「八正道(はっしょうどう)」とは、ブッダが悟りを開いた後に初めて説いた説法「初転法輪」で、かつての修行仲間に語った教えです。
パーリ語では、「ariya-aṭṭhaṅgika-magga(聖なる・8つの部分・道)」となり「聖なる8つの道」という意味です。「正しい」という言葉は含まれていませんが、具体的な8つの道すべてに「sammā(サンマー)」という言葉が頭についています。
「sammā(サンマー)」とは、完全・偏らない・中道的なあり方を意味します。一般的には「八正道」の「正(しょう)=正しい」と訳されていますが、本来は「良い・正しい」という意味ではなく、偏りのない完全で中道な状態=完璧を表す言葉なのです。
つまり「八正道」は「8つの完全な道」であり、完全な見方、完全な思考、完全な言葉、完全な行為、完全な生き方、完全な努力、完全な気づき、完全な精神統一の8つです。
そのことを踏まえた上で、ここでは、一般的な「正しい◯◯」という表現を流用しています。
聖なる8つの道
1. 正しい見方 sammā‑diṭṭhi
何が現実で何が現実ではないのか。
何が正しくて何が正しくないのか。
何が役立ち何が有害なのか。
それらを、色眼鏡をかけずに客観的に見ることです。
正しい、正しくないという見方も、偏った見方に過ぎません。
sammā‑diṭṭhi(サンマー・ディッティ)とは、善悪や好き嫌いといった概念による分別に囚われず、現象をありのままに見ることです。
善悪、好き嫌い、正しい間違っている、賢い愚か、上下、といった「概念による分別」ではなく、そこにある「差異」をありのままに理解する。そして、その差異は独立して存在するのではなく、相互の関係によって成り立っていることを理解すること。それが「正しい見方」です。
あらゆる現象の中に「差異」は存在しています。異なるものや人には、それぞれ異なる性質があるからです。
「上」が成立するためには「下」が必要であり、「賢い」が成立するためには「愚か」という比較対象が必要です。両者は別々の実体として存在しているのではなく、一つの関係の両面として成立しています。
『人間万事塞翁が馬』という言葉の通り、ある出来事を「良い・悪い」と即断しても、その評価は後で逆転するかもしれません。
農家にとっては恵みの雨も、遠足の日には困るかもしれません。
失業は絶対的な「失敗」とは言えません。
苦しい体験が後に役立つこともあります。
人にとっての「敵」が別の人にとっては「味方」だったり、立場によって敵味方は変わります。
物事に絶対的な善悪や成功失敗はなく、評価は立場や条件によって変わるのです。
苦楽:dukkha(ドゥッカ)と sukha(スカ)も例外ではありません。
苦しみが生じる時もあれば、楽しみが生じる時もあります。しかし、それらは対立する実体ではなく、条件によって現れては消える現象です。
苦しみも楽しみも永続することはなく、絶えず変化し続けています。「anicca(アニッチャ)無常」です。この無常の性質を理解することが、物事を正しく見るための重要な鍵となります。
もし「私は苦しい。思考を止めたい」と考えるなら、それは物事を正しく見ていない状態だと言えます。
私たちは物事を分別するとき、今ここで起きている現実と、「こうであってほしい」「こうであるべきだった」という別の可能性を作り出します。そして、現実を受け入れず、別の状態を求め始めます。
しかし、現象はただ条件によって生じているだけであり、それ自体はあるがままのものです。苦しみは現象そのものから生じるのではなく、現象を拒絶したり、別のものであってほしいと望んだりする心の働きから生じます。
したがって、感情は感情として、思考は思考として、評価や解釈を加えることなく、そのまま観察することが大切です。そうすることで、現象をありのまま正確に理解できるようになります。それが「正しい見方」につながり、「正しい思考」を導くのです。
