レディ・サヤドー『アーナーパーナ瞑想マニュアル ①』

Ledi Sayādaw “Ānāpāna Dīpanī”
レディ・サヤドーアーナーパーナ瞑想マニュアル

1. 執筆依頼と承諾

レカイン・ミョーサ・ウンシドー・キンウン・ミンギー(Lekaing Myosa Wunshidaw Kinwun Mingyi)の再三の要請により、私はユリウス暦1265年タバウン月11日(1904年3月)にマンダレーに向かい、キンウン・ミンギーの邸宅の前に滞在しながら3日3晩、サンガと信徒に説教を行った。

そうこうするうちに、キンウン・ミンギーの息子でパテインのミョ・オク(Myo-ok)と、マンダレーの副総監府の事務長であるマウン・キン(Maung Khin)から、人々の生涯の導きと恩恵のために、Ānāpānassati(アーナーパーナサティ)の実践法(息を吐く時と吸う時の集中や気づきの練習)に関するマニュアルを書いてほしいと依頼があった。 その依頼に従い、私(モニワのレディの森僧院の主宰者サヤドー)は、「Majjhimanikāya(マッジマ・ニカーヤ)中部経典」の「Uparipaṇṇāsā(ウパリパンニャーサー)」にある「Ānāpānassati Sutta(アーナーパーナのスッタ)」を簡潔に解説する。

2. 精神的な進歩のための努力のすすめ

ダンマパダの戒めに従って

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"Tiṇṇaṃ aññataraṃ yāmaṃ, 
3つの 異なる・渡る 夜分に
paṭijageyya paṇḍito."
主人・目覚めているように 賢者は

賢明な人は
3つの時間帯を通して
目覚めていなさい。

賢者は、人生の3つの期間のうち少なくとも1つの期間、精神的な進歩のために努力することによって自らを清めるべきである。

賢くて善良で、原因と結果の関係をはっきりと見る能力のある人は、富の獲得(bhoga-sampatti)による成功を放棄して手放し、人生の第一期から精神的進歩(bhava-sampatti)を達成するために努力すべきである。人生の第一期に努力することが不可能な場合は、人生の第二期に努力すべきである。人生の第二期に努力することが不可能な場合は、人生の第三期に入ったらすぐに努力すべきである。

注)人生の期間とは四住期のこと

その本質的な意味は、人生の3つの期間すべてにおいて、富の獲得と密接に関わりながら生きていると、この人生が与えてくれるさまざまな恩恵、つまり、多くの望ましいものを摘み取ることができる偉大な「願いの木」のようなこの人生を手に入れる機会を十分に活用することができないことである。

この世は失敗と不幸(vipatti)の連続であり、生きものはすぐに死に、簡単に消えてしまうので、五十歳か五十五歳を富を得る期間の終わりと定めるのが妥当である。その後は、稼ぐことを放棄し、手放すことで、到達するのが難しいブッダの教え(Buddhasāsana)との出会いがもたらす恩恵を得ることができる。

霊的進歩のために努力する方法はたくさんある。

まず、テミ王とハッティパーラ王は、人生の最初の時期に、まだ若いうちに王位と宮殿の楽しみと享楽を捨て、森での修行生活を選んだ。

また、マハーデーヴァ王からネミ王に至るまで、8万4千人の王たちがいたが、彼らは王国を統治し、第一期と第二期には王族の楽しみと贅沢を享受したが、第三期には長男に譲り、退位している。その後は、王宮の庭園で孤独な生活を送りながら、4つの崇高な境地(brahmavihāra:mettā 慈悲・karuṇā カルナー・muditā ムディター・upekkhā ウペッカー)の瞑想を修め、悟りの境地(ジャーナ)に達するまで、一人で静かな暮らしを続けた。

注)ここでの「王」とは、各地方の王=ラジャのことだと思われる。

あるいはまた、王宮を出ることも王宮の庭園に住むことさえもしなかったマハースーダッサナ王の例もある。彼は、ターヴァティーサーの王サッカが彼のために建てた、宝石で飾られたダンマパーサーダと呼ばれる黄金の大宮殿に住み続けた。彼はその豪華な宮殿に一人で暮らし、禅定が達成されるまで、4つの崇高な境地を修行し続けた。

