ダンマパダ18章 235〜255

Mala-vaggo 垢の章

ダンマパダ18章は、Mala(あか)」がテーマです。

ダンマパダのこれまでの章に度々登場したMāra(マーラ・煩悩の化身)と似ていますが、mala(マラ)は垢・不純物・汚れといった意味です。「āsava(アーサヴァ)心の穢れ」「kilesa(キレーサ)煩悩」と同義語です。

心の汚れとは何でしょう?

強欲・憎悪・無知です。

心に強い欲や憎悪が浮かぶと、その汚れがのように、心に蓄積されていきます。私たちの心には、生まれる以前の大昔から、ずっと溜め続けてきた垢がたくさんこびりついているそうです。

もし私たちが自分の心から垢を取り除くことを何もしなければ、垢が増える習慣はより強くなっていくでしょう。やがてその癖は私たちの意志を上回り、次第に活力と健康が失われていきます。だから垢を落とさなくてはならないのです。

DhP.235

paṇḍupalāso va dānisi, 
枯れ葉の ように 今や
yamapurisā pi ca taṁ upaṭṭhitā; 
死王・人 さえ そして あなたを 待つ
uyyogamukhe ca tiṭṭhasi, 
出発・入口 そして 滞在
pātheyyam pi ca te na vijjati.
旅支度 さえも しかし あなたは ない 見出す

あなたは今や枯れ葉のようだ
死王の使者たちが
あなたを待ち構えている。
死へ旅立つというのに
あなたは何の
旅支度もしていない。

エピソード
サーバティに住む年老いた肉屋は、毎日、牛肉のカレーを食べていました。ある日、彼はその日に食べる肉を置いて風呂に入りました。ところがその間に、妻がその肉を売ってしまったのです。肉屋が戻ってきて、肉がないことに気づき、憤怒しました。

庭につないである牛のところに行き、肉屋は牛の舌を切り落としました。妻にそれを渡し、カレーを用意させました。肉屋はカレーを食べ始め、牛舌を噛もうとして、自分の舌を噛み切り、大変な痛みと苦しみの中、死んでしまいました。

肉屋の息子は、この悪事が自分にも降りかかるのではないかと恐れ、家を出てタクシラで暮らし始めました。その後、金細工師になり、結婚して子供もできました。年月が経ち、年老いた彼とその家族は、サーヴァッティに戻ることになりました。子供たちはブッダの信者でしたが、彼はそうではありませんでした。子供たちは父を心配して、ある日、ブッダと僧侶たちを食事に招きました。食事の後、子供たちはブッダに「このお布施は父の代わりにするものです」と伝えました。彼らはブッダに、老父に説法をしてほしいと頼みました。それに答えてブッダは、DhP.235、236、237、238で、老人を導きました。

DhP.236

so karohi dīpam attano, 
彼は  作れ 避難所を 自分の
khippaṁ vāyama paṇḍito bhava; 
急いで 努力せよ 賢く あれ
niddhantamalo anaṅgaṇo, 
除いた・を ない・穢れの人は
dibbaṁ ariyabhūmim ehisi.
天の 聖なる・地に 行くだろう

急いで努力して賢くなり
自分の支えを作りなさい
心の垢を落とした
穢れのない人は
高貴な天界に行けるだろう。

解説
ブッダは、死ぬ間際の人に「もうすぐ死ぬのに、何の準備もしていない」と叱りました。「今すぐ努力しなさい、心の汚れを落としなさい」と、諭したのです。

DhP.237

upanītavayo ca dānisi, 
もたらされる・衰に そして 今や
sampayātosi yamassa santike; 
去っていく 死王の 近くに
vāso pi ca te natthi antarā, 
住い も と あなたに ない その間に
pātheyyam pi ca te na vijjati.
旅支度 さえも しかし あなたは ない 見出す

あなたは今や
人生の終盤を迎え
死に近づいている。
途中で休めないのに
あなたは何の
旅支度もしていない。

解説
老親が臨終を迎えるとき、私たちはどうするでしょう? 「もうすぐ死ぬんだから、心をきれいにした方がいい」と言えるでしょうか? 何となくその場を誤魔化してしまうのでは? 「食べたいものない?」と欲を煽るかもしれません。あるいは「大丈夫」と嘘をつき、「がんばって」と輪廻を推奨してしまうかもしれません。世間の常識は、ブッダの非常識なのです。

