ダンマパダ14章 179〜196

Buddha-vaggo ブッダの章

現代社会における歴史上のブッダはゴータマ・ブッダ(仏教では釈迦)1人ですが、当時は、自ら涅槃に到達した多くの覚者(ブッダ)の一人に過ぎませんでした。ゴータマ・ブッダ以前にも悟りの最終段階に至った覚者たちがいて、覚者になるとブッダの称号を得て、周囲からブッダと呼ばれるようになりました。この章ではゴータマ・ブッダだけでなく、そのブッダたちに共通する教えも語られています。

DhP.179

yassa jitaṁ nāvajīyati,
人の 征服は ない・征服される
jitaṁ yassa no yāti koci loke;
征服に 彼の ない 行く 誰も 世界に
tam buddham anantagocaraṁ,
そんな ブッダを 無限の・適地に
apadaṁ kena padena nessatha.
ない・足跡 何故 足を 導かれるだろう  

彼は征服した人
世界の誰も彼を征服できない。
自由自在に行き来し
足跡すら残さないブッダを
どうやって誘うというのか。

エピソード
クル国に住むバラモン階級のマーガンディヤには、非常に美しい娘がいました。大勢の求婚者がいましたが、マーガンディヤは全て断っていました。ある日の早朝、ブッダに偶然出会ったマーガンディヤは、そのただ者ならぬ高貴さを見抜き、彼こそが自分の娘にふさわしいと判断しました。

そしてブッダに、そこで待っていてほしいと懇願し、急いで妻と娘を連れに戻りました。家族で戻ってみると、そこにはブッダの足跡だけが残っていました。その足跡を見た妻は、これは世俗の欲望から解放された人の足跡だと言いました。

ブッダを見つけたマーガンディヤは、娘をブッダに嫁がせたいと申し出ました。しかしブッダはその申し出を受けず、また断らずに、まず、ブッダが悟りの最終段階に到達した直後に、マーラ(自身の煩悩の化身)の美女たちに誘惑されたことを話しました。そしてブッダは「絶世の美女が誘惑したところで、渇望・執着・情欲がない者をどうやって誘惑することができるのか。排泄物(糞尿)をたたえた袋にすぎないものに、足さえ触れたくない」と諭しました。

マーガンディヤと妻は納得し、まして自分の娘に心を動かすはずがないと理解しましたが、娘は自分の美貌を侮辱されたと思い、密かに恨みました。(23章 DhP.320に続く)

解説
バラモン階級=カースト制度の最高位。ブッダの行動は自由自在だったので、その足跡から行動を伺い知ることなどできません。

DhP.180

yassa jālinī visattikā,
人の 欲情 愛着
taṇhā natthi kuhiñci netave;
渇望 ない どこにも 導く
tam buddham anantagocaraṁ,
そんな ブッダを 無限の・適地に
apadaṁ kena padena nessatha.
ない・足跡 何故 足を 導かれるだろう

誘惑できるような
渇望や愛着、欲望は
どこにもない。
自由自在に行き来し
足跡すら残さないブッダを
どうやって誘うというのか。

解説
覚者はすべての渇望・執着・情熱を滅尽しているので、彼を誘惑することはできません。衝動のエネルギーがなくなった彼は、もう生まれ変わることはありません。

DhP.181

ye jhānapasutā dhīrā,
彼らは 禅定に・熱心なる 賢者
nekkhammūpasame ratā;
出離・寂静 楽しむ
devā pi tesaṁ pihayanti,
神々 も 彼らを 羨む
sambuddhānaṁ satīmataṁ.
正覚者である 気づきのある人を

瞑想を熱心に
実践する賢い人は
心が欲を離れて
静寂を楽しむ
気づきのある人
完全に目覚めた覚者は
神々も羨む。

解説
我を張ることなく静かで落ち着いた人は、誰からも好かれます。

DhP.182

kiccho manussapaṭilābho,
困難 人間を・獲得は
kicchaṁ maccāna’ jīvitaṁ,
困難なる 人間の 生きる
kicchaṁ saddhammasavanaṁ,
困難なる 正しい・ダンマを・聞く
kiccho buddhānam uppādo.
困難 ブッダの 出現は

人間に生まれるのは難しいこと
生きてるだけでもすごいこと。
正しい真理を聞く機会は
滅多にないこと
ブッダの出現となると
本当に稀なこと。

解説
私たちは死ぬと、その瞬間に他の生命に生まれ変わるそうです。輪廻転生先は、動物かもしれないし、昆虫かもしれないし、いろいろです。けれども人間に生まれ変わるのは、とても難しいそうで、たくさんの善行を重ねた結果、人間界に生まれるそうです。

