ダンマパダ16章 209〜220

Piya-vaggo 好き

ダンマパダ16章は、Piya好き」がテーマです。

Piyaは「」と訳されることも多いですが、愛情ではなく「個人的に心地快いもの気に入っている好み」という意味です。

好きというとポジティブで良いことのように感じますが、ブッダの考えでは「好き=善」ではありません。むしろ好きは危険なこととしています。

好きであることに論理的な理由はありません。ただ「好き」なだけです。その人の主観的な感情で、客観性も理性もありません。ただ単に個人的に快いものへの自己中心的な執着です。好きな何かに依存することで、自分の心の安定を得ようしているだけです。それは心が弱く、汚れているというのがブッダの教えです。

DhP.209

ayoge yuñjam attānaṁ, 
ない・仕事 結びつき 自分と
yogasmiñ ca ayojayaṁ, 
仕事に また ない・結びつき
atthaṁ hitvā piyaggāhī, 
目的を 捨て 好き・取る人は
pihetattānuyoginaṁ.
妬む・専心する人を

やるべきでないことをやり
やるべきことをやらない。
好きなことだけやって
目的を捨てた人は
一生懸命な人を妬む。

エピソード
サーヴァティで、1人の青年が僧侶になりました。彼の両親は息子をとても愛していたので、彼らも一緒に出家しました。しかし彼らは、僧院の中でもまるで家にいるかのように一緒に過ごし、一緒に食事し、一日中話をしていました。それを聞いたブッダは「出家したら、この世のあらゆる執着を捨てなさい。もう家族のように一緒にいてはいけない。大切な人に会えないのも、大切でない人に会うのも、どちらも辛いことだから、どんな人もどんなものも大切にしてはいけない」」と強く諭しました。そして、この詩句とDhp.210、211を伝えました。

解説
好き」というのは感情的な判断です。感情的な判断は、欲や怒り、無知に駆られるため、悪いものになりがちです。人は好きなことだけをやりたいのが本心です。つまり、やってはいけないことをするのが好きなのです。

DhP.210

piyehi samāgañchī, 
なかれ 好きな人 会う
appiyehi kudācanaṁ; 
好きではない人 決して
piyānaṁ adassanaṁ dukkhaṁ, 
好きな人 ない・見る 苦しみに
appiyānañ ca dassanaṁ.
好きではない人 と 見る

好きな人とは会うな
嫌いな人とは絶対に会うな
好きな人を見られないのは苦しみ
嫌いな人を見るのも苦しみ。

解説
嫌いな人と付き合うのは本当に嫌なものです。しかし愛している人はどうでしょうか? 相手が自分の希望通りのタイミングで顔を見せるとは限りません。会えなければ、会いたいという気持ちが大きくなって、苦しむのです。愛する人に会えないことも、嫌いな人に会うことも、感覚的には同じ「苦しみ」なのです。何の違いもありません。

DhP.211

tasmā piyaṁ na kayirātha, 
それ故に 好きな人 ない 作る
piyāpāyo hi pāpako; 
好きな人・別離は 実に 悪い
ganthā tesaṁ na vijjanti,
縛り その ない 悪い
yesaṁ natthi piyāppiyaṁ.
人 ない 好きな人・嫌いな人

好きな人との別れは
最悪だから
好きな人を作らない
好きな人も嫌いな人もいなければ
何のしがらみもない。

解説
愛する人は自分にとって大切な人です。どうして大切なのでしょう? 相手のため? 相手の幸せのため? そう思っているつもりでも、本当は「私のため」です。自分が気に入っている相手は、自分が満足するために大切であることが多いのです。自分の心を満たすために相手に依存し、相手を拘束していると、その人がいなくなったり、死んだりすると、それは最大の苦しみになります。だから愛する人自分が執着する対象)を作ることは、苦しみのもとになるのです。

快・不快、賞賛・非難、成功・敗北など、人間が経験するあらゆることには二面性があり、これに平常心で向きあえなければ、苦しみを生み出します。「好き、嫌い」と選び取ることは、この人生の二元性にとらわれることです。愛する人も嫌いな人もいなければ、私たちは何の心配(束縛)もなく、自由で安らかに生きられるのです。

DhP.212

piyato jāyatī soko好きから 生む 憂い
piyato jāyatī bhayaṁ; 
好きから 生む 怖れ
piyato vippamuttassa, 
好きから 脱した人には
natthi soko kuto bhayaṁ.
ない 憂い どこにも 怖れ