DhP.238

so karohi dīpam attano, 
彼は  作れ 避難所を 自分の
khippaṁ vāyama paṇḍito bhava; 
急いで 努力せよ 賢く あれ
niddhantamalo anaṅgaṇo, 
除いた・垢を ない・穢れの人は
na punaṁ jātijaraṁ upehisi.
ない 再び 生・老に 近づくだろう

急いで努力して賢くなり
自分の支えを作りなさい
心の垢を落とした
穢れのない人は
もう生まれ変わらないし
老いることもない。

解説
死の直前でも悟ることはできます。最期まで諦めてはいけません。

DhP.239

anupubbena medhāvī,
徐々に 賢い人は
thokathokaṁ khaṇe khaṇe; 
少し・少し 瞬間 瞬間
kammāro rajatasseva, 
鍛冶屋は 銀の・ように
niddhame malam attano.
除く 垢を・ように

賢い人は徐々に少しずつ
その瞬間瞬間に
まるで鍛冶屋が
銀の不純物を除くように
心の垢を取り除く。

解説
銀は、鉱石から多くの不純物を取り除いて、やっと純銀になります。きれいに磨いても、磨くのを怠ると、自然に酸化して黒くなります。鍛冶屋が銀を磨くように、毎日磨いて不純物を取り除かなければならないのです。

心の汚れを取り除くには、常に自分の行為(身体・言葉・心)に気づき、その都度その都度、省みて汚さないように気をつけるしかありません。

DhP.240

ayasā va malaṁ samuṭṭhitaṁ, 
鉄 ように 汚れ(錆)は 生起する
taduṭṭhāya tam eva khādati; 
その時に・生じて それを まさに 食べる
evaṁ atidhonacārinaṁこのように 罪垢を・歩む
sakakammāni nayanti duggatiṁ.
自分の・行為が 導く 悪趣に

錆が鉄を侵食するように
その瞬間に汚れは生じて
まさに心を侵食する。
道を踏み外す人は
自分の行為が不幸に導く。

エピソード
老僧ティッサは、姉が粗布を紡ぎ直した布で仕立てた立派な僧衣をもらい、とても喜んでいました。次の日から着るつもりでしたが、その日の夜、ティッサは死んでしまいました。僧衣を着ることができない無念のまま死んだティッサは、シラミに生まれ変わり、愛着があった衣の中で暮らしていました。

ティッサの新しい僧衣は受け継ぐ僧侶がいなかったので、バラして布に戻すことになりました。すると虫はとても怒り、「私の衣を壊している!」と叫びました。その波動を感じ取ったブッダは、僧侶たちに7日間、衣をそのままにしておくように言いました。

その後、虫は死に、ティッサは以前の善行のおかげで天界に生まれ変わりました。8日目、ティッサの僧衣は兄弟姉妹が形見として分け合いました。

僧侶たちは、なぜブッダが7日待つように言ったのか尋ねました。ブッダは「ティッサは死ぬ時にこの特別な衣に心を奪われた。もし、虫が生きている間に衣を使えば、虫は憎しみや怒りを感じて、悲惨な存在界に生まれ変わっていただろう」と僧侶たちに説明しました。さらにブッダは「僧侶は物事に心を奪われ、深入りしてはいけない。錆が鉄を腐食させるように、執着は人を破滅させ、人を下界に送ることになる。僧侶は特に4つの必需品(衣食住薬)に執着してはいけない」と、この詩句を語りました。

解説
身から出た錆」ということわざの通りです。それは外からくるのではなく、自分自身の心から発生します。(汚れ)は、鉄が酸素や水と結合して、鉄自体から発生します。外から錆が飛んできてくっつくわけではありません。

心も同じです。他者の行為で汚されるのではなく、自分自身で汚しているのです。嫌いだと思うたびに心は嫌悪に染まり、好きだと思うたびに執着に染まります。そしてそれを望むことで、苦しみとなって心にこびりつくのです。だからこびりつかないうちに、その時その時に気づいて早めに取り除いた方がいいのです。

DhP.241

asajjhāyamalā mantā,
無学習・汚れ 聖典の
anuṭṭhānamalā gharā;
無努力・汚れ 家の
malaṁ vaṇṇassa kosajjaṁ, 
汚れ 容姿の 不精は
pamādo rakkhato malaṁ.
不注意は 守護者 汚れ