だから世界中の人々は、本当は善行者ばかりなのです。そんな中でも、ダンマに接する機会を得る人は、本当にごく少数です。今ここでブッダの教えを共有できる私たちは、相当に恵まれた存在だと言えるのです。ましてブッダの出現に出会うチャンスは稀なことです。会えるといいですね ♪

DhP.183

sabbapāpassa akaraṇaṁ,
一切の・悪を ない・為す
kusalassa upasampadā,
功徳を 獲得すること
sacittapariyodapanaṁ
自分の・心を・浄化する
etaṁ buddhāna’ sāsanaṁ.
これが ブッダたちの 教え

悪いことを一切しない
功徳を積む
自分の心を浄化する
これがブッダたちの教え。

解説
ブッダの教えを一言で表したものですが、この詩句では「ブッダたち」と複数形で書かれています。ゴータマ・ブッダをはじめ、すべてのブッダ教えに共通する基本です。

悪いこと」とは、生きとし生けるものに苦しみをもたらす行為です。悪行を慎んだら、善行を行い、花のように「徳を集める」必要があります。「功徳」とは、生きとし生けるものを助ける行為であり、愛情、慈悲、喜び、平静さに基づいて行います。この2つは「心の浄化」の準備のために必ず必要です。この2つがなければ、心を浄化することはできません。

DhP.184

khantī paramaṁ tapo titikkhā,
忍耐 最高 鍛練 辛抱
nibbānaṁ paramaṁ vadanti buddhā.
涅槃は 最高 説く ブッダは
na hi pabbajito parūpaghātī,
ない 実に 出家 他を・害する
na samaṇo hoti paraṃ viheṭhayanto.
ない 修行者は 存在 他を 悩ます者は

忍耐と辛抱は最高の修行
涅槃は最高だとブッダは言う
出家者は他を害さない
修行者は他者が
嫌がることをしない

エピソード
ある時、アーナンダがブッダに「僧侶の行動に関する基本的な指示は、過去のブッダも同じだったのか、それとも覚醒したブッダがそれぞれ独自のルールを決めているのかと尋ねました。
ブッダは、このDhP183〜185 の言葉で、すべて同じであると答えました。

解説
忍耐
辛抱は、どちらも「耐え忍ぶこと」です。

khantī欲・怒り・無知に心が負けないように気をつけること。理性と智慧に焦点をあてて実践することです。

titikkhā悪条件を堪え忍ぶこと。また、心に生じる怒り・嫉妬・憎しみ・後悔の感情を制御することです。

我慢のように自分がしたくないことや嫌なことに耐えるのではなく、自分のため、人のために努力する辛さに耐えることです。我慢がよくないのは、怒りながら耐えているからです。

嫌いな人と我慢してつきあうのではなく、判断しないで辛抱強くつきあうのが titikkhā です。

相手が嫌だと思うのは、自分の期待と違うからです。そのことに気づいて、相手のよい部分を探しながら付き合うのが khantī です。心が育って自分の成長になるのです。

DhP.185

anupavādo anupaghāto,
ない・非難 ない・加害
pātimokkhe ca saṁvaro;
戒律集 と 抑制
mattaññutā ca bhattasmiṁ,
節制 と 食事において
pantañ ca sayanāsanaṁ;
辺境の と 臥坐所
adhicitte ca āyogo,
無放・心 と 専念
etaṁ buddhāna’ sāsanaṁ.
これが ブッダたちの 教え

非難せず非暴力
戒律を守り食事を節制する
人里離れた所に住む
心を1つに集中して専念する
これがブッダたちの教え。

解説
「心を1つに集中して専念する」は、サマーディ瞑想(サマタ瞑想)によってジャーナ(禅定)状態で精神統一することです。一瞬でもこの状態になれば(=欲から離れる)悟りの道に入ることになります。

DhP.186

na kahāpaṇavassena,
ない 貨幣の・雨
titti kāmesu vijjati;
満足 欲において 見出される
appassādā dukhā kāmā,
少し・楽しみ 苦しみ 欲は
iti viññāya paṇḍito.
だと 了知して 賢者は

お金の雨が降っても
人は欲望を満たせない。
賢い人は欲望は苦しみで
喜びはわずかだと理解している。

解説
なぜ、欲は苦しみなのでしょうか? 欲には際限がないからです。何かが得られても、すぐに次の何かが欲しくなる。欲は決して人を満足させることができません。だから、欲のままに生きようとすれば、不満な人生を送ることになります。

DhP.187に続きます。

DhP.187

api dibbesu kāmesu,
さえ 天の 欲において
ratiṁ so nādhigacchati;
楽しみ 彼は ない・獲得
taṇhakkhayarato hoti,
渇望の滅尽を・楽しむ である
sammāsambuddhasāvako.
正自覚者の・弟子は

