暴力というと、怒鳴ることや脅すこと、露骨に相手を強制することを思い浮かべます。でも、暴力は必ずしも、そんなわかりやすい形で現れるわけではありません。
むしろ、もっと静かな形で人を動かすことがあります。
ある日の出来事
15人ほどが集まる機会がありました。メンバーの中に、1人、知識と経験の豊富な方がいました。他のみなさんも、そのことをよくわきまえていて、その方の意見を尊重し、いつの間にか、その方を中心に行動するようになっていました。
手分けして夕食を作っていたときのことです。
誰かが戻ってきたところで、「お疲れさまです」と声を掛けると、その方が「お疲れさまはいらない!」と、鶴の一声。
(えっ? そうなの? 別に言ったことで問題ある?)と思いつつ、「はい」と従う。
炒め物をしている人に誰かが話しかければ、「調理中は会話しない!」
(確かに料理に唾が飛ぶよね、失礼しましたーと思って振り返ると、その方はサラダを作りながら、会話に夢中。うわー、言われなければ気にならなかったのに、生ものメッチャ気になるしー)と思いつつ、「はい」と従う。
さらに、決まっていたスケジュールについて、大きな変更を提案されました。
「えっ? なんで?」
なぜ、そうするのがいいのかはわからず、なんか変、とは思いましたが、その方には豊富な知識と経験がある。反対するだけの根拠も見つからないまま、結局、全員が黙って従うことになりました。
これって、「知識の暴力」かも?
知識の暴力
「知識の暴力」とは、知識を持つ側が、その知識や経験を根拠に、周囲の人間の認識や行動を方向づけ、結果的に他者を従わせてしまう構造のことです。
もちろん、その方が意図的に誰かを支配しようとしていたわけではないでしょう。本人には悪気はなく、これまでの経験から「こうしたほうがいい」と、よかれと思って口を出していたのだと思います。
むしろ問題は、なぜ私たちは、その人の言うことに従ったのか、ということです。
なぜ「それはなぜですか?」と聞けなかったのか。なぜ「私はそう思いません」と言いにくかったのか。
そこには、その人が持っている知識や経験に対する「敬意」があったのだと思いますが、その敬意がいつの間にか、「この人の言うことに従っておけばいい」という空気に変わってしまう。
ここに、知識の持つ危うい側面があるのだと思います。
知識や経験が豊富であることは、本来なら、その人の大きな財産です。知らないことを教えてくれたり、困ったときに判断の助けになったりする。だからこそ、私たちは知識のある人を頼りにします。
でも、その「頼りにする」が少しずつ変化して、「あの人が言うなら正しいはず。従っておけば間違いない」になったとき、そこには知識を持つ側と、持たない側との間に、目には見えない力関係が生じます。
これが「知識の暴力」だと思うのです。
リーダーシップも同じ
「リーダーシップ」とは、周囲の人を引っ張っていくこと。迷ったときに方向を示すこと。みんなが動きやすいように決断すること。一般的には、そんな意味で使われることが多いと思います。
「リーダーシップがある」と評価される人は、知識や豊富な経験、言語能力、筋が通った判断基準を持っています。それらは本来、とても価値のあるものです。
確かに、知識や経験が豊富な人が方向を示してくれると、集団は動きやすくなります。誰かが決めてくれれば、いちいちみんなで考えなくてもいいし、迷う時間も減ります。それは決して悪いことではありません。
でも、「この人は知識があるから、この人の言うことに従おう」が当たり前になったとき、注意が必要です。リーダーが方向を示すことと、リーダーの判断にみんなが従うことは、似ているようで違います。
その知識や経験が「自分の方が知っている」という優位性(māna)に変わった瞬間、それは役に立つ知識ではなく、他者を動かすための力になります。そして「思い通りにしたい」という欲(lobha)が加わると、「相手をこう動かそう」という意志(cetanā)が働き、知識は支配する力となります。
「こう考えるべきだ。普通はこうするものだ。こちらのほうが正しい」
そうした自分の見方や判断を、疑うことなく「正しい」と思い込むところには、「diṭṭhi:見解」も関わってきます。
そうやって相手の考え方や選択肢を狭めていけば、本人にそのつもりがなくても、結果として他者をコントロールすることにつながります。
支配か支援か
知識や経験を持っていること自体が問題なのではなく、どう使うかが重要です。
自分の知識を使って、人を自分の思い通りに動かすのか。それとも、自分の知識を共有して、相手が自分自身で考えて判断し、動けるようにするのか。
前者は支配に近づき、後者は支援に近づく。
人を強く動かせることが、必ずしもリーダーシップなのではありません。むしろ、自分の知識を前面に出しながらも、相手の「自分で考える力」を引き出せること。
知識は、人を支配するためにも使えるし、人を自由にするためにも使えるのです。
知識の量ではなく、知識を持つ人が「自分の方が知っている」という優位性を、他者との関係の中でどう扱うかがポイントです。
今、自分は相手を動かそうとしているのか。
それとも、相手が自分で考えられるようにしているのか。
「相手を自分の思い通りにしたい」という「lobha:欲」 の心があるか、それとも「相手が困らないように助けたい」という「alobha:欲のない」「adosa:嫌悪のない」 の心があるか。
同じように「人を動かす」ように見えても、その心は違うのです。
だからこそ、知識を持つ側が、その知識が他者に対してどのような力として作用しているのかを、自覚できるかどうかが分かれ目かな、と思います。
やっぱり大切なのは「sati:気づき」ですねー
結局、自分自身への気づきの問題なのだと、あの日の出来事から気づかされたのでした。
以上です。またね ♪