不勉強は学問の汚点
不手入れは家の汚点
不精は容姿の汚点
不注意は心の番人の汚点。

解説
家の汚れも、不名誉な汚点も、お肌の汚れも、心の汚れも、汚れはあちこちに発生します。常に気づいて取り除くようにしないと、汚れの上に汚れが積み重なって、蓄積されていきます。

DhP.242

malitthiyā duccaritaṁ,
汚れ・女たちの 誤った行為
maccheraṁ dadato malaṁ; 
物惜しみは 施しの 汚れ
malā ve pāpakā dhammā, 
汚れ まさに 邪悪な
asmiṁ loke paramhi ca.
この 世界 他の または

性的過ちは女性の汚点
ケチは施者の汚点
邪悪なものは
この世でもあの世でも汚点。

エピソード
ある男の妻が不倫をしました。彼は妻の不品行を恥じて誰にも会わず、ブッダにも近づきませんでした。しばらくして、やっと彼はブッダに会いに行きました。ブッダは、しばらく来なかったのはどうしてかと尋ね、彼は全てを打ち明けました。するとブッダは「そのような女は川や道、酒場や休憩所、道端の水飲み場のようなもので、誰とでも付き合い、誰からも感謝されない。性的悪行は女性にとって破滅の原因だ」と言いました。

解説
女性だけが性的過ちを犯してはいけないのか、と思うかもしれませんが、男性ならいいということではありません。誤った性行為によって最終的に傷つくのは女性だからです。子供や家族のために、献身的に見返りもなく貢献している女性たちは、自然に自分自身を制御できる恵まれた存在です。だからこそ、性的過ちを犯すことは大きな汚点になります。

DhP.243

tato malā malataraṁ, 
それより 汚れ 汚れ・度越
avijjā paramaṁ malaṁ; 
無智は 最上の 汚れ 
etaṁ malaṁ pahatvāna, 
この 汚れを 捨てなさい
nimmalā hotha bhikkhavo.
無垢に なりなさい 修行者は

これよりひどい汚れが
「無智」最大の汚れ。
修行者は
この垢を取り除いて
無垢になりなさい。

解説
DhP.242の続きです。無智(avijjā アヴィッジャー)とは、真理に対する無知のことで、見えていない・知らない、智慧が現れていない状態です。仏教用語では無明といいます。

あらゆる知識は、頭で理解しただけでは単なる知恵でしかなく、知恵を自分の経験によって、実体験して実感し、自分のものにすることで智慧となります。知恵はあっても、この智慧が見えていない状態が avijjā です。

全ての汚れは「無知無智」から起きます。無知moha)は知恵すらない状態で、無智avijjā)は知恵はあっても自分の体験として昇華できていない状態です。智慧がなければ「生きることそのものが、苦しみである。全ての現象は無常で、実体はない。執着に値しない」という真実を理解できません。真の現実を知らないからこそ、人は悪行を繰り返すのです。この根本の無知を破壊できた人は「無垢」になります。これが涅槃nibbāna ニッバーナ)です。

DhP.244

sujīvaṁ ahirikena, 
生きやすい 恥知らず
kākasūrena dhaṁsinā; 
カラスのように・図太い 厚顔
pakkhandinā pagabbhena, 
突撃 大胆な
saṅkiliṭṭhena jīvitaṁ.
汚された 生命は

恥知らずは生き易い。
カラスのように
図太く厚かましく
大胆で攻撃的で
垢にまみれた人生は楽だ。

解説
厚顔無恥
な人は、他人の迷惑など考えずに自分勝手に行動します。厚かましくて、恥知らずなので、他者のことは気にせず、大胆に突撃します。自分の行動が、他者や自分にどんな苦しみや痛みをもたらすかを考えません。ただ、自分の感情に任せて生きるその人生は、とても楽なのです。

DhP.245

hirīmatā ca dujjīvaṁ, 
恥・知る 生き難い
niccaṁ sucigavesinā; 
常に 清らかさを・求め
alīnenāpagabbhena, 
無・下劣・無・大胆
suddhājīvena passatā.
清い生き方は 見る人の