天界の楽しみにさえ
喜びを見出さない
サンマーサンブッダの弟子は
渇望の停止が喜びである。

解説
天界とはいわゆる天国のような存在界で、苦しみの少ない快楽中心の世界です。人間界で善行を積めば、来世で天界に行くことも可能ですが、サンマー・サン・ブッダ(完全に自分で悟ったブッダ)の弟子は、天界の快楽を享受するよりも、渇望を停止して涅槃に到達し、輪廻転生のサイクルから解脱することが喜びなのです。

DhP.188

bahuṁ ve saraṇaṁ yanti,
多くの 実に 拠り所 彼らは行く
pabbatāni vanāni ca;
山に 森に と
ārāmarukkhacetyāni,
苑・樹木・集まりに
manussā bhayatajjitā.
人々は 恐怖に・脅されて

人々は恐怖にかられると
山や森、鎮守の杜
ご神木や神社に救いを求める。

解説
人は何かに頼りたがる生き物です。心の不安、恐怖感をまぎらわせてくれる対象として、宗教や神仏、パワースポット、お守りや占い、迷信などに頼ったり信じたりします。

DhP.189

netaṁ kho saraṇaṁ khemaṁ,
ない・これ 実に 拠り所 安穏な
netaṁ saraṇam uttamaṁ;
ない・これ 拠り所 最高の
netaṁ saraṇam āgamma,
ない・これ 拠り所 行って
sabbadukkhā pamuccati.
すべての・苦しみから 解放

安らぐ癒しの場も
最強のパワースポットも実はない
そんな所に行っても
全ての苦しみから解放されない。

解説
いくら信じても何かの力にすがっても、不安や恐怖心はなくなりません。それが心の性質だからです。自分の心の中から、その性質そのものを取り除かない限り、不安や恐怖はなくなりません。外に求めても、無駄なのです。

DhP.190

yo ca buddhañ ca dhammañ ca,
人は と ブッダ と ダンマ と
saṅghañ ca saraṇaṁ gato,
サンガ と 拠り所 行く
cattāri ariyasaccāni,
4つの 聖なる真理
sammappaññāya passati:
正しい・智慧を 見る

ブッダとダンマ
サンガに帰依した人は
4つの聖なる真理によって
正しい智慧を発見する。

解説
帰依(きえ)」とは心の拠り所とすることですが、依存救済ではなく、三者を励みにして自律することです。ダンマはブッダの説く真理の教え、サンガは僧侶の集団のことです。ブッダとその教えと僧侶衆を拠り所とする=出家して共に修行するための心の支えにする、ということです。「三宝に帰依」の詳細はこちら

DhP.191

dukkhaṁ dukkhasamuppādaṁ,
苦しみを 苦しみの・生起を
dukkhassa ca atikkamaṁ;
苦しみの と 征服
ariyañ caṭṭhaṅgikaṁ maggaṁ,
聖なる 八支の 道
dukkhūpasamagāminaṁ.
苦しみ・停止に・導かれる

(4つの聖なる真理とは)
苦しみとは何か
苦しみの原因は何か
苦しみを克服する方法
苦しみを停止に導くための
8つの正しい道である。

解説
4つの聖なる真理は、ブッダが涅槃に到達した際に「人間が苦しみから解放される方法」として考えをまとめたものです。1. 苦しみとは 2. 苦しみの原因 3. 苦しみの停止 4. 苦しみを停止するのに役立つ「8つの方法=8つの正しい道」。以上、4つの真理で構成されています。

DhP.192

etaṁ kho saraṇaṁ khemaṁ,
これ 実に 拠り所 安穏な
etaṁ saraṇam uttamaṁ;
これ 拠り所 最高の 
etaṁ saraṇam āgamma,
これ 拠り所 行って
sabbadukkhā pamuccati.
すべての・苦しみから 解放

これこそが
安らぐ拠り所
最高の拠り所だ
これを支えにすれば
全ての苦しみから解放される。

解説
三宝
(ブッダ・ダンマ・サンガ)に帰依したから何とかなるのではありません。そこからが始まりです。ブッダもダンマもサンガも、自分の代わりには何もしてくれません。そこからやる気や知恵を得て、心の解放のために自分が実践するのです。自分でやらなくてはダメです。

DhP.193

dullabho purisājañño,
得難い 人・よい生まれの
na so sabbattha jāyati;
ない 彼は どこでも 生まれる
yattha so jāyatī dhīro,
の所へ 彼は 生まれた 賢人
taṁ kulaṁ sukham edhati.
それは 家 幸せ 栄える

