した大臣は涅槃を実現しましたが、彼はバラモンを装った修行者だったのですか?」 それに対してブッダは「私の息子は、修行者でありバラモンだったのです。両方です」と答えました。

解釈
いきなりバラモンが出てきて混乱しそうですが、大臣は、インドのカースト制度の最上位階級バラモン」だったのだと思います。ブッダは、出家者(僧侶)や在家(修行者)に、質素な生活をするよう指導していました。それなのに、出家でも在家でもない世俗の高官が、正装(おそらく死への敬意)で涅槃を実現することに、僧たちは疑問を持ったのでしょう。ブッダ の答えは、重要なのは外見ではなく内面だ、ということです。

DhP.143

hirīnisedho puriso, 
恥・防止 人は
koci lokasmi’ vijjati; 
誰か 世に 見出す
yo nindaṁ appabodhati, 
彼は 巣 ない・覚ます
asso bhadro kasām iva.
馬 良い 鞭 のように

人は羞恥心から自制する。
世の中の誰も指摘してくれない。
良馬を鞭打つように
自分で目を覚ますのです。

エピソード
ある時、長老アーナンダは、みすぼらしい服を着た少年が、食べ物を乞い歩くのを見て、その少年を哀れに思い、サーマネラ(若い修行僧・小僧)にしました。サーマネラは、着ていた服と物乞い用の皿を木の枝にぶら下げました。

その後、彼は僧侶になりピロティカと呼ばれました。僧侶になったので、衣食住の心配をする必要がなくなりました。しかし時々、僧侶としての生活に満足できず、世俗の生活に戻りたいと思うこともありました。そんな時は、古着と皿をぶら下げたあの木の下に戻ってみるのです。そして木の下で、自分にこう問いかけるのです。「あぁ、恥知らず。お前は、よく食べ、よく着飾っていられる場所を離れたいのか? こんなみすぼらしい服を着て、この古い皿を持って、また物乞いに行きたいのか?」。 こうして自分を叱咤激励し、心を落ち着かせてから僧院に戻りました。

数日すると、また僧侶の生活から離れたくなり、再び木の下に行きました。自分に同じ質問をして、自分の昔の生活の惨めさを思い出した後、彼は僧院に戻りました。これを何度も繰り返していたので、他の僧侶たちが、なぜいつもあの木のところに行くのか尋ねました。ピロティカは「先生に会いに行く」と言いました。

そのうちにピロティカは、木の下に行かなくなりました。そのことに気づいた僧侶が「なぜ、もう行かないの?」と尋ねました。ピロティカは「必要な時には先生の所に行きましたが、今は先生の所に行く必要がなくなりました」と答えました。それを聞いた僧侶たちは、彼をブッダのもとに連れて行きました。

そしてブッダの前で、「この僧はアラハンになったと言っていますが、嘘に違いありません」と言いました。しかしブッダは反論し、「ピロティカは嘘を言っていない、本当のことを言っている。彼は善悪を区別し、物事の本質を見極めることを自らに言い聞かせた。彼は今はアラハンになったので、先生はもう必要ない」と言いました。

DhP.144

asso yathā bhadro kasāniviṭṭho, 
馬 ように 良い 鞭で・止まった
ātāpino saṁvegino bhavātha;
熱心に 正しい・力で あるように
saddhāya sīlena ca vīriyena ca,
確信を持って 戒めて と 努力 と
samādhinā dhammavinicchayena ca;
精神統一して ダンマを・探求 そして
sampannavijjācaraṇā patissatā,
成就する・智慧を・実践 反・記憶
pahassatha dukkham idaṁ anappakaṁ.
喜び 苦しみ 今 多くの

鞭で打たれた良馬のように
熱心に正しい力で
信頼して戒めて努力し
集中して真理を探求するように。
多くの喜びや苦しみも
あるがままに受け止めて
偏見なく実践することで
智慧を成し遂げなさい。

解説
鞭で打たれた良馬は、正しい方向に懸命に疾走します。私たちの心の中には、それぞれの思い出が詰まっています。その記憶をもとに判断して、喜んだり、苦しんだりします。私たちはあらゆる出来事に常に偏見を持って接しています。これらの記憶は、いま現在のものではありません。現実はすでに変わっているのに、人は記憶の印象のまま、現実を曲げて判断するのです。これは単なる癖です。

DhP.145

udakaṁ hi nayanti nettikā, 
水 実に 運ぶ 導く人
usukārā namayanti tejanaṁ; 
矢を作る人 加工する 矢を
dāruṁ namayanti tacchakā, 
木材 加工する 大工
attānaṁ damayanti subbatā.
自我を 調教 善行者たちは

水道屋は水を、自在に扱う
矢職人は矢を、自在に扱う
大工は木材を、自在に扱う。
善行者たちは
自分の心を自在に扱う。

解説
この詩句は、ダンマパダ章「賢い人」の80番と最後の一文字以外は全く同じです。心は暴れ馬のようなもの、しっかり手綱を持ってコントロールできれば、とても役に立つのです。

ダンマパダ10章「暴力」了