また、タッカシーラーの王の場合は、ラージャガハの王から送られた金色の椰子の葉に刻まれた呼吸の瞑想法(ānāpāna-kammaṭṭhāna)を目にするや、7階建ての宮殿の最上階に一人でこもり、第4のジャーナに到達するまで呼吸の瞑想法を実践した。

現代の賢明な仏教徒は、将来偉大な運命を背負うこうした傑出した人物を見習うように努め、精神的な進歩のための修行を一つか二つ選んで取り入れるべきである。人生の最初の時期には、富を得るための快楽や楽しみを追求し、そうした中で生活することもあるだろうが、世俗的な利益や関心事は、時期をみて捨て去らなければならない。不貞行為や友人や仲間との付き合いなど、集中力の発達に不都合な習慣を捨て、放棄すべきである。食事を提供してくれる人とだけ接触し、精神的な進歩のために努力すべきである。

3. 不安定な心による輪廻の漂流

一般の在家者にとって、精神的な進歩のための努力とは、8つの正しい生活の心得である「8つの戒律(ājīvaṭṭhamaka sīla)」からなる道徳をしっかりと確立し、身体への心掛け(Kāyagatasati)を熱心に実践することである。ブッダに出遇う稀有な機会(Buddhuppāda dullabha)と人間に生まれ変わる稀有な機会(manusatta dullabha)があるうちに。

静寂と洞察のための瞑想の練習を始める前に、サティパッターナ(satipaṭṭhāna)の練習の一つである身体の気づき(sati)を練習しなければならない。なぜ最初から気づきを実践する必要があるのか、例を挙げて説明しよう。

この世では、自分の心をコントロールできない狂人は、自分の利益のための仕事にも、他者の利益のための仕事にも役に立たない。食事のときでさえ、皿をひっくり返して立ち去ることがある。他者のための仕事に集中することは不可能である。この狂人を適切に治療すると、普通の人と同じように、自分のためだけでなく他人のためにも仕事をこなせるほど正気になり、精神的に安定する。

同様に、普通のまともな人は、集中と洞察という微妙な作業をするとき、自分の心をコントロールできない狂人に似ている。例えば、ブッダに敬意を表するとき、普通の人々の心は、ブッダの高貴で比類のない特質に、揺るぎなく集中し続けることはない。「Itipiso…(イティピソ)例え・でも・彼は」という一節を繰り返す時でさえ、彼らの心はさまよう。注意力が散漫になるたびに最初からやり直さなければならないのであれば、この一節を繰り返す作業は決して成功しないであろう。スッタを記憶しているからこそ、最後まで繰り返すことができるのだ。メンタルトレーニングや能力開発のためのあらゆる練習でも同じことが起こる。このように、集中力や洞察力を養うことに関しては、普通の正気な人は狂人と同じなのである。

すべての人が注意するように! 自分の心をコントロールできないような人は、(magga)、その成就(phala)、涅槃(nibbāna)の達成どころか、死後、幸せな世界(sugatī)に生まれ変われるかどうかもわからない。この世では、足をコントロールできない人は、足を使う仕事を上手にできない。手をコントロールできない人は、手を使う仕事を上手にできない。言葉をコントロールできない人は、言葉を使う仕事を上手にできない。心をコントロールできない人は、心で行う仕事を上手にできない。瞑想の仕事は、心だけで行わなければならない。だからサンガも信徒も、心をコントロールできない世俗の人々は、瞑想を上手に実践できないのだ。彼らの努力は単なる模倣に終わる。

船の操作をマスターしていない船長が、積荷を満載して大河の急流と激流を下る場合を考えてみよう。夜間は、川岸にある町や港、停泊地が見えない。日中は、町や港や停泊地が見えるが、船を操ることができないので、町や港や停泊地に立ち寄り停泊することができず、憧れと賞賛の念を抱きながら、町や波止場や停泊地を眺めながら大海原へと漂流していく。

この例えでは、海とともに急流で激しい流れの大河は、4つの激流(ogha)を持つ輪廻・流転(saṃsāra)である。荷物を積んだ船は、生きものの5つの集合体(khandha)である。船を操れない船長は世俗人(puthujjana)である。町も港も停泊地も存在せず、森が立ち並ぶだけの川の部分は、ブッダの教え(Buddhasāsana)が現れない空白の時代である。

