ダンマパダ17章 221〜234

Kodha-vaggo 憤怒の章

ダンマパダ17章は、kodha憤怒」がテーマです。

kodha(コーダ)は「dosa(ドーサ)怒り」の1種で、「カッ!と怒ってすぐ収まる怒り」です。「vera(ヴェラ)恨み」は敵に対して抱く怒りですが、kodha は敵ではない人、つまり自分の子供や家族、友達などに対して、カッとなって強く怒ることです。

DhP.221

kodhaṁ jahe vippajaheyya mānaṁ, 
憤怒を 捨て 自然に・捨てるように 慢心を
saṁyojanaṁ sabbam atikkameyya;
束縛を すべてを 克服するように
taṁ nāmarūpasmiṁ asajjamānaṁ,
それに 心と身体に ない・執着が
akiñcanaṁ nānupatanti dukkhā.
無所有に ない・伴う 苦しみは

怒りを捨て思い上がりを捨て
すべての束縛を克服するように。
心にも身体にも
「私のもの」というこだわりが
なければ苦しみはない。

解説
māna慢心・自負心のこと。憤怒する時、相手に対して自分の方が正しいという思い上がりが必ずあります。相手を見くびっているから憤怒できるのです。会社の上司や、怖い先輩に憤怒することはありません。

自分を重要視するとき、そこには自惚れがあります。自惚れる心は他人と自分を比較します。そして自分が他の誰かより優れている、同等である、あるいは劣っていると比べるのです。自分が他の誰かよりも優れていると思うときだけ自惚れがあるわけではありません。どんな形でも、他の誰かと自分を比較して、自分を重要視することが、自惚れなのです。

だから怒りだけを捨てるのではなく、他と比べて自らを過剰に評価する自負心も捨てなければなりません。

すべての怒りは「私のもの(考え・物質)」を侵害されたという思い込みに対する抵抗です。自分の心と身体に固執していることに気づいて、それを捨てなさい、という教えです。最終的には、「saṁyojanaṁ:人間を輪廻転生に縛り付ける10の束縛」を手放せば、苦しくなるような思いはなくなります。

DhP.222

yo ve uppatitaṁ kodhaṁ, 
人は 実に 飛び上がる 憤怒を
rathaṁ bhantaṁ va dhāraye;
車を 迷走する ように 保持する
tam ahaṁ sārathiṁ brūmi, 
彼を 私は 調御者と 呼ぶ
rasmiggāho itaro jano.
手綱を・持つ 他の 人は

暴走車を制御するように
湧き上がる怒りを抑える人
そんな人を私は御者と呼ぶ
他の人は
手綱を持っているだけだ。

解説
怒りが現れた瞬間に理性がなくなり、心の主導権は怒りに渡ります。爆発した怒りが発する言葉や行為は、相手と自分を破壊するまで拡大します。怒りの爆発は、エネルギッシュで爽快なので快感なのです。これが心の本能です。しかし全くの他人では反論されたり、殴り返してくるかもしれません。それは怖いのです。だからこのKodha憤怒」の怒りは、身内に向けられるのです。

DhP.223

akkodhena jine kodhaṁ, 
ない・憤怒によって 制する 憤怒を
asādhuṁ sādhunā jine; 
ない・善を 善によって 制する
jine kadariyaṁ dānena, 
制する 強欲を 施しによって
saccena alikavādinaṁ.
真実によって 虚偽・話者に

怒らないことで怒りを制する
善意で悪意を制する
与えることでケチを制する
真実で嘘つきを制する。

解説
怒りに怒りで返すのは簡単ですが、互いに怒り合戦になって炎が大きく燃えあがり、怒りはなかなか消えません。しかし、相手がどんなに悪くても、自分だけは怒らないで落ち着いていれば、自分の心に火がつきません。相手も怒りを受けないので、そのうち怒りの炎が燃え尽きます。他者の怒りに油を注がないだけでも善行です。

怒りに対して、反応して怒ってしまえば、自分の意志を持って悪い行為を生み出すことになり、その結果は自分に戻ってくることになります。

この時、優しい心で相手に助けの手を出せば、相手の悪意は消えます。与えることで怒りを消すことができるのです。また、をついて自分を守るのではなく、事実を語ることで自分の身を守ることができるのです。これが真理です。

