ダンマパダ19章 256〜272

Dhammaṭṭha ダンマの実践者の章

ダンマパダ19章は、Dhammaṭṭhaダンマの実践者」がテーマです。

dhamma(ダンマ)+ ṭhā(留まる、立つ、依る、属する)で、直訳すると「ダンマに立つ人」「ダンマに依る者」となります。つまり「ダンマに則って生きる人」「真理に基づいて行動する人」「ブッダの教えを拠り所にする人」という意味です。

ダンマとは「真理」のことです。ブッダの教えでもありますが、ブッダがいてもいなくても、真理は自然の法則であり、宇宙の原則なので、変わることはありません。ダンマは確実な根拠によって、本当であると認められたことであり、 ありのまま誤りなく認識された事実のことです。 ゴータマ・ブッダはこの真実を、言語化してわかりやすく説いた人です。

DhP.256

na tena hoti dhammaṭṭho, 
ない それ故に ある ダンマに基づく
yenatthaṁ sahasā naye; 
そこから道理を 無理に 導く
yo ca atthaṁ anatthañ ca, 
人は しかし 道理を 不義 また
ubho niccheyya paṇḍito,
両方を 決定 賢者は

強引な決断は
ダンマに則っていない。
賢者
何が道理か何が不当か
その両面によって決断する。

エピソード
修行僧たちが托鉢を終えて、サーヴァッティから戻ってきました。途中で大雨が降ってきたので、裁判所で雨宿りをしました。そこで修行僧たちは、裁判官が賄賂を受け取った後、とても素早く事件を解決しているのを目撃しました。修行僧たちはこのことをブッダ に報告し、ブッダはこの詩句と次のDhP.257を語りました。

DhP.257

asāhasena dhammena, 
ない・無理に ダンマによって
samena nayatī pare; 
正しさで 導く 他を
dhammassa gutto medhāvī, 
ダンマの 護る 智慧者
"dhammaṭṭho" ti pavuccati.
ダンマの実践者 と 呼ばれる

強引ではなく
ダンマによって
道理で他者を導き
ダンマを護る智慧者が
ダンマの実践者」と呼ばれる。

解説
人を裁くのはとても簡単で、人の間違いや悪いところを指摘するのは簡単です。どんな人にでも必ず過ちがあり、この世に完璧な人は存在しないからです。だからこそ人を裁くときは、徹底的に考慮しなければなりません。あらゆる視点からの意見に耳を傾け、あらゆる角度から問題を見なければなりません。そうして初めて、真理に基づいて判断することができ、「道理にかなっている」ということができるのです。

DhP.258

na tena paṇḍito hoti, 
ない それ故に 賢い人 なる
yāvatā bahu bhāsati; 
それだけで 多く 語る
khemī averī abhayo, 
安穏な ない・敵意 怖れない
"paṇḍito" ti pavuccati.
賢者 と 呼ばれる

多くを語るだけでは
賢い人にはならない。
穏やかで、敵意がなく
怖れのない人が
賢者」と呼ばれる。

解説
おしゃべりは、単なる感情のはけ口でしかありません。主観をいくら語っても、他者には何も伝わりません。語るべきは客観的な事実のみです。

DhP.259

na tāvatā dhammadharo,
ない それで ダンマ保持者
yāvatā bahu bhāsati; 
それだけで 多く 語る
yo ca appam pi sutvāna, 
人は しかし 少し しか 聞いた
dhammaṁ kāyena passati;
ダンマを 身体で 見る
sa ve dhammadharo hoti, 
彼は 実に ダンマ保持者 ある
yo dhammaṁ nappamajjati.
人は ダンマに ない・怠惰

多く語るだけでは
ダンマの持ち主ではない。
少ししか聞かなくても
身体を通してダンマを観察し
ダンマを疎かにしない人こそ
ダンマの持ち主だ。

解説
ダンマを理解するには、量よりも質がはるかに重要です。たった一節しか覚えていなくても、それを完全に理解しているならば、ブッダの言葉をすべて覚えていても意味を理解していない人よりもはるかに優れています。

DhP.260

na tena thero hoti, 
ない それ故に 長老 なる
yenassa palitaṁ siro; 
それをもって 白髪 頭
paripakko vayo tassa, 
熟した 年代は 彼の
"moghajiṇṇo" ti vuccati.
無用の・老い と 言われる

白髪頭だからといって
長老になれるわけではない。
ただ歳だけとった人は
無駄に歳をとった人
だと言える。

解説
Thera(テーラ)長老」とは、単に歳をとった老人ではありません。7歳の子供であっても悟りを得たアラハンは長老です。年齢を重ねた人ではなく、智慧を重ねた人なのです。