船長が町や港や停泊地を見ることができない夜間は、この世にブッダの教えが出現している期間に生まれ変わったにも関わらず、たまたま8つのタイミングの悪い場所のどこかにいるために、ブッダの教えを知らなかったり、気づかなかった人々の苦境に例えることができる。

町や港や停泊地が見えるが、船長が船を操れないので、そのいずれにも停泊できず、憧れと賞賛を抱いて町や港や停泊地を眺めながら大海原に漂っている時は、仏教徒でありながら瞑想を実践する努力をしない人々の苦境に例えることができる。

彼らは町や港や停泊地に到達できない。それが瞑想修行によって得られる、集中力洞察の知識(vipassanā ñāṇa)、道の知識(magga ñāṇa)、成就の知識(phala ñāṇa)、涅槃(nibbāna)であり、ブッダ・ダンマ・サンガの3つの宝に敬意を払い、感銘を受けることである。こうした人々は、僧院の施主や4つの必需品(衣食住薬)の布施者、普通の比丘や広い学識で名誉ある有名な大長老を装って、虚しい輪廻の世界を無限に漂っている。

これが、無限に続く輪廻の中で生命に生じた漂流の在り方である。

4. 静寂と洞察の前に身体に気づく

現世において、もし生きものが、身体に対する気づきを実践することを怠り続け、心をコントロールすることなく生き続けるならば、たとえ仏教徒であっても、過去と同じように輪廻の中に漂い、沈んでいくことになるだろう。心のコントロールができなければ、集中と洞察の作業はできないからである。一方、心をコントロールすることは、涅槃への確かな道であり、集中と洞察の作業を行うことができる。身体に対する気づきの瞑想は、心をコントロールするための訓練である。

たとえ集中と洞察という高次の作業に取り組むことができなくても、ブッダは、自分の心をしっかりとコントロールし、肉体の中でそれを意のままに保つことに成功すれば、涅槃の味を楽しむことができる、と述べている。

“Amataṃ tesaṃ viraddhaṃ, 
不死を 彼は 失われた
yesaṃ kāyagatā sati viraddhā.
人は 身体・関する 気づき 失われた
Amataṃ tesaṃ aviraddhaṃ, 
不死を 彼は 不・失われた
yesaṃ kāyagatā sati aviraddhā.
人は 身体・関する 気づき 不・失われた
Amataṃ tesaṃ aparibhuttaṃ, 
不死を 彼は 不・使用
yesaṃ kāyagatā sati aparibhuttā.
人は 身体・関する 気づき 不・使用
Amataṃ tesaṃ paribhuttaṃ, 
不死を 彼は 使用
yesaṃ kāyagatā sati paribhuttā.”
人は 身体・関する 気づき 使用

身体の気づきを逃した者は
涅槃を逃す。
身体の気づきを逃さなかった者は
涅槃を逃さない。
身体の気づきを利用しない者は
涅槃を利用できない。
身体の気づきを利用した者は
涅槃を利用する。

本質的な意味では、身体に対する気づきが確立していれば、自分の心をしっかりとコントロールできるので、集中と洞察の作業を成功させることができ、現世で涅槃を逃すことはない、ということである。しかし、もし狂人のように、肉体に心を向ける作業を怠り続け、自分の心をコントロールできなければ、集中と洞察の作業を果たすことができず、涅槃を逃すことになる。

自分の心をコントロールするには、さまざまな程度がある。

この世では、精神異常でない普通の人は、人間の間で生じる個人的、社会的なさまざまな仕事をこなすために、自分の心を十分にコントロールしている。これも一種のコントロールである。

ブッダの教えの中で、感覚器官を守るシーラ(indriya saṃvara sīla)もコントロールの一種である。しかしながら、それが頼りになるとは言えない。

集中と洞察の瞑想に密接な関係(padaṭṭhāna)がある身体の気づきに集中することは、確固たるコントロールである。禅定に入る直前の近サマーディ(upacāra-samādhi)の達成は、より強いコントロールである。さらに強いのは、完全な禅定の間に到達する安止サマーディ(appanā-samādhi)である。ジャーナの8つの段階は、より高い段階に到達するごとに、徐々に強くなるコントロールである。精神の集中という点では、より高い精神的な力(abhiññāṇa)の達成は、最高レベルのコントロールに相当する。

