Dhammaṭṭha ダンマに従う人の章
ダンマパダ19章は、Dhammaṭṭha「ダンマに従う人」がテーマです。
ダンマとは「真理」のことです。ブッダの教えでもありますが、ブッダがいてもいなくても、真理は自然の法則であり、宇宙の原則なので、変わることはありません。ダンマは確実な根拠によって、本当であると認められたことであり、 ありのまま誤りなく認識された事実のことです。 ゴータマ・ブッダはこの真実を、言語化してわかりやすく説いた人です。
DhP.256
na tena hoti dhammaṭṭho, ない それ故に ある ダンマに従う yenatthaṁ sahasā naye; そこから道理を 無理に 導く yo ca atthaṁ anatthañ ca, 人は しかし 道理を 不義 また ubho niccheyya paṇḍito, 両方を 決定 賢者は
強引な決断は
ダンマに従っていない。
賢明な人は
何が道理か何が不当か
その両方に基づいて決断する。
エピソード
修行僧たちが托鉢を終えて、サーヴァッティから戻ってきました。途中で大雨が降ってきたので、裁判所で雨宿りをしました。そこで修行僧たちは、裁判官が賄賂を受け取った後、とても素早く事件を解決しているのを目撃しました。修行僧たちはこのことをブッダ に報告し、ブッダはこの詩句と次のDhP.257を語りました。
DhP.257
asāhasena dhammena, ない・無理に ダンマによって samena nayatī pare; 正しさで 導く 他を dhammassa gutto medhāvī, ダンマの 守る 智慧者 "dhammaṭṭho" ti pavuccati. ダンマに従う人 と 呼ばれる
強引ではなく
ダンマによって
道理で他者を導き
ダンマを守る智慧者が
「ダンマに従う人」と呼ばれる。
解説
人を裁くのはとても簡単で、人の間違いや悪いところを指摘するのは簡単です。どんな人にでも必ず過ちがあり、この世に完璧な人は存在しないからです。だからこそ人を裁くときは、徹底的に考慮しなければなりません。あらゆる視点からの意見に耳を傾け、あらゆる角度から問題を見なければなりません。そうして初めて、真理に基づいて判断することができ、「道理にかなっている」ということができるのです。
DhP.258
na tena paṇḍito hoti, ない それ故に 賢い人 なる yāvatā bahu bhāsati; それだけで 多く 語る khemī averī abhayo, 安穏な ない・敵意 怖れない "paṇḍito" ti pavuccati. 賢者 と 呼ばれる
多くを語るだけでは
賢い人にはならない。
穏やかで、敵意がなく
怖れのない人が
「賢い人」と呼ばれる。
解説
おしゃべりは、単なる感情のはけ口でしかありません。主観をいくら語っても、他者には何も伝わりません。語るべきは客観的な事実のみです。
DhP.259
na tāvatā dhammadharo, ない それで ダンマ保持者 yāvatā bahu bhāsati; それだけで 多く 語る yo ca appam pi sutvāna, 人は しかし 少し しか 聞いた dhammaṁ kāyena passati; ダンマを 身体で 見る sa ve dhammadharo hoti, 彼は 実に ダンマ保持者 ある yo dhammaṁ nappamajjati. 人は ダンマに ない・怠惰
多く語るだけでは
ダンマの持ち主ではない。
少ししか聞かなくても
身体を通してダンマを観察し
ダンマを疎かにしない人こそ
ダンマの持ち主だ。
解説
ダンマを理解するには、量よりも質がはるかに重要です。たった一節しか覚えていなくても、それを完全に理解しているならば、ブッダの言葉をすべて覚えていて、その意味を理解していないことよりもはるかに優れています。
DhP.260
na tena thero hoti, ない それ故に 長老 なる yenassa palitaṁ siro; それをもって 白髪 頭 paripakko vayo tassa, 熟した 年代は 彼の "moghajiṇṇo" ti vuccati. 無用の・老い と 言われる
白髪頭だからといって
長老になれるわけではない。
ただ歳だけとった人は
「無駄に歳をとった人」
だと言える。
解説
長老・年長者とは、単に歳をとった老人ではありません。7歳の子供であっても悟りを得たアラハンは長老です。年齢を重ねた人ではなく、智慧を重ねた人なのです。
DhP.261