DhP.224

saccaṁ bhaṇe na kujjheyya, 
真実を 私は言う ない 怒るように
dajjāppasmim pi yācito; 
与える・少し でも 求めには
etehi tīhi ṭhānehi, 
これ 3つの 理由で
gacche devāna’ santike.
行くだろう 神々の 近くに

真実を語る。
怒らない。
求められたら少しでも与える。
この3つで人間は天界に行ける。

エピソード
ある日、長老モッガラーナは神通力を使って天界を訪れました。天上人たちの豪華な暮らしぶりを見て「前世でどんな善行をしたら、こんな幸せな状態に生まれ変われるのか」と尋ねました。ある神は「いつも真実を語っていたからこそ、神として生まれ変わった」、ある女神は「自分は主人に殴られたり虐待されたりしても、決して怒らず憎まない使用人だった」、またある神は「果物や野菜を少し、僧侶や困っている人に与えた」と答えました。

人間界に戻ったモッガラーナはブッダに尋ねました。「真実を語ったり、行動を抑制したり、些細なものを少量与えるだけで、これほど大きな利益を得ることができるのか」と。するとブッダはこう答えました。「あなたは自分の目で見て、天上人たちが言ったことを聞かなかったのですか? あなたは何の疑いも持つべきではない。小さな功徳が、人を確実に天界へと導くのです」

解説
長老モッガラーナは、ブッダの十大弟子の1人です。神通力の達人だったので、天上界へも遊びに行けたようです。善行は3つのうちの1つだけでOKのようですが、1つとして完璧にはできないものです。

DhP.225

ahiṁsakā ye munayo, 
ない・傷つける 彼らは 聖人は
niccaṁ kāyena saṁvutā; 
常に 身体によって 抑制
te yanti accutaṁ ṭhānaṁ, 
彼らは 行く 不死の 場所に
yattha gantvā na socare.
そこに 至ると ない 憂う

自分の行動を常に
コントロールできる賢者は
他人を害することがない。
不死の境地に至っていて
そこには悩みがない。

解説
もし、少しでも心に怒りが湧いてきたら、何もしないのが一番です。怒りの心で話したり行動したりすると、すべてがうまくいかないからです。そのようなときは、すべての行動を止めて、心を落ち着かせるのが安全です。

DhP.226

sadā jāgaramānānaṁ, 
常に 目覚めた・心で
ahorattānusikkhinaṁ; 
日夜・学んでいる
nibbānaṁ adhimuttānaṁ, 
存在の消滅に 心を向けた
atthaṁ gacchanti āsavā.
消失に 行く 汚れは

常に注意して気づき
昼も夜も学んで
心を涅槃に向ける人は
心の汚れが消えていく。

解説
心の汚れは絶えず湧き出るものです。昼も夜もなく、心は常に汚れ続けています。これを取り除く修行は、瞬間瞬間の心を常に観察して、汚れが出たことに気づくことです。気づいた瞬間に、怒りが止まって消えるからです。

涅槃に向けて一心にこれを続けると、思い込みがなくなり、全ての現象は無常であること、実体がないことを発見できます。これが智慧です。智慧が現れたら「執着するに値する現象は何一つない」と正しく理解できます。この理解によって心から、執着する気持ち(渇望)と汚れた感情(悪意)が全て消滅します。これが涅槃に到達した状態です。

DhP.227

porāṇam etaṁ Atula, 
昔から これは アトゥラよ
netaṁ ajjatanām iva; 
ない・これは 現在に 如く
nindanti tuṇhim āsīnaṁ, 
非難する 沈黙して 坐る人を
nindanti bahubhāṇinaṁ;
非難する 多くを・語る人を
mitabhāṇinam pi nindanti, 
節量を・語る人を さえ 非難する
natthi loke anindito.
ない この世に ない・非難されない人は

アトゥラよ
これは昔からあることで
今に限ったことではない。
黙って坐っていれば非難され
たくさん話せば非難され
適度に話しても非難される。
この世で非難されない人はいない。

