ダンマパダ9章 116〜128

Pāpa-vaggo 悪事の章

ダンマパダ9章は、Pāpa悪事」がテーマです。大きな悪事から小さな悪戯まで、さまざまな悪い行為の中でも pāpa は、おこなったらになり、確実に悪い結果がもたらされるものです。

DhP.116

abhittharetha kalyāṇe, 
急ぐように 善を
pāpā cittaṁ nivāraye; 
悪から 心を 防ぐように
dandhaṁ hi karoto puññaṁ, 
怠る なぜなら つくる 徳を
pāpasmiṁ ramatī mano.
悪において 楽しい 意識は

善は急げ!
心を悪から遠ざけるように。
もたもたしている間に
心は悪さをしたくて
うずうずしてるから。

エピソード
サーヴァッティの町に、貧しいバラモンの夫婦がいました。彼らは上着を1着しか持っていなかったので、一緒に外出できません。昼間は妻がブッダの説法を聞きに行き、夜は夫が行くことにしていました。

ある夜、夫はブッダの話を聞いて、お布施がしたいと思いました。自分の上着をブッダに捧げようとしましたが、この上着を手放したら、自分と妻の服がなくなることに気づき、躊躇して止めました。次の夜もブッダの説法を聞くうちに、お布施がしたくなりましたが、悩んだ末、妻が可哀想に思って止めました。

3日目の夜、夫はやっぱりお布施がしたくなり、ついに決心しました。「上着なんかに執着することはない。それよりも、このままケチで躊躇していたら、私は下界行きだ」と考えて、上着をブッダに捧げました。そして「勝った」と3回叫びました。

その様子を偶然見たコーサラ国のパセーナディ王は、なぜ 「勝った」と叫んだのかを家来に尋ねさせました。貧しいバラモンの男は「自分の心に勝った」のだと知った王は、とても感銘を受け、褒美に一枚の布を与えました。

すると夫は、その布を再びブッダに捧げました。それを知った王から、さらに2枚の布が与えられました。その2枚の布もブッダに捧げたところ、今度は4枚の布が与えられました。このように王から与えられる度に全てブッダに捧げ、王はその度に褒美を倍にして与えました。最終的に褒美が32枚になったとき、夫は1枚を自分のため、もう1枚を妻のために残し、残りの30枚をブッダに捧げました。

感動した王は、さらに褒美を与えることにして、高価なビロードの布を2枚与えました。夫はその布で2つの天蓋を作り、1つは自分と妻のために、もう1つはブッダに捧げました。僧院で天蓋を見た王は、あの男がまたしても功徳を積んだことを悟りました。

僧侶の中には、このような場合、善行がすぐに良い結果をもたらすのはどうなのか、と思う者もいました。しかしブッダは、「もしも、彼が思いついたときにすぐに施しをしていたら、その褒美はもっと大きなものになっていただろう。施しは、したいと思った時に素早く行うべきで、先延ばしにすると、褒美はゆっくりと、しかもわずかしか得られない。それに遅すぎると、全くできなくなってしまうこともある」と答えました。

解説
良いと思ったことは、恥しがったり躊躇したりせずに、ただちに実行すべきだということです。電車の中で、お年寄りに席を譲ろうと思いつつも、躊躇しているうちに寝たフリをしてしまった、なんてことはありませんか? 

心の本来の性質は、好むものが欲しい「欲望」、嫌なものを嫌悪する「怒り」、的確な判断が下せない「無知・迷い」の3つです。良いことをしようと思ったら、迷わず即実行しないと、徳はどんどん目減りするし、もたもたしてるうちに「ま、いっか、今度で」となるのです。心は「勝った!」と大喜びです。

DhP.117

pāpañ ce puriso kayirā, 
悪いことを もし 人が するなら
na taṁ kayirā punappunaṁ, 
ない それを する 繰り返し
na tamhi chandaṁ kayirātha, 
ない それにおいて 意欲 する
dukkho pāpassa uccayo.
苦しみ 悪の 蓄積は

もし悪いことをしたら
それを繰り返さないこと!
その意欲がなければ
悪を積んで
苦しむことになる。

解説
「欲望・怒り・無知」この3つのエネルギーの衝動が生命の原動力
です。だから心は、悪いことに喜びを感じるのです。隙があれば、バレなければ、得するなら、悪さをするのが本能です。簡単にクセになります。この心の本質を理解して、自分で律しない限り、世の中から悪はなくなりません。