yamhi saccañ ca dhammo ca, 人に 真実 と ダンマ と ahiṁsā saṁyamo damo; 無害 自制心 訓練 sa ve vantamalo dhīro, 彼が 実に 汚れなき人 賢者は "thero" iti pavuccati. 長老 と 呼ばれる
真理と道理を理解し
非暴力で自制心があり
訓練して心の穢れのない
賢者だけが
「長老」と呼ばれる。
解説
4つの聖なる真理を理解し、他人を傷つけない者だけが長老と呼ばれます。
DhP.262
na vākkaraṇamattena, ない 言語・為す・量 vaṇṇapokkharatāya vā; 顔色・美しい また sādhurūpo naro hoti, 善き・姿 人は なる issukī maccharī saṭho. 嫉妬 物惜しみ ずるい
口が達者で
容姿端麗でも
嫉妬深く利己的で
ズルい人は
立派な人ではない。
解説
尊敬されたければ、心をきれいにしなければなりません。憎んだり、羨んだり、利己的では、他人に尊敬されるのは不可能です。優しい言葉や笑顔の仮面で隠しても、誰かを騙すことはできても、それはほんの少しの間だけです。そのうちに、誰もが本当の姿を知り、尊敬の念はあっという間に消えてしまいます。
DhP.263
yassa cetaṁ samucchinnaṁ, 人は しかし・それを 断ち切り mūlaghaccaṁ samūhataṁ; 根こそぎ 取り除き sa vantadoso medhāvī, 彼が 捨てた・怒りを 賢者は "sādhurūpo" ti vuccati. 善き・姿 と 言われる
しかしそれらを断ち切って
根こそぎ取り除き
怒りを捨てた賢者は
立派な人だと言える。
解説
issā(イッサー/嫉妬)macchariya(マッチャリヤ/物惜しみ=利己的)saṭha(サタ/ズルい)。これらはすべて「dosa(ドーサ/怒り)」に基づく精神作用です。
嫉妬は、自分にないものを他者が持っていることへの怒りです。物惜しみは逆に、自分にあるものを他者触れられたくないという怒りです。ズルは、人をだしぬいて自分が得するように仕向けることです。自分の利益だけを考え、他者の立場などは全く考えません。
いずれにせよ、私にないものを増やし、あるものを減らしたくない、いう怒りです。囲い込みたいのはモノやヒトだけでなく、情報にも及びます。
DhP.264
na muṇḍakena samaṇo, ない 剃髪 サマナは abbato alikaṁ bhaṇaṁ; ない・道徳 妄語を 語る人 icchālobhasamāpanno, 希求・欲に・侍従する人 samaṇo kiṁ bhavissati. サマナは なぜ あるだろう
道徳がなく嘘をつく人は
頭を剃っていても
サマナではない。
欲の向くままに求める人が
どうしてサマナであるだろう。
解説
Samaṇo(サマナ=沙門)は、宗教的悟りや真理を求めて修行する求道者です。この世には、少年にキスして「舌を吸って」と要求する高僧もいるくらいですから、道徳心がなく、嘘を平気でつく修行者が、たくさんいても不思議ではありません。
DhP.265
yo ca sameti pāpāni, 人は しかし 静まる 悪を aṇuṁ thūlāni sabbaso; 微細な 粗大な すべての samitattā hi pāpānaṁ, 静止狀態 実に 悪 "samaṇo" ti pavuccati. サマナ と 呼ばれる
大きなものから
小さなものまで
全ての悪を静めた人は
悪が静まった状態だからこそ
「サマナ(寂静者)」
と呼ばれる。
解説
Sammati(静まる/pp.samita)=Sama(サマ・静まる)
DhP.266
na tena bhikkhu hoti, ない それ故 比丘 ある yāvatā bhikkhate pare; それだけで 食物を乞う 他者に vissaṁ dhammaṁ samādāya, 生臭い 物を 受け取るなら bhikkhu hoti na tāvatā. 比丘は ある ない そのため
他者に物をねだるのは
比丘ではない。
欲した物を受け取るならば
それは比丘ではない。
解説
bhikkhu(ビック・比丘):出家し、托鉢をして修行をする人をbhikkhuと呼びます。托鉢して日々の糧を得る修行僧であり、本来「物乞いをする者・乞食」という意味ですが、比丘は物乞いはしません。
彼らは黙ってドアの前に立つだけです。支援者から自発的に与えられる施しを、ただ受けとって生活します。何かを乞うということは、何かが欲しいということです。欲しいという欲を、完全に滅尽するために生きるのが比丘です。
DhP.267
