悟りの段階は4段階あります。ソーターパンナ、サカダーガーミ、アナーガーミの順に1段階ずつ進み、アラハンで悟りが完成します。第1段階のソーターパンナになった時点で、悟った人であり、聖なる道に入った聖者となり、いつか必ずアラハンになって解脱します。
ジャーナの4段階と似ていますが、ジャーナはサマタ瞑想によって到達する静寂な精神状態のことです。悟りによって到達する「涅槃(ニッバーナ)」ではないので、混同しないように。
Sutta Piṭaka(スッタピタカ)によると、悟りの道を進んでいくと、10の束縛が段階的に消えていきます。最終的に10の束縛すべてが消えることで、苦しみは完全に克服され、解脱です。
10の束縛
- sakkāya-diṭṭhi:自我の意識
- vicikicchā:疑い・惑い
- sīlabbata-parāmasa:こだわり
- kāma-rāga=kāmacchanda:感覚的な欲
- vyāpāda=paṭigha:悪意・敵意
- rūpa-rāga:色界への執着
- arūpa-rāga:無色界への執着
- māna:慢心
- uddhacca:掉挙(じょうご)
- avijjā:無明
第1段階 sotāpanna ソーターパンナ
ソーターパンナは、sota = 流れ+āpanna = 入った:悟りの流れに入った人という意味です。「聞くだけで悟った人」でもあり、ブッダの説法を聞いた大勢の人々がその場でソーターパンナになったという記述が経典に多く見られることから、必ずしも瞑想実践を必要としません。
10の束縛のうち1〜3を克服すると、ソーターパンナです。
1. 自我の意識(sakkāya-diṭṭhi):sat(存在する)kāya(集まり)diṭṭhi(見解):「私」という実体が存在するという錯覚が消える(無我)ことです。
私たちは私のことは自分でなんでも自由にできると思い込んでいますが、私たちは呼吸して酸素がなくては生きられないし、食べなくてはならないし、老いることも死を避けることもできません。私の身体を支配しているのは自然であり、私たちには何一つコントロールできないということです。
つまり「6つの感覚器官を通して私が存在する」という間違った理解に気づくことです。何かの対象を「私」が見ているのではない。その条件(物体、光、視覚能力のある人間、その物体に対するその人間の意識による注意)が満たされたときに起こる「見える出来事」に過ぎないということです。見られるものに関して、見られるものだけが存在するのであって、「私」を付け加える必要はないのです。
これが「無我」です。これを体験すると、次の2つは自然に消えます。
2. 疑念(vicikicchā):解脱に関わる根本的な疑念、修行を妨げる疑惑。
疑いにもいろいろありますが、「ブッダは本当に完全に悟った方なのだろうか。ブッダの教えは本当に正しいのだろうか。他にも同じような悟りの道があるのではないか」といった根本的な疑いです。
ソーターパンナは、ブッダが説いた道が正しいことを確信しています。これが消えると、何の疑いもなくなり、ぐずぐず迷わないので、結果もすぐに出るようになります。
3. 戒禁取(sīlabbata-parāmāsa):こだわること。元々は誤った戒律・規律に執着することです。「私がやっているのが正しい、これでなければいけない」とこだわるのは、真理ではなく、自分が決めた習慣や決まりに自分が縛られています。
ソータパンナで消えるのは、この3つだけです。しかも全て見解・邪見・無知に関するもので、欲や怒りは消えていないので、怒りっぽい性格や欲深な心は、まだほとんど変わっていません。ただ、どうしようもない無知だけが消えて、全ては無常だと分かっているので、どこかに諦めの気持ちが生まれ、激しい執着は減っています。
まだ欲や怒りなどの煩悩がたくさん残っているので、小さな悪いことはしてしまいます。でも、自分がした悪行を隠すことができなくなります。自分の罪を素直に認めてしまいます。
ソーターパンナは、悟りへの聖なる流れに入った人です。いつか必ず完全な悟りを開いて、最高のアラハンに達することが決定しています。「7回生まれ変わる間には完全に悟れます。ソーターパンナの人は天界か人界にだけ生まれ変わり、下界に生まれることは決してありません」とブッダは言っています(ブッダが決めたのではありません。ブッダが悟りを開いたあと、過去世を振り返った時に確認した事実だそうです)。