好きだから心配が生まれ
好きだから怖れが生まれる
好きなものがなければ
心配も怖れもどこにもない。

エピソード
最愛の息子の死を受け入れられず、毎日悲しみに明け暮れていた父親に対して、ブッダは「死は1カ所だけで起こるものではない。生まれてきたものは、いつかは死ぬのだ。人生は死で終わるということを常に心に留めておきなさい。愛する息子だけが死を迎えると思ってはいけない。そんなに悩んだり、動揺しないように。悲しみや恐れは愛情から生まれるのだ」と言いました。

解説
Soka
(憂い)とは、自分の思うようにならなくて、つらい、苦しい状態です。自分が気に入っているものや人は、自分のそばに置いておきたい、大切なものほど失うのが怖くなります。逆に、自分が気に入らないものや人は、自分のそばにあるのは嫌だ、なくなって欲しいと思うものです。どちらも現実には、そうなることもあれば、そうならないこともあります。

いずれにせよ自分の思い通りにならなければ、憂鬱に感じるのです。これは好き嫌いをつくるからです。だから心が苦しくなるのです。好き嫌いを分け隔てるのをやめれば、落ち込んだり怖れることもなくなります。執着や嫌悪を手放して、「賛成」も「反対」も大切にすればいいのです。

DhP.213

pemato jāyatī soko, 
愛情から 生む 憂い
pemato jāyatī bhayaṁ; 
愛情から 生む 怖れ
pemato vippamuttassa,
愛情から 脱した人には
natthi soko kuto bhayaṁ.
ない 憂い どこにも 怖れ

愛情から心配が生まれ
愛情から怖れが生まれる
愛情を抱かなければ
心配も怖れもどこにもない。

解説
最愛の孫を亡くした老女に対してブッダが言った言葉です。毎日、世界中でどれだけの人が死んでいるでしょう。でも知らない人が死んでも悲しくもなんともありません。悲しみと恐れは愛着から生まれます。この詩句では「piya」ではなく、母性愛として「pema」が使われています。

DhP.214

ratiyā jāyatī soko,
愛欲から 生む 憂い 
ratiyā jāyatī bhayaṁ; 
愛欲から 生む 怖れ
ratiyā vippamuttassa, 
愛欲から 脱した人には
natthi soko kuto bhayaṁ.
ない 憂い どこにも 怖れ

情欲から心配が生まれ
情欲から怖れが生まれる
情欲を抱かなければ
心配も怖れもどこにもない。

解説
舞姫を取り合って破滅した王子を見てブッダが言った言葉です。ratiは恋愛、性欲を伴う愛のことです。性欲は本能で必要不可欠だと思われていますが、これも単なる主観的な感情です。「子孫を残す」ことにあらゆる生命が必死なのは事実ですが、子孫を作ることはその生命が生きる上で必須のものではありません。強烈な欲の1つに過ぎません。ブッダは、性欲は割に合わないほど不幸を招くもので、心の成長を妨げるもの、人を苦しみに徹底的に依存させるものであると言っています。

DhP.215

kāmato jāyatī soko, 
望みから 生む 憂い
kāmato jāyatī bhayaṁ; 
望みから 生む 怖れ
kāmato vippamuttassa, 
望みから 脱した人には
natthi soko kuto bhayaṁ.
ない 憂い どこにも 怖れ

望むから心配が生まれ
望むから怖れが生まれる
望みを抱かなければ
心配も怖れもどこにもない。

解説
幸せな生活を夢見ていた結婚式前日に、花嫁が急死し、悲観にくれる花婿に対して、ブッダが言った言葉です。まだ経験してもいないのに、その楽しみに希望的に依存していて、結婚すれば、さらに物欲と官能的な快楽への欲が出るとしています。kāmaは、一般的な広い意味での愛を伴う楽しみ・喜びです。

DhP.216

taṇhāya jāyatī soko, 
渇望から 生む 憂い
taṇhāya jāyatī bhayaṁ;
渇望から 生む 怖れ 
taṇhāya vippamuttassa,
渇望から 脱した人には 
natthi soko kuto bhayaṁ.
ない 憂い どこにも 怖れ

渇望から心配が生まれ
渇望から怖れが生まれる
渇望を抱かなければ
心配も怖れもどこにもない。

解説
あらゆるものごとは、納得する前に消えてしまいます。だから人が何をしても、最後に心には「あぁ、もっとやりたかった」という渇望が残ります。これが最後の最後まで残る心の汚れです。

DhP.217

sīladassanasampannaṁ, 
戒・見識・成就した
dhammaṭṭhaṁ saccavādinaṁ;
ダンマ・ある 真実・知る人
attano kamma kubbānaṁ, 
自分の 業を なした
taṁ jano kurute piyaṁ.
彼を 人は する 好き