DhP.118

puññañ ce puriso kayirā, 
善いことを もし 人が するなら
kayirāthetaṁ punappunaṁ, 
する それを 繰り返し
tamhi chandaṁ kayirātha, 
それにおいて 意欲 する
sukho puññassa uccayo.
幸せ 善の 蓄積は

もし善いことをしたら
それを繰り返すこと!
その意欲があれば
徳を積んで幸せになれる。

解説
私たちは、誰かの役に立ったと感じたときに、心は喜びを感じて力が湧いてきます。気持ちが前向きで明るくなり、どんどん安定感が増していきます。困難に直面しても冷静に対処できるようになり、自然とすべてが良い方向へ向かうようになるのです。

DhP.119

pāpo pi passati bhadraṁ, 
悪いことは も 見る 幸運を
yāva pāpaṁ na paccati; 
までは 悪に ない 煮えられた
yadā ca paccati pāpaṁ, 
時に しかし 煮えられた 悪に
atha pāpo pāpāni passati.
そこで 悪いことは 不幸 見る

悪いことは
悪い結果となるまでは
楽しいように見えるが
悪い結果となった時に
不幸になる。

解説
悪いことをすると、誰かに迷惑をかけることになります。迷惑な人は、助けてもらえません。私たちは、誰かから嫌われていると感じたとき、心は嫌悪を感じて怒りが湧いてきます。気持ちがネガティブで暗くなり、どんどん不安定になっていきます。協力も得られないので、うまく対処できなくなったり、自然とすべてが悪い方向へ向かうようになるのです。

悪いことをする人間は、先が見えていないのです。無知であればあるほど、悪いことは簡単にできるのです。

DhP.120

bhadro pi passati pāpaṁ, 
幸運は も 見る 悪を
yāva bhadraṁ na paccati; 
までは 幸運に ない 煮える
yadā ca paccati bhadraṁ, 
時に しかし られた 善に
atha bhadro bhadrāni passati.
そこで 善いことは 幸運 見る

善いことは
よい結果となるまでは
つらいものだが
よい結果となった時に
幸せになれる。

エピソード
アナータピンディカは、ブッダのために僧院を建てた支援者です。彼は大金持ちでしたが、とても寛大で、ブッダに心から献身的でした。ところが事業に失敗し、財産を失ってしまいます。しかし、Sotāpanna ソーターパンナ(第1段階の修行完成者)だった彼は不幸に動じることなく、毎日の慈善活動を変わらず続けていました。

ある夜、アーナタピンディカの家を守っていた守護霊が彼の前に現れ、「あなたは将来を考えずに、財産をブッダに捧げている。だから貧乏になったのです。もうブッダにお布施しないで、自分の商売のことを考えて、また金持ちになりなさい」と言いました。

アーナタピンディカは守護霊を家から追い出しました。守護霊はソーターパンナに逆らうことができないので、行き場をなくしてサッカ神に相談しました。サッカ神は、まず良い行いをして、その後で許しを請うよう助言しました。そして次のように指示しました。

「ある商人から返済されなかったお金、先祖が埋めたが海に流されたお金、誰のものでもないが埋められているお金があります。あなたの超能力でこれらの財産をすべて見つけて、アーナタピンディカに捧げなさい」。守護霊はサッカ神の指示通りに行動し、アーナタピンディカは再びお金持ちになりました。

守護霊はアーナタピンディカに、サッカ神からの指示で、債務者・海中・地中から富を取り戻したことを伝えると、アーナタピンディカは畏敬の念を抱きました。そして、その守護霊をブッダのもとに連れて行きました。ブッダは2人に「人は長い間、善行の利益を享受できず、悪行の結果に苦しむかもしれないが、その善行や悪行が実を結び、熟す時が必ずやってくる」と言いました。

解説
自然の法則では、人を助ける行為は、幸福を確定します。逆に、言葉であれ、何であれ、人を傷つける行為は、不幸を確定します。人間には目先の結果しか見えません。行動して損をしたり、失敗をしたりしますが、目先の結果に目がくらむことが、人間の不幸と失敗の原因です。

DhP.121

māppamaññetha pāpassa, 
なかれ・量 悪事を
na maṁ taṁ āgamissati; 
ない 私には それは 来るだろうと
udabindunipātena, 
水滴の・落下によって
udakumbho pi pūrati;
水瓶 さえも 満たす
bālo pūrati pāpassa, 
愚者は 満たす 悪事を
thokathokam pi ācinaṁ.
少しずつ さえも 積む