エピソード
アトゥラという男がいました。ある時、彼と友人たちはダンマの教えを聞きたいと思い、レヴァタ尊者を訪ねました。しかし尊者は瞑想中で黙ったまま、何も教えてくれませんでした。彼らは落胆して、次にサーリプッタ尊者を訪ねました。サーリプッタは長々とアビダンマを説き、彼らには到底理解できない深遠な教えを多く語りました。さっぱり意味がわからなかった彼らは、次にアーナンダ尊者のところへ行き、簡単に教えてくれるように頼みました。アーナンダは基本的な教えを簡潔に説明しましたが、今度は有り難みがなく不満でした。

アトゥラたちはブッダに会いに行き、レヴァタは何も話さない、サーリプッタは話しすぎ、アーナンダは少なすぎ、と文句を言いました。ブッダは、この詩句と続くDhP.228、229、230で答えて「昔も今も、この世で非難されない人はいない。王様でさえも非難される。愚か者に非難されたり、賞賛されたりすることは、何の意味もない。人は、賢者に非難されて初めて真に非難され、賢者に賞賛されて初めて真に賞賛されるのだ」と叱りました。

解説
アトゥラを馬鹿だと笑えますか? 私たちも同じではないでしょうか? 難しい仕事を頼まれたら「エッ、そんなのできない」と思い、簡単な仕事を頼まれたら「エッ、雑用係じゃないのに、馬鹿にして」と思い、何も言われなければ「エッ、外された…」と思うことはないでしょうか?

私たちは何を言われても、言われなくても、どっちみち嫌なのです。反発する癖が心に染みついているのです。その嫌悪感を、身体で表現すれば暴力、言葉で表現すれば暴言、いずれにせよ心は嫌悪の怒りで汚れるのです。

DhP.228

na cāhu na ca bhavissati, 
ない また・ある ない また 存在だろう
na cetarahi vijjati; 
ない また・現在 見出される
ekantaṁ nindito poso, 
ずっと 非難される 人は
ekantaṁ vā pasaṁsito.
ずっと あるいは 賞賛される

ずっと非難されている人や
ずっと賞賛されている人は
過去にも未来にも
現在にもいない。

解説
どんなに優れた人でも、必ず非難されることがあります。ずっと賞賛され続けることは不可能です。逆に愚かな人が、ずっと非難され続けることも不可能です。あらゆる存在は不完全で、完璧に非難される人も、完璧に賞賛される人もいません。過去も現在も、未来もそうです。

だから他者の行動を見て、欠点があると思うのは当然なのです。問題なのは、その時「自分が正しい。相手は間違っている」と思うことです。他者が不完全なのと同じく、自分も例外なく不完全です。だからお互いに心配しあって、人格向上に協力すればいいのです。他者の欠点は自分に見えて、自分の欠点は他者に見えるのだから、仲良く教えあって成長すればいいのです。

DhP.229

yañ ce viññū pasaṁsanti, 
人を もし 有智者が 賞賛するなら
anuvicca suve suve; 
了知して 明日 明日
acchiddavuttiṁ medhāviṁ, 
ない・欠陥・行動に 賢き
paññāsīlasamāhitaṁ,
智慧・道徳・定着した

もし賢者たちが
日々よく認めて
賞賛するような人なら
聡明で智慧と道徳心が備わり
その行動に欠点はない。

解説
無知な人、心が汚れた人から非難されたり賞賛されても、それはその人の色がついた感想であって真実ではありません。だから気にする必要もありません。しかし、ブッダのように悟った賢人の非難や賞賛は、偏見のない事実です。賢人が賞賛するような人ならば、非難されるような欠点はありません。

DhP.230

nekkhaṁ jambonadasseva, 
金 ジャンブー川の・ような
ko taṁ ninditum arahati; 
誰が 彼を 非難に 値する
devā pi naṁ pasaṁsanti, 
神々 も 彼を 賞賛する
brahmunā pi pasaṁsito.
梵天 さえ 賞賛する

ジャンブー川の
金塊のような人を
非難するに値する人が
いるだろうか?
神々も彼を賞賛し
梵天さえも賞賛する。

解説
ブッダのような賢人に賞賛される人は、まるで金塊のように誰からも賞賛されます。

DhP.231

kāyappakopaṁ rakkheyya, 
身体の・興奮を 守るように
kāyena saṁvuto siyā; 
身体によって 制御される あるように
kāyaduccaritaṁ hitvā, 
身体の・悪行を 捨てて
kāyena sucaritaṁ care.
身体によって・善行を 行うように