DhP.261

yamhi saccañ ca dhammo ca, 
人に  真実 と ダンマ と
ahiṁsā saṁyamo damo;
無害 自制心 訓練
sa ve vantamalo dhīro, 
彼が 実に 汚れなき人 賢者は
"thero" iti pavuccati.
長老 と 呼ばれる

真理と道理を理解し
非暴力で自制心があり
訓練して心の穢れのない
賢者だけが
長老」と呼ばれる。

解説
4つの聖なる真理を理解し、ダンマに基づき、他を傷つけない、心をコントロールできる、心を浄化した賢人だけが長老と呼ばれます。

DhP.262

na vākkaraṇamattena, 
ない 言語・為す・量
vaṇṇapokkharatāya vā; 
顔色・美しい また
sādhurūpo naro hoti, 
善き・姿 人は なる
issukī maccharī saṭho.
嫉妬 物惜しみ ずるい

口が達者で
容姿端麗でも
嫉妬深く利己的で
ズルい人は
善人ではない。

解説
尊敬されたければ、心をきれいにしなければなりません。憎んだり、羨んだり、利己的では、他人に尊敬されるのは不可能です。優しい言葉や笑顔の仮面で隠して誰かを騙すことはできても、それはほんの少しの間だけです。そのうちに、誰もが本当の姿を知り、尊敬の念はあっという間に消えてしまいます。

issā(イッサー)嫉妬」「macchariya(マッチャリヤ)物惜しみ」「saha(サタ)ずるい」。これらはすべて「dosa(ドーサ)怒り」の精神作用です。

嫉妬は、自分にないものを他者が持っていることへの怒りです。

物惜しみは逆に、自分にあるものを他者触れられたくないという怒りです。

ずるさは、人をだしぬいて自分が得するように仕向けることです。自分の利益だけを考え、他者の立場などは全く考えません。

いずれにせよ、私にないものを増やし、あるものを減らしたくない、という怒りです。囲い込みたいのはモノやヒトだけでなく、情報にも及びます。

DhP.263

yassa cetaṁ samucchinnaṁ, 
人は しかし・それを 断ち切り
mūlaghaccaṁ samūhataṁ; 
根こそぎ 取り除き
sa vantadoso medhāvī, 
彼が 捨てた・怒りを 智慧者は
"sādhurūpo" ti vuccati.
善き・姿 と 言われる

しかしそれらを断ち切って
根こそぎ取り除き
怒りを捨てた智慧者は
善人」だと言える。

解説
嫉妬、物惜しみ、ずるさ
、これらはいずれもダンマに基づかない行為です。これらの感情は、孤独な状態ではほとんど生まれません。他者との関係の中で生じるのが特徴で、他者を拒否するエネルギーです。

ダンマの実践者は、自分が損をしても道理を選びます。

DhP.264

na muṇḍakena samaṇoない 剃髪 サマナは
abbato alikaṁ bhaṇaṁ; 
ない・道徳 妄語を 語る人
icchālobhasamāpanno, 
希求・欲に・侍従する人
samaṇo kiṁ bhavissati.
サマナは なぜ あるだろう

道徳心がなく嘘をつく人は
頭を剃っていても
サマナではない。
欲の向くままに求める人が
どうしてサマナであるだろう。

解説
Samaṇa(サマナ)沙門」は、宗教的悟りや真理を求めて修行する求道者です。

ブッダの時代にも、道徳心がなく嘘をつく僧侶がたくさんいました。外見や立場(sādhurūpa)と、内面の成熟(真のsādhu)は別物です。ブッダは常に「行いがその人を決める」と言い、肩書きや姿に騙されないようにと説いています。

DhP.265

yo ca sameti pāpāni, 
人は しかし 静まる 悪を
aṇuṁ thūlāni sabbaso; 
微細な 粗大な すべての
samitattā hi pāpānaṁ, 
静止狀態 実に 悪
"samaṇo" ti pavuccati.
サマナ と 呼ばれる

大きなものから
小さなものまで
全ての悪を静めた人は
悪が静まった状態だからこそ
サマナ(寂静者)」と呼ばれる。

解説
Samaṇa
(サマナ)の sama(サマ)は、静まるという意味です。

DhP.266

na tena bhikkhu hoti, 
ない それ故 比丘 ある
yāvatā bhikkhate pare; 
それだけで 食物を乞う 他者に
vissaṁ dhammaṁ samādāya, 
生臭い 物を 受け取るなら
bhikkhu hoti na tāvatā.
比丘は ある ない そのため

他者に物をねだるのは
比丘ではない。
欲した物を受け取るならば
それは比丘ではない。

解説
Bhikkhu(ビック)比丘(びく)」とは、出家して托鉢によって日々の糧を得る修行者のことです。もともとの語源は「物乞いをする者・乞食」という意味ですが、比丘は物乞いはしません