道徳心と見識があり
ダンマに沿って
真実を知る人
自分の務めを果たした人は
人から好かれる。

解説
まさにブッダがそんな人です。ブッダは、絶体的な唯一神のように畏れ多い存在ではありません。私たちのことを心配してくれる、頼りになるありがたい先人です。誰に対しても平等で、すべての生命にとって最良の友です。だから今でも愛されるのです。

ブッダほどではないにしても、一所懸命に働く人、自分の務めを果たそうと努力する人の姿は美しいものです。見ているだけで、こちらもやる気になり、コツコツ頑張ろうと思わせてくれます。そんな人は誰からも好かれますよね。

DhP.218

chandajāto anakkhāte,
意欲・生じた人は ない・語る 
manasā ca phuṭo siyā; 
精神によって と 拡がった あるだろう
kāmesu ca appaṭibaddhacitto, 
欲によって と ない・執着する・心は
uddhaṁsoto ti vuccati.
流れから出た人 と 呼ばれる

何も語らずに心を集中して
精神が開花した人は
感覚的な快楽に
心が執着することなく
輪廻の流れから脱している。

エピソード
多くの弟子を持つ老僧がいました。ある時、弟子たちが老僧に「先生は悟りのどの段階に到達しているのか」と尋ねたところ、老僧は3番目のアナーガーミに到達しているにもかかわらず、何も言いませんでした。自分がアラハンになるまでは話さないと決めていたからです。しかし老僧は、アラハンになることなく逝ってしまいました。

弟子たちは老僧が、悟りのどの段階にも到達せずに逝ってしまったと思いました。弟子たちはブッダに「先生はどこに生まれ変わったのか」と尋ねました。ブッダはこう答えました。「彼は亡くなる前はアナーガーミだったが、今はブラフマー界(Brahmaloka)に生まれ変わっている。彼がアナーガーミであったことを明かさなかったのは、それだけしか達成していないことを恥じていたからで、アラハンになるために熱心に努力していた。彼は今、欲界(kāmaloka) への執着から解放され、高次の世界へと昇っていった」。

解説
悟りの段階についてはこちら、欲界やブラフマー界などの存在界についてはこちら、をご参照ください。

DhP.219

cirappavāsiṁ purisaṁ, 
長い間・留守 人が
dūrato sotthim āgataṁ; 
遠くから 無事に 戻ったら
ñātimittā suhajjā ca, 
親族・友 友好関係 と
abhinandanti āgataṁ.
とても・喜ぶ 戻った人を

長く留守にしていた人が
遠くから無事に帰ってきたら
家族や友人たちはとても喜ぶ

解説
DhP.220に続く

DhP.220

tatheva katapuññam pi, 
そのように なされた・功徳 も
asmā lokā paraṁ gataṁ; 
この 世から 他に 行った人を
puññāni paṭigaṇhanti, 
功徳が 迎えてくれる
piyaṁ ñātīva āgataṁ.
好きな 親族の・ように 戻る

積んだ功徳も同様に
この世から来世に行った時に
まるで家族のように
功徳が迎えてくれる。

解説
たとえ今、自分に何もなくても、罪を犯さないと決めただけで、立派な人なのです。罪を犯さないということは、それ自体が善行為です。心が清らかである限り、すべての行為は善行為になります。これが最高の功徳です。その善行の結果が、来世を決めるのです。

Piyavaggo soḷasamo niṭṭhito.
好き・章 16番目の 終わり

ダンマパダ16章「好き」了

まとめ

好きなものへの執着は、心の成長を妨げる最も深刻な障害の1つです。

楽しいものや経験そのものが、心の成長を妨げるのではありません。それらに対して感情移入してしまう利己的な執着が問題なのです。自分の周りに楽しいものや人がいることに無意識のうちに依存して、不快なことが起こると苦しみを感じて対応できなくなるからです。

人生をありのままに見る人は、快が不快を含んでいることを理解しています。楽しいことと不快なことは別々ではなく、両側面なのです。

こんなエピソードがあります。

2人の修行僧が川を渡ろうとしたときのことです。川の前で渡れずに困っている若い女性がいました。修行僧の1人がサッと彼女を担いで渡り、向こう岸に寝かせました。もう1人の修行僧は、友人のしたことが気になり、その後、何も話せなくなりました。そしてついに口を開き「修行僧は女性に触れることさえできないはずだ。あなたは何をしたのか?」と問いました。すると友人は「私はあの女を土手に置いてきた。あなたはまだ彼女を抱いている」と言い返しました。