そして、その「正しい見方」は、知識として理解するだけでは十分ではありません。実際の体験を通して現象を観察し、その無常の性質に直接気づくためには、正しい気づきと正しい集中が必要です。
2. 正しい思考 sammā-saṅkappo
「正しい見方」で物事を客観的に捉えて理解した後は、その理解を基に、物事に対してどのような態度をとるのか、心がどちらの方向を向くかが問題となります。
これが 「sammā-saṅkappo(サンマー・サンカッポ)正しい思考」です。
ここでいう思考とは、単なる知的な考察ではなく、行為の方向性を決める意図や動機のことです。どのように考え、どのように行動するかは、この意図によって決まります。
私たちの心は、感覚の対象を追いかけ、それについて考え、悩み、語り、心配します。しかし、「正しい見方」を身につけると、感覚の対象に振り回されるのではなく、それらを現象として観察し、ただ気づき、認識できるようになります。
このとき「正しい思考」は、欲のない方向へ、怒りや憎しみなどの悪意のない方向へ、そして害を与えない方向へと心を導きます。
「正しい見方」を基にした「正しい思考」は、非暴力であることが特徴です。
苦しんでいる他者に害を与えたり、困らせたりすることを望まず、他者の失敗や不幸を喜ぶこともありません。
また、誰かが間違いを犯したとしても、その人が本質的に悪い人間だからだとは考えません。その行為は、無知や執着、あるいは心の混乱によって生じたものだと理解することができます。それは「正しい見方」によって、善悪を固定的な実体として捉えなくなるからです。
「正しい見方」から「正しい思考」に至ることができると、その心の方向性は自然に「正しい言葉」「正しい行為」「正しい生計」に表れてきます。
3. 正しい言葉 sammā-vācā
Sammā-vācā では、次の4つを避けることが説かれています。
1.musāvāda(嘘をつく)
嘘をつくこと。真実を誇張したり、歪曲したり、他者を欺く意図をもって偽りを語ることです。
2. pisuṇāvācā(仲を裂く発言)
人と人との関係を壊したり、対立を生じさせたりする言葉です。悪口や、わざと誤解を招くようなことを言って人間関係を壊したり、「あなたの悪口を言っていたよ」と、対立を煽る目的で話すことが該当します。
一方で、事実を伝えた結果として人間関係が悪化したとしても、それが善意や必要性に基づくものであれば、必ずしも pisuṇāvācā とは言えません。重要なのは意図(cetanā)です。
単なる陰口ではなく、他人同士の和合を壊そうという意思を伴う言葉が、pisuṇāvācā です。
その発言が「和合を生むか、分裂を生むか」で判断し、伝えるなら「両者の利益になる形に整える」と正しい言葉だといえます。
3. pharusāvācā(暴力的な発言)
荒々しい、きつい、攻撃的な言葉を意味します。罵倒、侮辱、皮肉、暴言など、相手を傷つける言葉という意味です。単に口調が強いということではなく、怒りや悪意を伴って相手を傷つける意図「悪意(dosacitta)」のある言葉が pharusāvācā です。
言葉を意図的に発しない「無視」も悪意が基にあれば沈黙の暴力です。逆に、厳しい内容であっても、相手の利益を願い、慈しみ(mettā)から語られたものであれば、pharusāvācā ではありません。
単に「優しい、穏やかな口調で話す」のではなく、怒りや敵意に支配されずに話すことで正しい言葉となります。
4. samphappalāpa(無意味な発言)
噂話や無益なおしゃべりは、他者の時間を奪うことになります。意味・目的・利益のない言葉を繰り返すことを指します。
正しく話すことは、黙っているよりも難しいものです。私たちはつい沈黙を埋めようと意味のない言葉を発してしまいます。
迷ったとき、わからないときには、余計なことは言わず、黙って微笑み、ダンマに任せておく方がいいようです。
これら4つ(musāvāda・pisuṇāvācā・pharusāvācā・samphappalāpa)は、どれも「言葉の問題」に見えますが、実際には「心の状態(意図・動機)」が問題です。