第2段階 sakadāgāmi サカダーガーミ
2段階以降は、説法を聴くだけではダメで、瞑想修行もして、2回目の「私がいない、何もない」瞬間を1秒でも一瞬でも体験すると、第2段階のサカダーガーミです。
10の束縛のうち1〜3を克服し、さらに 4. 感覚的な欲(kāmacchanda)と 5. 悪意(vyāpāda)が弱まります。
4. 感覚的な欲(kāmacchanda):渇望、欲望。必要以上に求める心。何がなんでも手に入れたい、と追い求めるような強い欲望です。
5. 悪意・敵意(vyāpāda):強い怒り。怒り恨み。憎しみ。嫌うこと、いかること。心にかなわない対象に対する憎悪。自分の心と違うものに対して怒り憎むこと。
欲と怒りが完全に消えるのではなく、弱まるだけなので、在家としての普通の生活が可能です。日常の中で怒ったりすることもありますが、すぐに怒りが消えて普通に接する。何かが欲しいな、と思うことがあっても、なんとしてでも手に入れたいとは思いません。
サカダーガーミに達すると、輪廻はあと1回だけになります。完全な悟りのために生まれ変わる最後の1回は、修行して悟りを完成させるために、欲界に生まれ変わります。欲界といっても、悪趣には生まれません。人間界か天界です。楽しかない天界では修行にならないので、人間界にしか生まれないという説と、その人の khamma によって決まる、という説があります。
第3段階 anāgāmi アナーガーミ
サカダーガーミで弱まった 4. 感覚的な欲(kāmacchanda)と 5. 悪意・敵意(vyāpāda)が完全に消え、10の束縛のうち1〜5まで克服するとアナーガーミです。
アナーガーミでは、3度目の「無我」を体験して、身体で感覚を味わう欲界への執着が完全に消えている状態です。心を欲界に結び付ける5種類の執着、すなわち10の束縛のうち、下の境涯・欲界に結び付ける1〜5(自我・疑念・戒禁取・欲・怒り)が完全に消えています。
この段階になると、ほとんどは瞑想に習熟してジャーナの世界(ブラフマー界)を経験しています。一瞬の「無我」だけでなくジャーナの体験が、必要になります。
ジャーナの世界とは
瞑想に習熟して、目や耳などの五感に頼らず、第六感(心で考える妄想)も全くない、心が純粋に働くだけの状態、心が全ての感覚から離れた状態がジャーナです。
ジャーナに達すると、我々の生きる人界のある「欲界(天界・人界・動物界・霊界・地獄界)」を離れることができ、ジャーナの世界・ブラフマー界を体験できます。
ブラフマー界は2種類あり、瞑想の対象にもなる、何らかの物質が僅かにある色界と、それさえない本当に精神・心だけの無色界です。
アナーガーミの特徴
俗世間に対する欲も怒りもないので、この世の一切に心が揺れません。ただ淡々と日常生活の仕事をこなして過ごすだけとなります。お腹が空いたら、身体を維持するためにだけ、何かを食べる。誰と何があっても、ダンマに関すること以外なら自分がすぐに引いて他者を許し、自分を懺悔するようになります。
この世への執着が全く消えた分、智慧がかなり大胆に現れるので、ただ淡々と日常生活の仕事をこなし、他の生命に対する慈悲に溢れた、心静かな聖者という感じになるそうです。
その代わりアナーガーミでは、もともとジャーナを嗜んでいた人はブラフマー界への執着だけは残ることがあります。あるいは、サカダーガーミまでジャーナに達せずにいた人は、ブラフマー界を体験してアナーガーミに達したことで、ブラフマー界への執着が新たに生まれることがあります。
3度目の「無我」を体験してアナーガーミに達した人も、欲界への執着は消えますが、まだ完全に消滅するには踏み切れず、欲界でない清らかな状態への執着が生まれるのです。この執着を色界への欲・色貪と、無色界への欲・無色貪と呼びます。
アナーガーミに達した人は欲界への執着が消えているので、死後は欲界には生まれ変わりません。ただし、完全に悟ったわけではなく、ブラフマー界への執着が残っているので、この世での生が終わると、ブラフマー界に生まれ変わります(親から生まれるのではなく、パッと出現するそうです)。もう1回だけ最後の輪廻です。ブラフマー界での、とてつもなく長いジャーナ状態の寿命が尽きると、それで完全に消滅して、そこから生まれ変わることはなく、ただ消滅します。
