ダンマパダ25章 360〜382

Bhikkhu-vaggo 比丘の章

ダンマパダ 25章のテーマは、Bhikkhu(ビック・比丘)「托鉢修行者」「托鉢で施しを受けながら、解脱するために修行する出家修行者」のことです。sīla(シーラ・戒め)とvinaya(ヴィナヤ・規律)を守り、自ら進んで清貧な禁欲生活をしています。

bhikkhu はもともと「物乞いをする者・乞食」という意味ですが、托鉢は物乞いではありません。彼らは黙ってドアの前に立って施しを受け、支援者から自発的に与えられるもので生活します。出家者は物やお金をもらっても、お礼の意味での頭は下げません。施した人が恩恵を受けられるようにするためです。

※ このサイトでは、修行者、出家者、修行僧、僧侶といった表現が出てきますが、次のように解釈しています。

修行者=在家、出家に関わらず、ブッダ の教えを実践するすべての人。

出家修行者=その中でも出家して、施しによって生活して修行する者(一時的な出家も含む)。ミャンマーやタイ、スリランカといった上座部仏教の国では、一生のうちに1度は(できれば2度)、出家することが推奨されています。数日間でも1年間でも出家です。10日間の瞑想合宿に参加することも出家です。出家期間が終われば家に戻って、通常の社会生活に復帰します。

修行僧=出家修行者のうち、生涯出家して、もう世俗に戻る意思がない者。日本人がイメージする出家のことです。

僧侶=修行僧が悟りのある段階に達し、他の修行者に教えてもいい立場になった者。もちろん在家はありえません。生涯が他者を幸せに導くための奉仕活動です。日本の僧侶のように、肉食妻帯者(しかも世襲制)は、ブッダ の教えでは考えられないと思います。

DhP360

cakkhunā saṁvaro sādhu, 
眼において 自制は よい
sādhu sotena saṁvaro; 
よい 耳において 自制
ghāṇena saṁvaro sādhu, 
鼻において 自制は よい
sādhu jivhāya saṁvaro.
よい 舌において 自制

目を自制するのはよい
耳を自制するのはよい
鼻を自制するのはよい
舌を自制するのはよい。

解説
私たちには、眼耳鼻舌体心という6つの感覚器官があります。黙っていても情報が感覚器官に触れ、外からの刺激として認識します。もしこの刺激を受け止める感覚がなかったら、ただの物体です。感覚があるからこそ、生きていると言えるのです。つまり生命とは、物体に感覚があることです。

人間も動物も昆虫もアメーバーも同じです。努力してもしなくても関係なく、自動的に刺激を認識して反応することで生命が続きます。反応が止まれば死です。

DhP361

kāyena saṁvaro sādhu, 
身体において 自制は よい
sādhu vācāya saṁvaro; 
よい 言葉において 自制
manasā saṁvaro sādhu, 
心において 自制は よい
sādhu sabbattha saṁvaro;
よい すべての処で 自制
sabbattha saṁvuto bhikkhuすべての処で 自制は 比丘
sabbadukkhā pamuccati.
すべて・苦しみから 脱する

身体を自制するのはよい
言葉を自制するのはよい
心を自制するのはよい
あらゆる部分で自制するのがよい。
あらゆる部分で自制した比丘は
すべての苦しみから脱する。

解説
すべての感覚=六感(五感+心)をコントロールすることは、有益な瞑想を行うための基本的な条件の1つです。この制御ができなければ、瞑想は進みません。なぜなら、まさにこの6つの感覚器官からの刺激の入力によって、瞑想から気が逸らされてしまうからです。比丘は日常生活の中でも集中力と気づきを鍛え、瞑想修行に応用しなければなりません。

DhP362

hatthasaṁyato pādasaṁyato,
手・自制は 足・自制は
vācāya saṁyato saṁyatuttamo;
言葉 自制は 自制した・最高
ajjhattarato samāhito,
内面の・悦びは 定置
eko santusito tam āhu bhikkhuṁ.
独り 知足の それを 呼ぶ 比丘と

自分の手、足、言葉を
コントロールできる人
完全に自分自身を
コントロールしている人は
心を確立して
内なる悦びを見出し
孤独の中で足を知る人
そんな人を比丘と呼ぶ。

解説
出家した比丘には、細かな戒律が多数あります。その中には、走らない、歩く時に大きく手を振らない、木に登らないなど、手足に関する戒めもあります。

人間は社会性のある生き物なので、群れることを好み孤独を嫌いますが、出家修行者はむしろ孤独であることに満足します。外からの様々な刺激がなく、感情を煩わされなくて済むからです。