正しい言葉は、「言葉をコントロールする」のではなく、心の質を整えることが大切になります。
4. 正しい行為 sammā-kammanto
生き物を殺さない、盗みをしない、みだらな性行為をしないことです。
5. 正しい生き方 sammā-ājīvo
間違った手段で生計を立てずに、正しい手段で生計を立てること。出家者でなければ、生活のためのお金が必要なので、何らかの方法で生計を立てなければなりません。それが他を傷つけるものであってはいけない、ということです。
例えば、自分が事務職であっても核兵器を作る会社に勤めるのは、殺人に加担することになります。他者から搾取したり、生き物やその肉を販売したり、酒類や麻薬を販売するのも、他を傷つけます。
自分のやりがいや、自分の評価のために仕事をするのではなく、社会・他者の役に立つために、自分の技能を提供するのが正しい生き方です。
6. 正しい努力・精進 sammā-vāyāmo
正しい努力とは、次の4つのことを努力し精進することです。
新たに悪いことをしない。
現在行っている悪事をやめる。
新たに良いことをする。
現在行っている良いことを続ける。
7. 正しい気づき sammā-sati
いまのこの瞬間に、身体の内側や外側で起きる出来事・現象に対して、ありのままの事実に気づいていることです。心に好きとか嫌いといった評価が生まれたら、その瞬間に気づくことです。これが正しい気づきです。
すべての行動とその感覚、心に浮かぶ思いを、常に意識して自覚し続けることです。つまり五感で得た感覚と心に浮かんだ思いに対して、常に意識して気づいていることです。
8. 正しい集中・精神統一 sammā-samādhi
sama(平静)+adhi(置く)サマーディ瞑想(サマタ瞑想)のこと。
何か1つの対象に心を集中し、心の動揺がない状態に精神統一する修行法。瞑想のことです。
徹底的に1つに集中し、他の情報を遮断できると、集中力自体が心に強烈な喜悦感を与えます。それによって欲の世界に対する執着が薄れ、一時的に欲の世界から離れられるようになります。瞑想と自分が一体化した状態が流れていくような経験が生まれますが、その心の状態が「ジャーナ」です。
3つのグループ
この8つの正しい道は、3つのグループに分けられます。
パンニャー(智慧)
1.正しい見方 2. 正しい考え方
智慧と洞察を培う道です。次にあげるシーラとサマーディだけでは、心の奥深くの汚れを取り除くことはできません。智慧と洞察によって心は完全に浄化されます。
シーラ(戒律)
3. 正しい言葉 4. 正しい行為 5. 正しい生き方
言葉・身体・心において、不健全な悪いことはしない、という道徳の道です。
サマーディ(精神統一)
6. 正しい努力 7. 正しい気づき 8. 正しい集中・精神統一
心を統一することで制御する訓練の道です。
まとめ
1〜6つ目までの道は、「物事を客観的に見て、偏らず考え、語り、行動しなさい。他者の役に立つ仕事をして、前向きに励みなさい」ということです。
7と8の道は「せっかくだから瞑想して、悟りの修行にも挑戦しなさい」という道です。瞑想修行を伴うので、興味がない人には敷居が高いかもしれませんが、瞑想自体は誰でもできる極簡単なものです。ただ、それを真剣に真面目に根気よく、集中し、気づき続けることは、楽なことではなく、何よりも難しいことなのです。
この8つの道を繰り返し実践することで、渇望を捨てて、心が苦しみから解放される助けになります。これが苦しみをなくし、安らぎを得るための八正道です。
どれも人が生きていく上では当たり前のことで、これが「道徳」の基となりましたが、いつの間にか道徳は、他者に守らせるべき道徳教育になっています。道徳は本来、他者に強いることではなく、自分が守るべきことです。そして、たとえ他者が守っていなくても、気に留めない心が大事です。
以上です。