恥を知る人生は生き難い。
常に清らかさを求め
誠実で謙虚に
清い生き方を見極める
人生はむずかしい。

解説
他者が嫌がることをしないようにしよう、いつも善行をしようと考えている人は、本当に難しい人生を送っています。常に自分の行動を意識し、自分の行為や思考、言葉に気を配り、反省する。もし、ブッダのような道を歩みたいのであれば、難しい人生に最善を尽くさなければなりません。

DhP.246

yo pāṇam atipāteti, 
人は 生物を 殺す
musāvādañ ca bhāsati; 
妄語を そして 言う
loke adinnaṁ ādiyati, 
世界で ない・与えられて 取る
paradārañ ca gacchati,
他の・女に また 行く

生き物を殺す
偽りを話す
与えられていないものを取る
他の女の所に行く

エピソード
当時、在家修行者の5人が、守らなければならない5つの戒律のうち、それぞれが1つずつ特定の戒律だけを守っていました。そして各々が、自分が守っている戒律が最も難しいと主張しました。そんな彼らを見てブッダは、「個々の戒律を簡単だとか重要でないとか考えてはいけない。戒律の一つ一つを厳守しなければならない。どの戒律も守るのが簡単ではないのだから」と戒めました。

解説
次の詩句に続く。DhP.246〜248は、ブッダが在家者にも守るよう勧めた5つの戒律「五戒」です。

DhP.247

surāmerayapānañ ca,
穀物酒・果実酒・飲物 また 
yo naro anuyuñjati; 
人は 人 従事する
idhevam-eso lokasmiṁ, 
ここで・まさに・それは 世に・存在
mūlaṁ khanati attano.
根を 掘る 自分の

穀物酒や果実酒を飲む。
これらを実行する人は
この人生で自分の
墓穴を掘ることになる。

解説
飲酒は、五戒の中でも一番重要な戒めです。酔うことで感覚が狂って正常な判断ができなくなり、残りの4つの戒律を簡単に破ってしまうからです。戒律を守り、道徳的な生活を送ることはとても難しいことですが、修行者にとっては覚醒するための基本です。これができていないと、どんなに修行しても涅槃は得られません。だからこそ、ブッダはこの詩句で「禁酒を実行しなければ、自分の根を掘ることになる」と警告しています。

DhP.248

evaṁ bho purisa jānāhi,
このように 君よ 人 知りなさい 
pāpadhammā asaññatā; 
悪い・習慣 無・制御の
mā taṁ lobho adhammo ca, 
なかれ あなたに 貪欲 非法が また
ciraṁ dukkhāya randhayuṁ.
長く 苦しむ  過失によって

みなさん
このように勝手放題の
悪い習慣を理解しなさい
欲張ったり
不正はしないように。
過ちによって長く苦しむのは
あなた自身だ。

解説
戒律を破ることは非常に簡単です。自制心を失うことも簡単です。いったん自制心を失うと、元の状態に戻し、再び覚醒への道を歩み始めるのは非常に困難です。そのため長期に渡って苦しむことになります。

DhP.249

dadāti ve yathāsaddhaṁ, 
施す  実に 従って・信頼に
yathāpasādanaṁ jano; 
従って・浄心に 人は
tattha yo maṅku bhavati, 
そこで  彼は 不満 ある
paresaṁ pānabhojane;
他人の 飲物・食物に
na so divā vā rattiṁ vā, 
ない 彼は 昼 も 夜 も
samādhiṁ adhigacchati.
精神統一に 到達し

人は信頼と清らかな心に
従って施しをする。
その飲食に不満がある人は
昼も夜も精神統一できない。

エピソード
若い修行僧ティッサは、いつも他人の善行を批判していました。僧院を支えてくれる寄付者の慈善事業までも批判していました。また、自分の両親は非常に裕福で、誰でも自分の両親のところに行けば、何でも買ってもらえると自慢していました。

何人かの僧侶が、この話が本当かどうか確かめることにしました。彼らがティッサの村に行ってみると、ティッサの両親は貧しく、ティッサは嘘の自慢話をしているだけであることがわかりました。彼らは戻ってブッダに報告しました。ブッダはこの詩句とDhP.250で、若い修行僧を叱りました。

DhP.250

yassa cetaṁ samucchinnaṁ, 
人は しかし・これ 断ち切り
mūlaghaccaṁ samūhataṁ; 
根絶し 除去する 
sa ve divā vā rattiṁ vā, 
彼は 実に 昼 も 夜 も
samādhiṁ adhigacchati.
精神統一に 到達し