人は自分の外側に興味を向けて、楽しみを見つけようとしますが、出家修行者は自分の心に徹底的に注意を向け、内なる悦びを楽しみます。外から得られる楽しみは有限ですが、内から得られる楽しみは無限なのです。

DhP363

yo mukhasaṁyato bhikkhu人は 口・自制 比丘
mantabhāṇī anuddhato; 
考察する・話す ない・高揚
atthaṁ dhammañ ca dīpeti,
利を ダンマを と 明るくする
madhuraṁ tassa bhāsitaṁ.
蜜 それは 語られる

比丘は言葉を選び
冷静に有意義なことを
語りなさい。
ダンマの道理を
明快に語る言葉は甘美だ。

解説
人間は言葉によってつながり、言葉によって支え合っています。言葉は自分が感じたことや思ったことを、で表現する手段です。その人が発する音の行為によって、他者はその人を好ましく思ったり、不快に思ったりします。

心に自我が多くあれば、自己中心的で一方的な話し方になり他者は面白くありません。自尊心があれば、横柄な話し方になり他者は不愉快になります。心に怒りがあれば、嫌味な話し方になり他者は反発します。

勝手気ままにまくし立てるのではなく、口を制御(mukhasaṁyata)して、興奮しない(anuddhato)で、有意義なことを話す(mantabhāṇī)。言葉という音の行為によって、他者の役に立つことを話すのです。

言葉は感情そのものです。伝えたい大切なことがあるわけではないのに、思いつくままに喋る行為は、ただ感情が溜まって発散したいだけです。自我・怒り・自尊心・無知に基づくネガティブな感情を外に放出したいのです。聞く方の心も染まるので、注意が必要です。

DhP364

dhammārāmo dhammarato, 
ダンマーラーマは ダンマに親しむ人
dhammaṁ anuvicintayaṁ; 
ダンマを 吟味する
dhammaṁ anussaraṁ bhikkhuダンマを 随念する 比丘は
saddhammā na parihāyati.
正しい・ダンマ ない 堕ちる

ダンマーラーマは
ダンマに親しみ
ダンマに従っている
ダンマを洞察する比丘は
正しいダンマから
外れることはない。

エピソード
80歳になったブッダ が、4ヶ月後に涅槃を実現する(死ぬ)ことを、弟子たちに知らせた時、まだ悟りの第一段階にも達成していない者たちは、非常に落ち込み、途方に暮れていました。彼らはただブッダ のそばにいて、ほとんどブッダ の前から離れようとしませんでした。

しかしダンマーラーマという弟子は、自分の独房に閉じこもり、ブッダ に近づこうとしませんでした。彼はブッダ が亡くなる前に、アラハンになることを目指して、ひたすら瞑想の修行に励んでいたのです。

ダンマーラーマの崇高な心を理解できなかった他の弟子たちは、彼の行動を誤解してブッダ に、「彼はいつも一人でいてブッダ に会いに来ようともしませんが、私たちはずっとあなたのお側にいます」と告げました。ブッダはダンマーラーマを呼ぶように言いました。

ブッダに呼ばれたダンマーラーマは、ブッダ に会いに来なかった理由を丁重に説明し、自分は洞察瞑想の修行に全力を尽くしていることを報告しました。

ブッダ はとても満足し、「sādhu(サードゥ・その通り)、sādhu、sādhu。我が息子、ダンマーラーマよ、あなたはとてもよくやっている」と言いました。「私を愛し、尊敬する弟子は、君のように行動すべきだ。私に花や香りやお香を供えた人たちは、本当に私に敬意を払っているわけではない。ダンマを実践する者だけが、真に私に敬意を払う者だ」。

解説
ダンマ
(dhamma)とは、ブッダが発見した真理のことです。この真理は、生命の真理であり、宇宙の法則であり、誰がなんと言っても不変の真理です。しかし世俗の真理は、時代や文化によって、人間の都合によって変わってしまうのです。

私たちが暮らす世俗の生き方では、不公平なこと、理不尽なことがたびたび起きて、私たちを悩ませます。世俗の真理が本当の真理ではないからです。だから、そんな小さなことにとらわれずに、堂々と本当の真理(ダンマ)に従って、のびのびと生きればいいのです。しかし私たちの心は弱いので、簡単に多数派に従ってしまいます。