比丘は黙ってドアの前に立つだけです。支援者から自発的に与えられる施しを、ただ受けとって生活します。何かを乞うということは、何かが欲しいということです。欲しいという欲を、完全に滅尽するために生きるのが比丘です。

DhP.267

yodha puññañ ca pāpañ ca, 
人は・ここで 功徳 と 悪 と
bāhetvā brahmacariyavā; 
取り除く 禁欲の・生き方
saṅkhāya loke carati, 
考慮して 世の中を 行動する
sa ce "bhikkhū" ti vuccati.
彼は 実に 比丘 と 言われる

善も悪も取り除いて
禁欲的な生活を送り
世の中で思慮深く
行動する人こそ
比丘」だと言える。

解説
比丘は自分の意志によって戒律を守り、自ら進んで清貧と独身の生活をしています。解脱を目指す比丘は、悪行を止めるのはもちろん、善行をして功徳を積もうとすることも止めます。悪いとか善いとかの判断すらも超越しなければなりません。

DhP.268

na monena munī hoti, 
ない 沈黙する 黙者 ある
mūḷharūpo aviddasu; 
愚痴の・態は 無知
yo ca tulaṁ va paggayha, 
人は しかし 秤 のように 掴んで
varam ādāya paṇḍito,
最上を 取って 賢者は

黙っていても
愚かで無知ならば
ムニ(黙者)ではない。
賢者は秤のように
優れたものを選び取る。

解説
Muni
(ムニ)とは、元々は「沈黙の誓いを立てている人」のことです。269に続く。

DhP.269

pāpāni parivajjeti, 
悪を 避ける
sa munī tena so muni; 
彼は 黙者 それ故 彼は 知った
yo munāti ubho loke, 
人は 知る 両方 世界
"muni" tena pavuccati.
ムニ それ故 呼ばれる

ムニは知っているから
悪いものを避ける。
この世の両面を知る人だから
ムニ」と呼ばれる。

解説
沈黙
は必ずしも賢さを意味しません。沈黙するのは、言うことがないからだったり、愚かで何が起きているのかわかっていないから、だったりするからです。世の中の両面を理解し、何ものにも執着せず、何が悪かを知って避ける人が、真に賢者と呼べるのです。

この世には、絶対的な善も悪もありません。あらゆるものには裏表があるように、どちらも互いに異質な側面を含んでいます。賢者はその二面性を理解しているのです。

DhP.270

na tena ariyo hoti, 
ない それ故 聖人は ある
yena pāṇāni hiṁsati; 
人は 生き物を 害する
ahiṁsā sabbapāṇānaṁ, 
非暴力 すべて・生き物に
"ariyo" ti pavuccati.
聖人は と 呼ばれる

生き物を殺す人は
聖人ではない。
すべての生きものに
非暴力であってこそ
聖人」と呼ばれる。

解説
アリヤ
という名前の漁師が、魚を釣って売っていました。生き物を殺すのは、聖人という名に相応しくないという詩句です。

DhP.271

na sīlabbatamattena, 
ない 戒や・律によって
bāhusaccena vā pana; 
多聞によって あるいは また
atha vā samādhilābhena, 
時に あるいは 禅定を・得ることで
vivittasayanena vā,
離れて・臥すことで あるいは

多くのダンマを聞いたり
戒や規律を守ったからではなく
禅定を得たからでも
隠遁生活をしたからでもない。

エピソード
ダンマを実践している出家者はたくさんいましたが、全ての人がすぐに悟りに達するわけではありません。彼らの中には、戒律を完璧に守り、とても徳の高い人もいました。また、ブッダの説法をたくさん勉強している人や、瞑想が得意な人もいました。

ブッダは彼らに、覚醒したかどうかを尋ねました。彼らは「まだだが、これだけのことを成し遂げたのだから、もうすぐだろう」と答えました。ブッダはこの詩句とDhP.272で戒めました。

DhP.272

phusāmi nekkhammasukhaṁ, 
達する・私は  離欲の・楽に
aputhujjanasevitaṁ; 
ない・凡夫・親しむ
bhikkhu vissāsa’ māpādi, 
比丘よ 信心 なかれ・一歩
appatto āsavakkhayaṁ.
ない・得て 煩悩の・滅尽を

世俗の人にはわからない
離欲の境地に達しても
比丘よ
煩悩を根絶していなければ
あと一歩と
過信してはいけない。

解説
悟りを得ることは簡単ではありません。たとえ私たちが集中力を高めたり、たくさんの真理を学んだり、本当に道徳的で精神的な人であったとしても、最終的な目標(解脱)に比べれば、これらの作業は非常に簡単なものです。最終的な目標である涅槃に到達し、心の汚れをすべて取り除いたときに初めて、「やるべきことをやった」と安心することができるのです。

ダンマパダ19章「ダンマに従う人」了