しかしこれを断ち切り
根こそぎ取り除いた人は
昼も夜も精神統一できる。

解説
不満
は、心が乱れる大きな原因の1つです。他人のすることに不満があっては、心の安穏は得られません。不満を完全に解消したとき、心は安穏を得て、集中して覚醒への道を歩み始めることができるのです。他者への不平不満は、自分がやるべきことから心を逸らす逃避です。

DhP.251

natthi rāgasamo aggi, 
ない 欲・ほどの 火は
natthi dosasamo gaho; 
ない 怒り・ほどの 掌握は
natthi mohasamaṁ jālaṁ, 
ない 妄想・ほどの 網は
natthi taṇhāsamā nadī.
ない 渇望・ほどの 川は

欲ほどの炎はない
怒りほどの捉われはない
無知ほどの網はない
渇望ほどの川はない。

解説
ブッダの教えの超基本重要フレーズです。欲望(lobha)、怒り(dosa)、無知妄想(moha)が、人がダンマを得るのを妨げる3つの煩悩です。

心に情欲などの欲望が起きると、のエネルギーが発生します。ムラムラするのも、ポーッと赤くなるのも、この火のエネルギーによるものです。怒りなどの嫌悪が起きると、心が捉われてコントロールできなくなります。ずっとそのことばかり考えてしまいます。

無知で物事の真の側面に気づくことができなければ、心はで覆われて、正しい判断ができません。偏見による価値判断=妄想を根拠に行動し、苦しむことになります。渇望(Taṇhā)は「なんとしてもそうしたい」という強い望みです。最終的には渇望が生命のエネルギー源となり、川のように流れて輪廻転生します。

DhP.252

sudassaṁ vajjam aññesaṁ, 
易い・見る 過失は 他者の  
attano pana duddasaṁ; 
自分の しかし 難い・見る
paresaṁ hi so vajjāni, 
他の 実に 彼は 過失を
opunāti yathā bhusaṁ;
選り分ける ように 籾殻を
attano pana chādeti, 
自分の しかし 隠す
kaliṁ va kitavā saṭho.
サイコロ ように 詐欺師が ずるい

他人の欠点は見えやすいが
自分の欠点は見えにくい。
他人の欠点は
籾殻のように選り分ける。
しかし自分の欠点は
ペテン師のサイコロのように
誤魔化して隠す。

解説
他者の欠点は、すぐに気づいて気になるのに、なかなか自分の欠点には気づきません。どうしてでしょう? 人はみな、「私は正しい」と思っているからです。

自分の行動が明らかに間違っていると思いながら、行動することはありません。誰が見ても極悪なことであっても、自分の中では正当化して行動しています。また、悪いことだと薄々気づいていても、その方が自分に有利であれば、誤魔化して行動します。だから、常に「私は正しくやっている」と思っているのです。

この世の人々がみんな、お互いにそう思っています。他者から見れば過失でも、自分にとっては正しいのですから、自分の欠点には気づけないのです。

DhP.253

paravajjānupassissa, 
他の・過失を・見て
niccaṁ ujjhānasaññino; 
いつも 不満に・思う人は
āsavā tassa vaḍḍhanti, 
心の穢れは 彼の 増大
ārā so āsavakkhayā.
遠い 彼は 穢れ・滅尽

他人の欠点を見つけて
いつもイライラしている人は
心の穢れが増えるばかりで
穢れの滅尽から遠ざかる。

エピソード
いつも人の欠点を見つけては、すぐに怒り、悪口を言う僧侶に対して、ブッダはこの詩句を語りました。また、人の欠点を見つけることが良い場合もあると付け加えました。「誰かが悪さをしているのを見て、その人に良い方法を教えようとすることは、賞賛に値する。しかし悪意を持ってそれをすると、集中力が得られず、覚醒からどんどん遠ざかる」

解説
āsava
(心の穢れ)は mala(垢)の同義語です。

他人の過ちばかりが気になる性格の人は要注意です。心にいつもネガティブな思考が浮かび、他者の良い面が見えない状態です。何か過ちを見つけて批判して、相手に罪悪感を抱かせることで、自分が優位に立とうとする行為ですが、その本質は、自分が直視すべきことへの怖れから、自分の気を逸らして遠ざけるための行為です。