ダンマを知る機会があることは、人として稀有なことです。それだけでもすごいのに、比丘はダンマを洞察瞑想することが仕事ですから、大変幸せな生き方なのです。

DhP365

salābhaṁ nātimaññeyya, 
自分の利得を 軽視しないように
nāññesaṁ pihayaṁ care; 
ない・他の得たものを 羨む 歩く
aññesaṁ pihayaṁ bhikkhu,
他の得たものを 羨む 比丘は
samādhiṁ nādhigacchati.
サマーディ ない・到達

自分が得たものを
軽視しないように
他人を妬んではならない
他人を妬む比丘は
集中力を得られない。

解説
samādhi(サマーディ)は、瞑想によって得られる集中力・精神統一のことです。

他者を羨むということは、外側に意識が向いて、自分の心だけを見ていない状態です。自分と他者を比較して勝手に評価している状態であり、ありのままに受け止めていません。外が気になるのですから、当然、自分の心に精神統一できていません。

周りをみて、自分にはわかりやすい利点がないように思えても、一所懸命にやっているならば、全く問題ありません。ある方向から見て大したことがないことも、別の視点で見るとすごいことだったりします。どんなことでもある視点から見れば、利点になるのです。

仮になんの利点もないとしても、それがその瞬間のありのままの姿であり、すべては変化するので、利点がずっとないまま続くということはあり得ません。

DhP366

appalābho pi ce bhikkhu少し・利得 もし しかし 比丘
salābhaṁ nātimaññati;
自分の・利得を 軽視しないで
taṁ ve devā pasaṁsanti,
彼 実に 神々は 褒める
suddhājīviṁ atanditaṁ.
清く生きる 倦怠なく

たとえ得たものが少なくても
得たものを軽視しないで
怠ることなく清く生きる比丘を
神々は褒めるだろう。

解説
出家修行者にとって、物質的な利益や快適さは重要であってはいけません。俗社会的な経済活動をやめて、精神的に優れた人間になろうと思って修行する人は、生きるために必要なものを他者に乞わなければならないのです。畑を耕したり、商売をする暇はありません。

出家修行者はすべての物質的な利益を無視して、精神的な利益だけに全力投球して集中しなければなりません。物質的な快適さは、かえって出家修行者の覚醒への道を妨げることになります。

しかし真面目な修行者がいると同時に、歪んだ考えを持ったまま修行生活に入る人もいます。何も仕事をしないで、ただ飯を食うのは悪行為です。「他人に食を乞うのはとても惨めな生き方だから、一日でも早く涅槃に至るために励みなさい」というのがブッダの考えです。

もし、托鉢で得た食べ物が少なかったり、不満があるとすれば、得たものをバカにしている状態です。その瞬間に心が汚れます。修行者はそのことにすぐ気づかなくてはいけないのです。

もちろん、これは出家修行者だけに当てはまることではありません。在家でも、ブッダ の教えを実行しようとする人は誰でも、物質的な富はあまり重要ではなく、精神的な富だけが本当に価値のあるものです。

DhP367

sabbaso nāmarūpasmiṁ,
一切の ナーマ・ルーパにおいて
yassa natthi mamāyitaṁ;
それらが ない 私のもの
asatā ca na socati,
存在しない そして ない 悲しみ
sa ve bhikkhū ti vuccati.
彼は 実に 比丘 と 呼ばれる 

あらゆる精神と物質において
「私のもの」という思いがなく
私が存在しなくても悲しまない
それが本物の比丘だ。

解説
自分の身体と心に一切執着しないということは、「」という存在そのものがないという境地に至ったということです。私が存在しないということは、「私と他」という分別がなくなるということです。悲しむどころか嬉しい状況です。

nāma(ナーマ・心)、rūpa(ルーパ・物質=身体)と訳されることも多いですが、どちらも「モノ」ではなくエネルギーの流れで、nāma(ナーマ・名=精神的な働きrūpa(ルーパ・色=物質的な働き)です。

DhP368

mettāvihārī yo bhikkhu慈悲・住む 人 比丘
pasanno buddhasāsane;
信じる人 ブッダの教え 
adhigacche padaṁ santaṁ, 
到達するだろう 状態 寂静
saṅkhārūpasamaṁ sukhaṁ.
反応・色・静まる 安楽に