高貴な人は得難い
どこにでもいつでも
生まれるわけではない。
そのような賢人が生まれた家は
幸せで繁栄している。

エピソード
アーナンダは生まれについて考えていました。「馬にはサラブレッド種があるが、人間にもブッダのようなサラブレッドが生まれる家系があるのだろうか?」そのことをブッダに問うと、ブッダは「高貴な人は特定の家系には生まれない。しかしどこに生まれても、その家は非常に幸運なのです」と答えました。

※別の文献では、同じエピソードで「クシャトリヤ(王族)とブラフマー(梵天)の間からしか生まれない」となっていました。お好みの方でご理解ください。

解説
真理を説くことができるのはサンマー・サン・ブッダだけです。いつでもどこでも生まれるわけではありませんが、2500年に一度ひとりだけ生まれるようです。その教えを知り、学べることが本当の幸せだと思います。

DhP.194

sukho buddhānam uppādo,
幸運 ブッダたちの 出現は
sukhā saddhammadesanā;
幸運 真のダンマが 説教
sukhā saṅghassa sāmaggī,
幸運 サンガにおいて 調和
samaggānaṁ tapo sukho.
調和のある 鍛練 幸運

ブッダたちの出現は幸せ
真のダンマが説かれるのは幸せ
サンガの調和は幸せ
調和をもって
修行できるのは幸せ。

解説
サンガ
は、ブッダの教えを実践する出家者の集まりです。このサンガの役割は、ブッダの教えを守り、人々に伝えることです。

DhP.195

pūjārahe pūjayato,
尊敬 表敬は
buddhe yadi va sāvake;
ブッダたち もし あるいは 弟子たち
papañcasamatikkante,
捏造を・取り除き
tiṇṇasokapariddave.
超える・憂い・悲しみ

尊敬に値する
ブッダや弟子たちに
敬意を表しなさい。
思い込みを取り除き
憂い悲しみを克服した人に

解説
Papañca
(パパンチャ)は「障害・戯論・迷執・妄想」という意味で、心の中であれこれと思いを巡らせて「捏造」することです。

私たちは「自分は外の世界を見ている知っている」と思っていますが、ありのままの事実は見ていません。5つの感覚器官(目耳鼻舌体)に情報が触れた瞬間、心の中では捏造papañca)が始まります。

例えば、笑っている友人を見たとき、「楽しそうだ、元気そうだ」と感じる人もいれば、「うるさい」とか「私にはあんな笑顔を見せない」、「私のことを馬鹿にしている」と思う人もいます。この各自が心の中で思い描く考えが「papañca(捏造)」です。似たような考えはあっても、完全なる一致はありません。

ここでの事実は「友人が笑っている姿が目に入った」だけです。友人は、本当は楽しくないかもしれないし、具合いが悪いかもしれません。耳の遠い人には、うるさい声も聞こえません。「あんな笑顔」とは、何と比べての笑顔でしょう? そう思った本人もフィーリングでそう思っただけで、本当はわからないのでは? 当然、馬鹿にしているかどうかも、わかり得ないことで、単なる妄想でしかありません。

このように私たちは、感覚器官に触れた外の情報について、自分の解釈(色)を加えた捏造の概念を「知っている」に過ぎないのです。「papañca(捏造)」を事実だと思い込んで、憂いたり悲しんだりしているのです。

Papañca には、必ず自分の好き嫌いが加わります。好きという、または嫌いという怒りです。

私たちは「好き(欲)・嫌い(怒り)・間違った見方(無知)」によって、捏造した世界を作り上げているのです。そして「私の意見は正しい」「あなたは間違っている」となるのです。だからPapañca は、悟りを開くための障害なのです。DhP.196に続く。

DhP.196

te tādise pūjayato,
彼らに そのような 表敬
nibbute akutobhaye;
消滅した ない・怖れ
na sakkā puññaṁ saṅkhātuṁ,
ない できるだろう 功徳 思い通り
imettam api kenaci.
この・今 また 何かによって

怖れがなくなった彼らに
敬意を表することで
得られる恩恵ははかりしれない。

解説
すべての問題は、外部情報を感知して受け取る6つの感覚器官から生じます。

私たちに起こる問題は、見たもの、聞いたもの、嗅いだもの、味わったもの、触れたもの、考えたり感じたものから発生しているのです。これがすべての苦しみの原因です。兄弟喧嘩もDVも派閥争いも戦争も、すべての問題は目・耳・鼻・舌・体・心から始まっているのです。

これは認識システムによるものです。私たちは何かを経験したとき、すでに知っていることと照らし合わせてそれを認識します。既存のデータに基づいて物事を認識するため、事実をそのまま理解することができないのです。

私たちは常に目先の楽しみや刺激を追い求め、それらに巻き込まれて苦しむことになります。物事に囚われ、それに執着すると、結局は苦痛を味わうことになるのです。このことが私たちの”本当の問題“です。

ダンマパダ14章「ブッダ」了