これくらい大した悪事では
ないと思っていても
水滴が水瓶を満たすように
愚かな人は少しずつ悪事をためて
心を満たしてしまう。

エピソード
ある僧侶が、僧院でしばらく使った家具を庭に放置し、それらが雨や日に晒されていました。他の僧侶たちが彼をたしなめると、彼はいつも「物を壊すつもりはない」としか言わず、大した実害もありませんでした。

このことを知ったブッダは、その僧侶を呼び寄せて、「どんなに小さな悪でも無視してはいけない。また、小さな悪に慣れてしまうと、悪い習慣が身についてしまい、そのような人にとっては大きな悪も、それほど恐ろしいものではなくなる」とこの言葉を伝えました。

解説
「みんなやっている」「これくらい大したことない」「迷惑はかけてない」と自分に都合よく解釈して、悪いことをしてはいけないのです。たとえ小さなことでも、悪い行為は悪い結果しか出せません。

DhP.122

māppamaññetha puññassa, 
なかれ・量 善事を
na maṁ taṁ āgamissati; 
ない 私には それは 来るだろうと
udabindunipātena, 
水滴の・落下によって
udakumbho pi pūrati;
水瓶 さえも 満たす
dhīro pūrati puññassa, 
賢者は 満たす 善事を
thokathokam pi ācinaṁ.
少しずつ さえも 積む

これくらい大した善行では
ないと思っていても
水滴が水瓶を満たすように
賢い人は少しずつ功徳を積んで
心が満たされる。

エピソード
サーヴァッティの住人が、ブッダの説法を聞いてとても感銘を受け、ブッダの教えを実践しようと思いました。その教えとは、自分で施しをするだけでなく、他の人にも施しをしてもらうことで、より多くの功徳を積むことができるというものでした。彼は早速、ブッダと僧侶たちを翌日の食事に招待しました。

彼は近所を回り、「もし、施しに参加したいなら寄付してほしい」と頼みました。金持ちのビララパダカは、「こいつは自分で食事会をやるほどのお金を持っていないくせに…」と不満に思い、わずかな米、わずかなバター、わずかな糖蜜を寄付しました。受け取った男はこの寄付を、他の寄付とは混ぜずに、別々に持ち帰りました。

そのことに気づいたビララパダカは、「こいつは自分がわずかしか寄付しなかったことを皆に知らせて、自分に恥をかかせるつもりでは?」と思いました。ビララパダカは使用人を男の家に行かせ、調べるように命じました。

寄付を集め終わった男は家に帰り、その材料で美味しい料理をつくりました。そしてビララパダカが寄付したものを少しずつ、米やカレーや菓子などの様々な鍋に入れて、ビララパダカが多くの功徳を積めるようにしていました。使用人の報告を聞いたビララパダカは、その行動を理解できませんでした。

翌日、ビララパダカは食事会の席に向かい、自分の寄付が少なかったことを公衆の面前で明かしたら、彼を殺そうと思っていました。ところが男はみんなの前で、「この慈善活動はみんなで協力して行うものであり、たくさん寄付したかどうかは関係ありません」と言ったのです。ビララパダカは自分の愚かな考えに気づき、男に謝りました。

それを聞いたブッダは、ビララパダカに「たとえ小さな善行であっても軽視してはならない。善行が習慣となり、いつの日か大きな善行を行なうことができるようになる」と伝えました。

DhP.123

vāṇijo va bhayaṁ maggaṁ,
商人が ように 恐怖を 道を 
appasattho mahaddhano; 
仲間の少ない 大きな・財産
visaṁ jīvitukāmo va, 
毒を 生命・欲は ように
pāpāni parivajjaye.
悪を 回避すべき

少数で大金を持った商人が
危険な道を避けるように
死にたくない人が
毒を避けるように
悪いことを避けなさい。

解説
悪いことをしないということは、それだけで善い行為です。具体的には、今している悪いことは、直ちに止める。そして、これからするかもしれない、悪いことは止めるのです。過去は気にせず、今を大切にすることです。

DhP.124

pāṇimhi ce vaṇo nāssa,
手に もし 傷が ない 
hareyya pāṇinā visaṁ;
運べる 手で 毒を 
nābbaṇaṁ visam anveti, 
無傷に 毒が 近く 
natthi pāpaṁ akubbato.
存在しない 悪が しない人に