yodha puññañ ca pāpañ ca, 人は・ここで 功徳 と 悪 と bāhetvā brahmacariyavā; 取り除く 禁欲の・生き方 saṅkhāya loke carati, 考慮して 世の中を 行動する sa ce "bhikkhū" ti vuccati. 彼は 実に 比丘 と 言われる
善も悪も取り除いて
禁欲的な生活を送り
世の中で思慮深く
行動する人こそ
「比丘」と言える。
解説
比丘は自分の意志によって戒律を守り、自ら進んで清貧と独身の生活をしています。解脱を目指す比丘は、悪行を止めるのはもちろん、善行をして功徳を積もうとすることも止めます。悪いとか善いとかの判断すらも超越しなければなりません。
DhP.268
na monena munī hoti, ない 沈黙する 黙者 ある mūḷharūpo aviddasu; 愚痴の・態は 無知 yo ca tulaṁ va paggayha, 人は しかし 秤 のように 掴んで varam ādāya paṇḍito, 最上を 取って 賢者は
黙っていても
愚かで無知ならば
ムニ(黙者)ではない。
賢者は秤のように
優れたものを選び取る。
解説
Muni(ムニ)とは、元々は沈黙の誓いを立てている人のことです。269に続く。
DhP.269
pāpāni parivajjeti, 悪を 避ける sa munī tena so muni; 彼は 黙者 それ故 彼は 知った yo munāti ubho loke, 人は 知る 両方 世界 "muni" tena pavuccati. ムニ それ故 呼ばれる
ムニ(黙者)は
知っているから
悪いものを避ける。
この世の両面を知る人だから
「ムニ(賢者)」と呼ばれる。
解説
沈黙は必ずしも賢さを意味しません。沈黙するのは、言うことがないからだったり、愚かで何が起きているのかわかっていないから、だったりするからです。世の中の両面を理解し、何ものにも執着せず、何が悪かを知って避ける人が、真に賢者と呼べるのです。
世の中には、絶対的な善も悪もありません。あらゆるものには裏表があるように、どちらも互いに異質な側面を含んでいます。賢者はその二面性を理解しているのです。
DhP.270
na tena ariyo hoti, ない それ故 アリヤは ある yena pāṇāni hiṁsati; 人は 生き物を 害する ahiṁsā sabbapāṇānaṁ, 非暴力 すべて・生き物を "ariyo" ti pavuccati. 聖者は と 呼ばれる
生き物を殺す人は
アリヤではない。
すべての生きものに
非暴力であってこそ
「アリヤ(聖人)」と呼ばれる。
解説
アリヤという名前の漁師が、魚を釣って売っていました。生き物を殺すのは、アリヤ(聖人)という名に相応しくないという詩句です。
DhP.271
na sīlabbatamattena, ない 戒や・律によって bāhusaccena vā pana; 多聞によって あるいは また atha vā samādhilābhena, 時に あるいは 禅定を・得ることで vivittasayanena vā, 離れて・臥すことで あるいは
また多くの真理を聞いたり
戒や規律によってではなく
また、禅定を得たからでも
隠遁生活をしたからでもない。
エピソード
ダンマを実践している出家者はたくさんいましたが、全ての人がすぐに悟りに達するわけではありません。彼らの中には、戒律を完璧に守り、とても徳の高い人もいました。また、ブッダの説法をたくさん勉強している人や、瞑想が得意な人もいました。
ブッダは彼らに、覚醒したかどうかを尋ねました。彼らは「まだだが、これだけのことを成し遂げたのだから、もうすぐだろう」と答えました。ブッダはこの詩句とDhP.272で戒めました。
DhP.272
phusāmi nekkhammasukhaṁ, 達する・私は 離欲の・楽に aputhujjanasevitaṁ; ない・凡夫・親しむ bhikkhu vissāsa’ māpādi, 比丘よ 信心 なかれ・一歩 appatto āsavakkhayaṁ. ない・得て 汚れの・滅尽を
普通の人々が親しめない
瞑想修行で禅定に
達したからといって
比丘よ
心の汚れを滅尽していなければ
あと一歩と
過信してはいけない。
解説
悟りを得ることは簡単ではありません。他の仕事と比べてはいけません。たとえ私たちが集中力を高めたり、たくさんの真理を学んだり、本当に道徳的で精神的な人であったとしても、最終的な目標に比べれば、これらの作業は非常に簡単なものです。最終的な目標である涅槃に到達し、心の汚れをすべて取り除いたときに初めて、「やるべきことをやった」と安心することができるのです。
ダンマパダ19章「ダンマに従う人」了