これが「Samatha Yānika(サマタ・ヤーニカ)集中に導く」と呼ばれる集中の道である。

洞察の道は「Vipassanā Yānika(ヴィパッサナー・ヤーニカ)洞察に導く」と呼ばれる。

ここでは、集中と洞察の作業に先立って、身体に対する気づき(マインドフルネス)が必要であることを示し、このセクションを終える。

5. なぜ、呼吸の気づきを実践するのか

ブッダの教えに出会った現代の人々は、信徒であれ修行者であれ、心がコントロールできていない状態である「嫌悪と怖れ」を、できるだけ早くしっかりコントロールできるように、『長部経典(Dīghanikāya)』の『Māsatipaṭṭhāna Sutta(マハーサティパッターナ・スッタ)』で述べられている身体の気づきのための練習法を1つ以上選んで、実践すべきである。

また、中部教典の最後の50篇の『Kāyagatāsati Sutta(MN 119)』では、18種類の身体の訓練法が述べられている。呼吸法(ānāpāna)、姿勢(iriyāpatha)、行為の明瞭な理解(sampajañña)、身体の不純物への注意(paṭikkūla manasikāra)、元素の分析(dhātu-manasikāra)、9つの観想(sivathika)、4つの禅定である。

同じく中部教典の最後の50篇にある『Ānāpānassati Sutta(MN 118)』には、呼吸の気づきの練習(アーナーパーナ瞑想)だけで身体に気づくことで、集中瞑想による4つの禅定や洞察の瞑想、道の開発、そして悟りの完成(最後の2つは「解脱の知識」として知られる)が、いかに達成されるかが示されている。

また、すべてのブッダは呼吸の気づきによって至高の悟りを得るのが習わしであり、成仏した後、すべてのブッダは、完全涅槃(Parinibbāna)に達するまで、一度も休むことなく呼吸に気づき続けている。

集中瞑想には40の瞑想法があるが、その中で呼吸を集中対象とするのが最も継続しやすい。ブッダは他の瞑想法よりも呼吸を重視した。注釈者たちはまた、呼吸の気づきを「大いなるものの領域」(mahāpūrisa-bhūmi)と呼んだ。呼吸の気づきは、普通の人に適した瞑想法ではない。偉大な知恵を持つ人にのみ適している。

そのため、前述のタッカシーラーのプックサーティ王が、7階建ての宮殿の最上階で、第4のジャーナを達成するまで、身体の気づきから始まる瞑想を実践し、残りの人生をたった一人で過ごしたように、このように見習いたいと願う賢明な人々のために、「呼吸の気づき」は、精神的な進歩に努めたいと願う人々のためのものである。ブッダに出遭うという滅多にない機会が与えてくれる利点も含めて、精神的な進歩に努めたいと願う私は、最後の50篇(MN 118)に示された『Ānāpānassati Sutta(アーナーパーナサティ・スッタ)』を簡潔に解説しよう。

6. 呼吸を意識することが涅槃につながる

MN 118
“Ānāpānassati, bhikkhave, 
呼吸の気づきを 比丘たちよ
bhāvitā bahulīkatā cattāro satipaṭṭhāne paripūreti. 
修めて よく練習する 4つの 気づき・基礎が 完成される
Cattāro satipaṭṭhānā bhāvitā bahulīkatā satta bojjhaṅge paripūrenti. 
4つの 気づき・基礎を 修めて よく練習する 7つの 悟りの要素が 完成される
Satta bojjhaṅgā bhāvitā bahulīkatā vijjāvimuttiṃ paripūrenti.” 
7つの 悟りの要素を 修めて よく練習する 明智・解脱 完成される

比丘たちよ、
呼吸の気づきを修めてよく練習するならば
4つの気づきの基礎が完成される。
4つの気づきの基礎を修めてよく練習するならば
悟りの7つの要素(bojṅga)が完成される。
悟りの7つの要素を修めてよく練習するならば
明智(vijā)と解脱(vimutti)が完成される。

ここでの明智とは4つの智慧の道を意味し、解脱とは4つの成就を意味する。その本質的な意味は、呼吸の気づきを何日も何ヶ月も熱心に修行すれば、気づきの4つの基礎、悟りの7つの要素、智慧と解脱が自動的に達成されるということである。気づきの基礎、悟りの要素、智慧と解脱は、悟りの37の必要条件(bodhipakkhiya-dhammā)を構成するので、悟りの37の必要条件の開発が自動的に成就することになる。

以上で『Ānāpānassati Sutta』の解説の序文を終える。