ブッダの教えに納得して
慈しみをもって生きる比丘は
何事にも反応することなく
安らかに寂静の境地に
至るだろう。

解説
DhP.368〜376の8つの詩句は、ブッダ が改心して出家した泥棒たちを励ました時の言葉です。「慈しみをもって生きる」とは、どんな場合でも他の生き物に配慮して、生活するということです。本来、エゴに生きる人間が、慈しみで生きる人間として生活するということです。利己的ではなく利他的に、他を優先させて生きるのです。

DhP369

siñca bhikkhu imaṁ nāvaṁ, 
汲み出せ 比丘よ これを 船
sittā te lahum essati;
汲み出したら それは 軽く 来るだろう
chetvā rāgañ ca dosañ ca, 
切断した 欲 と 怒り と
tato nibbānam ehisi.
それ故 涅槃に 来る 

比丘よ
自分で注いだ船の水を
汲み出しなさい。
そうすれば軽くなるだろう。
欲と怒りを断ち切れば
涅槃に至る。

解説
船=心で、水=欲と怒りです。私たちが他者に怒りを抱く時、まず自分が怒りでいっぱいになります。他者を傷つける前に、自分の心が破壊的な思考で傷つきます。他者より先に自分が不幸になるのです。人間は思考で自己破壊するのです。

この詩句のポイントは最後の「涅槃に至る」だと思います。欲と怒りを断ち切るのは自分の意思ですが、その後、涅槃に至るのは、自分の意思で到達するものではなく、自然に涅槃を経験する、ということだと思います。

DhP370

pañca chinde pañca jahe, 
5つ 断ち 5つ 捨て
pañca cuttaribhāvaye;
5つ さらに修める
pañca saṅgātigo bhikkhu,
5つ 執着・超えた人 比丘
oghatiṇṇo ti vuccati.
激流超えた と 呼ばれる

5つを断って5つを捨て
5つを修める
5つの執着を克服した比丘は
激流を渡った人と言える。

解説
断つべき5つ
捨てるべき5つとは、10の束縛のことです。

断つべき5つ(10の束縛の1〜5)
1.自分という意識(sakkāya-diṭṭhi)
2.疑い・迷い(vicikicchā)
3.こだわり(sīlabbata-parāmasa)
4.貪欲(kāmacchanda)
5.悪意(vyāpāda)

捨てるべき5つ(10の束縛の6〜10)
1.色界に行きたいという欲(rūpa-rāga)
2.無色界に行きたいという欲(arūpa-rāga)
3.慢心(māna)
4.掉挙(uddhacca)
5.無明(avijjā)

修めるべき5つ(5つの友)
1.確信(saddha)
2.気づき(sati)
3.努力(viriya)
4.集中(samadhi)
5.智慧(pañña)

5つの執着
1.欲(rāga)
2.怒り(dosa)
3.無知(moha)
4.慢心(māna)
5.見解(diṭṭhi)

激流を渡った人=彼岸に渡った人=涅槃に到達した人のことです。

DhP371

jhāya bhikkhu mā ca pāmado,
修行せよ 比丘 なかれ そして 怠惰
mā te kāmaguṇe bhamassu cittaṁ;
なかれ あなた 五欲 楽しむ 心
mā lohaguḷaṁ gilī pamatto,
なかれ 鉄・球 飲む 怠惰によって
mā kandi dukkham idan ti ḍayhamāno.
なかれ 泣く 苦しい これは と 焼かれて

比丘よ、
怠けないで修行しなさい。
5つの欲に心を振り回されず
うっかり熱い鉄球を
飲むことがないように。
焼かれて「苦しい!」と
泣かないように。

解説
ここでは、元泥棒だった出家者たちに対して、死後にニラヤ界(地獄)に落ちて、燃える鉄玉を飲まされて、嘆き苦しむことがないように、しっかり瞑想しなさい、ということです。

Kāmaguṇa(五欲) は、身体の5つの感覚器官(目耳鼻舌体)で、心地よさを楽しみたいと望むことです。私たちは五欲に依存して生きています。素敵なものを見たい。心地よい音楽を聴きたい。いい匂いを嗅ぎたい。美味しいものを味わいたい。マッサージで癒されたい。これらの快楽は、ほとんどの人がこの世で、また来世でも求めているものです。

しかし出家者にとっては、これらは覚醒への道を阻む障害物であり、少しでも進歩したければ、これらを根絶しなければなりません。心地よく楽しいことの後には、必ず苦しみがあるからです。修行者は、瞑想して心を抑え、快楽を求めないようにしなければならないのです。