手に傷がなければ
毒を扱っても害はない
悪意がない人には
悪いことは存在しない。

エピソード
あるソーターパンナ(覚醒の第一段階を達成した人)の女性には、猟師の夫がいました。僧侶たちはブッダに、「夫が猟で使う網や仕掛けワナを調達しているのは妻です。これは動物の命を奪うことに加担しているのでは?」と尋ねました。ブッダは、「ソーターパンナは生き物を殺さないし、生き物が殺されることも望まない。妻として、夫のために物を入手することで夫に従っていただけです。傷のない手は毒に侵されないように、悪事を働こうと思わなければ、実際には悪いカルマは生じない」と答えました。

解説
このエピソードからは、絶対的な悪は存在せず、悪もまた相対的なものであるという解釈ができます。文化が違えば、人殺しだって正しい行為です。現に、日本では死刑が正義です。まさに「信じる者は救われる」です。

DhP.125

yo appaduṭṭhassa narassa dussati, 
人 ない・悪意の 人に 怒りを持つ
suddhassa posassa anaṅgaṇassa;
純粋な 人を ない・穢れ
tam eva bālaṁ pacceti pāpaṁ,
それは だけ 愚か 戻る 罪は
sukhumo rajo paṭivātaṁ va khitto.
細かな 塵 風に逆らって ように 投げられた

純粋で穢れのない
悪意のない人に
敵意を抱くことは
実に愚かなことで
風に逆らって投げた砂のように
不幸は自分に返ってくる。

解説
悪意を抱く」とは、対象を受け入れず対立している状態です。他者が自分の意に沿うように行動できていないことに対する「怒り」です。自分がコントロールできるのは、自分だけです。他の人も動物も、自分のニーズを満たすために存在しているのではありません。自分のニーズを満たせるのは、自分だけです。これは自然の法則です。

DhP.126

gabbham eke uppajjanti, 
母胎に・ある人 生まれ変わる
nirayaṁ pāpakammino; 
地獄に 悪い・行為者は
saggaṁ sugatino yanti, 
天界に 善行者は 彼らは行く
parinibbanti anāsavā.
完成・涅槃 ない・穢れの人は

あるものは胎内に生まれ変わる
悪人は下界に生まれ変わる
善人は天界に生まれ変わる
煩悩のない人は完全に解放される

エピソード
サーヴァッティの町に、宝石磨きの男とその妻が住んでいました。彼らは毎日ある僧侶に托鉢をしていました。男が肉を切っていたところ、王様の使いがやってきて、宝石を磨いてほしいとルビーを渡しました。男は肉で血まみれの手でルビーを受け取り、テーブルの上に置いて手を洗いに行きました。

その家にはペットの鳥がいました。鳥は血のついたルビーを見ると、それを肉だと勘違いし、僧侶の目の前で、飲み込んでしまいました。男が戻ってくると、どこにもルビーが見当たりません。妻に尋ねましたが「何も知らない」と言います。最後にその場にいた僧侶にも聞いてみましたが、「自分は取っていない」と答えました。

男はルビーをとったのは、この僧侶に違いないと確信し、僧侶を拷問することにしました。妻が「あの僧侶はアラハンであり、私たちの長年の先生です。悪いことをしているのを見たことがありません。高貴な方を非難するよりも、王様の罰を受けた方がいい」と言って止めました。しかし男は僧侶を縛り上げて棒で叩きました。

僧侶は血まみれになり、その血に引かれて鳥が再びやってきました。男は怒ってその鳥を蹴って、殺してしまいました。すると僧侶が「鳥が死んだかどうか見せてください」と言いました。男は鳥を見せながら「あなたもこの鳥のように死ぬ」と答えました。僧侶は鳥が死んだのを確認すると、「鳥がルビーを飲み込んだのだ」と静かに言いました。男が鳥を切ってみると、胃の中にルビーが入っていました。

男は自分の過ちに気づいて恐れおののき、僧侶に許しを請い、これからも托鉢をしたいと訴えました。すると僧侶は、「これはあなたのせいでも、私のせいでもない。これは私が家の中に入ったために起こった結果です」と言いました。

「私は出家僧にもかかわらず、在家のあなたたちと親しくなり過ぎたのです。あなたは善行をしようとして、私を招き入れたのに、私の行為に巻き込まれて、余計な悪行をしてしまいました。今日、私が殺されかけたのは、私自身の前世で犯した何かの罪の報いなのでしょう。これはあなたのせいではありません。今日から私はどんな家にも入らず、ドアの前に立っているだけにします」と言いました。