身体の興奮を抑えて
コントロールするように。
悪い行動をやめて
よい行動をしなさい。

エピソード
木下駄を履き、両手に杖を持った6人の不良僧侶が大きな石板の上を行ったり来たりして、大きな音を立て瞑想を邪魔していました。その音を聞いたブッダが、アーナンダに何事かと尋ねると、アーナンダは6人の不良僧侶が、戒律を都合よく解釈してくぐり抜けることを楽しんでいることを話しました。ブッダは、僧侶が木下駄を履くことと、老齢者や病人以外は杖を持つことを禁止しました。さらに言葉と行動の両面で自制するよう、この詩句とDhP.232、233、234で諭しました。

解説
ブッダはそれまで、戒律は常識で守るものだと思っていました。法律のように禁止項目を定めると、精神的な自由がなくなり、修行の妨げになるからです。戒律事項は最小限に留めたかったのです。しかしこの6人の不良僧侶が、戒律を都合よく解釈し始めたので、出家者には完全な戒律制度を設けることになりました。

DhP.232

vacīpakopaṁ rakkheyya, 
言葉の・興奮を 守るように
vācāya saṁvuto siyā; 
言葉によって 制御され あるように
vacīduccaritaṁ hitvā, 
言葉の・悪行を 捨てて
vācāya sucaritaṁ care.
言葉によって・善行を 行うように

言葉の興奮を抑えて
コントロールするように。
悪い言葉をやめて
良い言葉を使いなさい。

解説
怒りに任せて暴言を吐いたり、悪口を言うのではなく、怒りで言葉が興奮しそうになっても、グッと守って、自分の口から発する言葉をコントロールしなさい、ということです。

DhP.233

manopakopaṁ rakkheyya, 
心の・興奮を 守るように
manasā saṁvuto siyā; 
心によって 制御され あるように
manoduccaritaṁ hitvā, 
の・悪行を 捨てて
manasā sucaritaṁ care.
によって・善行を 行うように

心の興奮を抑えて
コントロールするように。
悪いことを考えずに
良いことを考えなさい。

解説
身体の暴力言葉の暴力がいけないのはわかりやすいですが、心で思うことも同じです。殴ったり蹴ったり、暴言を吐いたりしなくても、心の中で馬鹿にしたり、死んでしまえと思えば、それは同じように悪い行為になります。心の汚れとして、身体や言葉の行為と同じく蓄積されます。

DhP.234

kāyena saṁvutā dhīrā, 
身体によって 制御される 賢者は
atho vācāya saṁvutā; 
また 言葉によって 制御される
manasā saṁvutā dhīrā, 
心によって 制御される 賢者は
te ve suparisaṁvutā.
彼らは 実に よく・完全・制御される

賢人たちは
身体の行為、言葉の行為
心の行為を制御している。
徹底的に完全に
コントロールしている。

解説
私たちの行為は3種類あります。身体の行為言葉の行為心の行為です。良い行いも悪い行いも、この3つの場所(身体・口・心)で行います。ですから、悪い行いをしないためにも、良い行いをするためにも、私たちはその3つの場所に注意を払う必要があります。

私たちは、自分の外側に注意を向けることには慣れていますが、自分自身に注意を向けることはなかなか難しいものです。だからそれらをコントロールできるようにするためには、訓練が必要です。

まず最初は、身体の行為に注意を向ける訓練から始めます。目で見て気づくことができるので、これが一番簡単です。

次に、自分の話す言葉に注意を向けます。普段、私たちは自分が何を言っているのか、客観的に聞いていません。ただ、好きなように話しているだけです。これからは自分の話す言葉をよく聞いて、悪いことは言わないように訓練します。

最後のステップは、心に注意を払うことです。これが一番難しいのですが、すべての行動は心から始まります。言葉や身体的な行為を改善するためにも、心に注意を払い、心を観察することが必要です。

ダンマパダ17章「憤怒」了