最終段階 arahant アラハン
「10の束縛」すべて克服するとアラハンとなり、悟りの完成です。もう学ぶべきことはありません。最後のアラハンに達するためには、4回目の「無我」を体験することになります。
アラハンになるまでに残る束縛は、ブラフマー界に対する5つだけです。五上分結と呼ばれる10の束縛の6〜10です。
6. ルーパ・ブラフマー界(色界)への執着:ジャーナで体験したルーパ・ブラフマー界に行きたい、生まれ変わりたいという欲。
7. アルーパ・ブラフマー界(無色界)への執着:ジャーナで体験したアルーパ・ブラフマー界に行きたい、生まれ変わりたいという欲。
8. 慢心(māna):他者と自分を比較する心、自分を中心に他者を計る心です。比較することによって、「他者」と「自分」という区別が生まれ、そこに自我を存在させています。
9. 掉挙(uddhacca):心の浮動です。アラハンに達するには心が一切動揺しない状態でなくてはなりません。この段階では「ついに、この段階まで達したぞ」という心のうわつき感や、ついにアラハンだという焦りの感情で、心の平静さを失っています。
10. 無明(avijjā):上記2つが僅かに残っていたという無知の根っこです。
6と7は、ブラフマー界に対する執着です。これが消えるので、ブラフマー界にさえ生まれ変わることなく、ただ消滅します。慢心・掉挙・無明は、欲界にもある束縛ですが、この3つが、最後まで残るのです。
全ての束縛を完全に滅した状態では、智慧が何の制限もなくストレートに働きます。これまで行ってきた行為(kamma カンマ)は全て無効になり、善い結果も悪い結果も出さないまま、消えてしまいます。これから行う行為も、すべてが原因とならず、結果を出すことができなくなります。
悪いことができないだけでなく、善いこともただ行うだけで、結果が出ません。カンマというエネルギーとして、後に功徳の結果を出すには至らないのです。ですから心に善いエネルギーも悪いエネルギーも、蓄えることができません。これが消滅の理由です。
また、全てが無常だ、無我だと、完璧に体験して、全ての束縛が消えているので、どこかに生まれ変わりたいとか、もっとあれこれしたい、あれこれし足りないという気持ちが全く生まれません。つまり生命の源である衝動のエネルギーが発生しないので、輪廻するエネルギーがなく、生まれ変わることできなくなるのです。引力から解放されて輪廻転生から脱し、もう新たに生まれ変わるエネルギーがないので、死とともに肉体は朽ち、意識(精神)は消滅します。
アナーガーミまでは何とか淡々と日常生活や経済活動を勤めていけますが、アラハンになると、通常の家庭生活や経済活動などの関係が営めなくなります。アラハンは出家者として、どんなしがらみからも自由で、どんな生命にも平等な立場でないと生活できません。寿命の残りが尽きて完全に消滅するまでは、自分のためにすることはもう何も残っていないので、他者の悟りのためにだけに活動することになります。
アラハンになるためには
アラハンにせよ、ソーターパンナにせよ、いずれにせよ、なろうと思ってなるものではありません。アラハンになることを目標にして、修行してなれるものでは決してないのです。修行すべきことは、苦しみから解放される道を学び、自分の生活の中で「無我と無常」を実体験することです。いずれの段階も、その機が熟せば自然にそうなるそうです。
ブッダの死後、ブッダの教えを残すために500人のアラハンが召集された際に、ブッダの従兄弟のアーナンダは、誰よりもブッダの教えを記憶していましたが、彼自身はアラハンではありませんでした。結集の日までにアラハンとなるように言われたアーナンダは、必死で修行しましたが、アラハンには到達できませんでした。結集当日の朝、もう諦めて寝ようとして頭を枕につけようとした瞬間に、彼はアラハンになったそうです。
アーナンダには既に十分なアラハンの資質が備わっていましたが、「アラハンにならなくてはならない」という思いに「我」が存在し、それを手放した瞬間にアラハンに到達したという逸話です。
以上です。