やがて僧侶はこの傷が元で亡くなりました。後日、この話に出てくる様々な人物がどこに生まれ変わったのかをブッダに尋ねると、「鳥は、あの後すぐに宝石磨きの息子に生まれ変わり、数年後に死んだ宝石磨きは下界に生まれ変わり、妻は天界に生まれ変わった。生きている時にすでにアラハンだった僧侶は涅槃を実現した」と答えました。

解説
これはいわゆる因果の法則です。行為Aが原因で行為Bの結果が決まる、という当たり前の法則ですが、ある1つの出来事を複数名が同時に体験しても、行為の原因と結果は、人それぞれ違うのです。

このエピソードで男は、僧侶を殺しかけた行為が原因で、結果は下界行き。妻は、僧侶を助けようとした行為が原因で、結果は天界行き。僧侶は、鳥のことを黙っていた行為が原因で、結果は殴られ、その傷が元で死んで涅槃実現、という顛末です。

原因となる行為は常にする人の意志で行われその結果の報いはした本人が受け取ります。結果が出るのが来世になることはありますが、常に自業自得しかありません。日本人が思う「親の因果は子の報い」的な因果応報はブッダ の教えにはありません。この僧侶が家の中に入らなければ、男が僧侶を殴る意思も、妻が僧侶を助ける意思も発生しなかったのです。これが因果の法則です。

それにしてもアラハンの対応が素晴らしいですね。「鳥が飲み込んだ」と答えれば、鳥の腹が裂かれてしまう。かと言って嘘はつかずに、「私は取っていない」と事実だけを答えたのです。自分が殺されても、鳥の生命を守ろうとしたのです。

DhP.127

na antalikkhe na samuddamajjhe, 
ない 空中に ない 海の・中に
na pabbatānaṁ vivaraṁ pavissa;
ない 山の 裂け目に 入っても
na vijjatī so jagatippadeso,
ない 見出す 彼は 世界の・場所
yatthaṭṭhito mucceyya pāpakammā.
その場所へ 逃げる 悪い行為から

空にも海の中にも
山の洞窟にもない。
悪い行為の結果から
逃げられる場所は
世界中どこにもない。

解説
良くも悪くも人がした行為は、潜在的なエネルギーkamma)として心に蓄積されます。これがその生命体の反応特性になり、オリジナリティとなります。そしてこのエネルギーが生命の原動力になって輪廻し、転生した先についていきます。肉体が死んでも、心から離れることはできないのです。だから何か行為をすれば、たとえ現世で結果が返ってこなくても、いつか必ずその結果を受け取るのです。

DhP.128

na antalikkhe, na samuddamajjhe, 
ない 空中に ない 海の・中に
na pabbatānaṁ vivaraṁ pavissa;
ない 山の 裂け目に 入っても
na vijjatī so jagatippadeso,
ない 見出す 彼は 世界の・場所
yatthaṭṭhitaṁ nappasahetha maccu.
その場所へ ない・征服する 死から

空にも海の中にも
山の洞窟にも
死から逃れられる場所は
世界中どこにもない。

解説
私たちにはたった一つだけ、確実にわかっている未来があります。それは「生まれたら必ず死ぬ」という事実です。これだけは、誰でも必ずそうなります。他のことは、すべて不確実ですが、これだけは100%絶対確実です。

それなのに私たちは、この事実だけは受け入れたくないのです。わかっていても嫌なのです。死にたくないのです。「もう死にたい」と言っても、本当に死にたいわけではなく、「現状が嫌だからリセットしたい」が本心です。

どうせ死ぬんだから」と思えば、怖れることはこの世になくなり、ほとんどのことが大したことではなくなります。「私のもの」に執着する必要もなくなり、心配も苦しみもグッと少なくなります。他者とぶつかることも当然少なくなり、私たちはいますぐ幸せになれるのです。

さらに言えば、死んでも直ちに生まれ変わるので、肉体は朽ちても、また次の生命体での活動が始まるのです。このことを本当に理解していると、たとえ殴られても「あー、かつて自分はこんなことをしたのか、いまここで返ってきたのか」と静かに受けとめられるのです。これはアラハンの境地ではありますが、本当は誰でもできることでもあるのです。

実にシンプルなことです。それなのに、私たちは、自分が作り上げたイメージの「」を守るために、必死で悪いことをするのです。残念ながら世の中から悪はなくなりませんが、真理はごまかせません。世直しより、自分直しで頑張るしか、道はないようです。

ダンマパダ9章「悪事」了