C. 6つの感覚器官とその対象物
修行者たちよ。修行者は、6つの感覚器官とその対象物について、心の中の動きを観察し続けるのです。
では、どのように6つの感覚器官とその対象物について、心の中の動きを観察するのでしょう?
修行者は、このように感じて生きるのです。
目(視覚)が光景(色と形)を捉えた時、これらによって束縛が生じるのを自覚します。まだ生じていない束縛が、どのように生じるかを自覚し、いま生じている束縛が、どのように消滅するかを自覚します。消滅した束縛が、将来、どのようにすれば生じないかを自覚するのです。
耳(聴覚)が音を捉えた時、これらによって束縛が生じるのを自覚します。まだ生じていない束縛が、どのように生じるかを自覚し、いま生じている束縛が、どのように消滅するかを自覚します。消滅した束縛が、将来、どのようにすれば生じないかを自覚するのです。
鼻(嗅覚)が匂いを捉えた時、これらによって束縛が生じるのを自覚します。まだ生じていない束縛が、どのように生じるかを自覚し、いま生じている束縛が、どのように消滅するかを自覚します。消滅した束縛が、将来、どのようにすれば生じないかを自覚するのです。
舌(味覚)が味を捉えた時、これらによって束縛が生じるのを自覚します。まだ生じていない束縛が、どのように生じるかを自覚し、いま生じている束縛が、どのように消滅するかを自覚します。消滅した束縛が、将来、どのようにすれば生じないかを自覚するのです。
身体(触覚)が感触を捉えた時、これらによって束縛が生じるのを自覚します。まだ生じていない束縛が、どのように生じるかを自覚し、いま生じている束縛が、どのように消滅するかを自覚します。消滅した束縛が、将来、どのようにすれば生じないかを自覚するのです。
意識(心)に思考が浮かんだ時、これらによって束縛が生じるのを自覚します。まだ生じていない束縛が、どのように生じるかを自覚し、いま生じている束縛が、どのように消滅するかを自覚します。消滅した束縛が、将来、どのようにすれば生じないかを自覚するのです。
このようにして心の中の動きを、内面からありのままに観察し、または外面から、あるいは内面と外面を同時に観察するのです。心の中の動きが生じる現象を観察し、または心の中の動きが消滅する現象を、あるいは心の中の動きが生じては消える現象を、観察し続けるのです。そうして「すべての物事は、絶え間なく変化し続ける現象に過ぎない。身体は身体に過ぎない。私でもなく、私のものでもなく、自分でもない」という気づきが確立されるのです。この智慧と気づきがある限り、この世に自分など存在しないのだから、存在しない自分が執着していた「苦悩」もなくなるのです。
修行者たちよ。修行者は、このようにして心の中の動きを心の中の動きにおいて観察し、生きるのです。
4.ダンマーヌパッサナー(心の中の動きの観察)C.6つの感覚器官とその対象物 了
解説
部屋の中にある椅子に意識して目を向けた時、目が捉えた室内の光景の中から、椅子だけがピックアップされて「椅子」という思考が生じて個体が作り出されます。この時、視覚は考えてはいません。視覚はただ、色と形を見ているだけですが、そこから脳に情報が伝達されて「これは椅子だ」と判断しているのは思考です。
思考が「物体という概念」を作り上げているので、「椅子」と意識しなければ、椅子はこの世に存在しないのです。本来、単独で存在する物体は、この世に1つもありません。すべての物体は、相対的に条件付けられて存在しているに過ぎないのです。そこにすでに存在している物体を、自分が認識しているのではありません。名前をつけ、色を利用して、空間内で識別しているに過ぎないのです。例えば、先生、犬、猫といった個体も、1匹のアリから見たら、空間にうごめく一部でしかない。宇宙中のすべてが、それぞれの生命体が勝手に識別している概念でしかないのです。
心に感情や感覚が現れたら、分析したり排除したり(=思考)せずに、ただ、そういう感情や感覚があることを認識するだけにします。思考を心から追放しようとするのではなく、ただありのままに観察して、重視しない。恐れたり、避けたり、抵抗したりすることなく、思考が関与しない静かな興味を持って感情を体験する。そうするとどんな体験ができるかは、ブッダの言葉を借りるなら「私の言うことを信じないで、自分で確認してみてください」ということです。
自分が思考を考え出している、感情を感じ取っていると思い込んでいるが、実際には体験が起きているだけなのです。体験の中に自然発生し消える「言葉と映像=思考」に過ぎないのです。つまり、感情自体が自分に苦痛をもたらすのではなく、自分が感情につけた名前やレッテル、感情に結びつけた物語が大きな痛みを与えているのです。