DhP.254

ākāse va padaṁ natthi, 
空に ように 足跡が ない
samaṇo natthi bāhire; 
沙門は ない 外部に
papañcābhiratā pajā, 
妄想・大いに喜ぶ 人々は
nippapañcā tathāgatā.
ない・妄想 タターガタには

空に道がないように
他に修行の道はない。
人々は大喜びで妄想するが
タターガタに妄想はない。

エピソード
ブッダはクシナーラーという町で亡くなりましたが、その頃、スバッダという修行僧がクシナーラーに滞在していました。彼は多くの宗教家のもとを訪れましたが、誰も彼の疑問を解決できませんでした。ブッダが亡くなる直前、スバッダはブッダにいくつかの質問をしました。(1)空に足跡はありますか? (2)ブッダの教え以外に聖人への修行法はありますか? ( 3)永遠に続く現象(サンカーラ)はありますか? ブッダはこの質問に、DhP.224と255で答えました。スバッダはブッダの最後の直弟子となり、後に覚醒しました。

解説
papañca(パパンチャ)」は、妄想する心の作用です。6つの感覚器官(眼・耳・鼻・舌・体・心)に、外部の情報(色・音・香・味・触・想)が触れると、それぞれの器官に認識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)が生じ、そこから「vedanā(ヴェーダナー)感受作用感覚」と「saññā(サンニャー)知覚作用知る」という作用が生まれます。

ところが人間はこの外部情報を、ありのままにインプットしません。自分に都合よく、ゴチャゴチャと感情を織り混ぜながら、妄想して捏造した情報をインプットするのです。この妄想の作用がパパンチャです。

私たちは「知っている」と思っていますが、事実をありのままに見ているわけではありません。外部情報に各自の印象をつけ加えて「捏造したものを知っている」に過ぎないのです。訓練しない限り、ありのままにインプットできない仕組みです。

tathāgata(タターガタ)」は、修行完成者(悟りの最終段階に到達し涅槃を実現した人=ブッダ)のことです。外部情報をありのままに受け止めて、nippapañcā(ニパパンチャ)妄想しない訓練を、完成させた人です。

どんな情報でも自分の印象を加えずに、そのままにインプットできるのです。誰に会っても何が起きても、好きとか嫌いとか感じずに、一切の偏見を持たずに、赤ちゃんが初めて接する時と同じように、純粋な心で接することができる人です。

DhP.255

ākāse va padaṁ natthi, 
空に ように 足跡が ない
samaṇo natthi bāhire; 
沙門は ない 外部に
saṅkhārā sassatā natthi, 
現象に 永遠 ない
natthi buddhānam iñjitaṁ.
ない 覚醒者たちに 動揺する

空に道がないように
他に修行の道はない。
永遠に続く現象はない
覚醒者たちの心に動揺はない。

解説
saṅkhārā
(サンカーラ)は、パパンチャで捏造した情報をもとに現れる「心の反応」です。私たちが認識する外部のあらゆる現象は、各自の心を通して見たイメージです。この反応は、瞬間瞬間に変化しています。

例えば、同じ花を見たつもりでも、Aさんの視点とBさんの視点は、似ていることはあっても完全一致はあり得ません。さらに、その場にいた犬の視点や虫の視点もあります。各自の心を通した花が、そこにイメージ=現象として一時的にあるだけです。その場を離れれば、花もなくなり、現象も消えます。「そこに花がある」というのは思い込みです。

実際に、ちょっと後ろを向いた隙に、花が切られてしまうかもしれないのです。同様に、この世のすべての事象が、私たちのイメージなのです。その場を共有する生き物の数だけイメージ=現象があり、それは各自の心の中で瞬間瞬間に変化しています。永遠に続く現象はないのです。

覚醒者たちは、この「永遠に続く現象はない」ということを自らの経験で実感し、体得できた人です。本当に理解できれば、何ものにも執着することはなくなり、心が揺れることはありません。ブッダの教えが真理であることを、自分の経験で発見したその時点で、ブッダの教えにすら頼る必要もなくなります。完全な自由を得て解放された人です。

私たちの人格は、さまざまな作用が連続して起こるプロセスに過ぎないのです。

ダンマパダ18章「垢」