DhP372

natthi jhānaṁ apaññassa,
ない 瞑想 無・智慧
paññā natthi ajhāyato;
智慧 ない 無・瞑想者
yamhi jhānañ ca paññā ca,
人 瞑想 と 智慧 と
sa ve nibbānasantike.
彼は 実に 涅槃に・近い

無智な人は実践しない
実践しない人には
智慧は現れない。
実践を通して智慧を得た人は
確実に涅槃に近づく。

解説
多くの人々は瞑想に興味を持ちません。「黙って座って何が面白いの?」という感じでしょう。ほんの少数の人が「瞑想って何だろう?」と思っているかもしれません。だから、瞑想をやってみようと思う人は、さらに少数です。そして瞑想を始めても、続ける人はさらに少ないのです。

智慧は、熱心に洞察瞑想を実践した結果として自然に現れるものです。それ以外の方法で智慧を得ることは、残念ながらできません。一方で、瞑想の必要性を理解するためには、最初にわずかな知恵を持っていなければなりません。だから、ほとんどの人は瞑想を始めないか、始めてもすぐに疲れてやめてしまいます。知恵があり、瞑想で得た智慧を使ってさらに智慧を得ようとする人だけが、涅槃のゴールに到達することができるのです。

どうして実践が必要なのでしょう?

瞑想で経験することが、人それぞれ違うからだと思います。瞑想にしても何にしても、体験は似ているようで、全く異なります。100人いれば、100種類の瞑想になるのです。だからその人の瞑想は、その人にしか体験できないのです。

一人の心に、あらゆるの心の働きが現れるわけではありません。例えば、穏やかで平和的な性格の人であれば、残虐な殺人者の心は体験できません。どんなに詳細に他者の経験を聞いても、何の役にも立たないのです。だから自分で確かめる以外に方法がないのです。

DhP373

suññāgāraṁ paviṭṭhassa,
空閑処 入り
santacittassa bhikkhuno,;
寂静・心 比丘
amānusī ratī hoti,
非人の 喜び ある
sammā dhammaṁ vipassato.
正しく ダンマを 洞察する

静かな場所で
心が穏やかになった比丘が
ダンマを正しく洞察する時
人間のレベルを超えた
喜びを経験する。

解説
孤独に身を置くことは、瞑想を実践する修行者にとって、外部のすべての気晴らしから自身を切り離すために有益です。かと言って森の中で隠遁する必要もなく、たとえ街中でも独りで瞑想することは可能です。

DhP374

yato yato sammasati,
なるたびに なるたびに 触知する
khandhānaṁ udayabbayaṁ;
集合体が 生滅
labhatī pītipāmojjaṁ,
得る 喜び・歓喜を
amataṁ taṁ vijānataṁ.
不死を 彼は 知る

肉体を構成する
5つの集合体が
生じては消えることを
体験を通して
完全に理解するたびに
無死(涅槃)を知って
喜びと歓喜を得る。

解説
5つの集合体
khandha.カンダ)とは、人間を成り立たせている5つの要素です。「物質グループ(rūpa-kkhandha)=身体」、「感覚グループ(vedanā-kkhandha)=感覚」、「知覚グループ(saññā-kkhandha)=思考」、「精神形成グループ(sankhāra-kkhandha)=反応」、「意識グループ(viñāna-kkhandha)=意識」の5つです。この5つの集合体が、どのようにして生まれ、どのようにして消えていくのかを、自身の身体で詳細に観察して知ることができれば、無死=涅槃を知って、喜びと歓喜を得るということです。

私たちの身体である肉体、すなわち物質的要素(土・火・水・風)は、およそ37〜60兆個の細胞でできているそうです。その細胞が常にものすごい速度で生成し、消滅して、入れ替わっています。川を流れる水が、同じように見えても、常に違う水が流れ、一滴として同じ水ではないのと一緒です。同様に、感覚・思考・反応・意識も、常に生じては消える現象を繰り返しています。洞察瞑想(ヴィパッサナー瞑想)は、自分の身体をこの5つの観点から詳細に観察し、生成と消滅の事実を実体験することで、真理を理解する瞑想法です。

DhP375

tatrāyam ādi bhavati,
そこで はじめに 存在する
idha paññassa bhikkhuno;
ここで 聡明な 比丘たちよ 
indriyagutti santuṭṭhī,
感覚器官・保護 知足
pātimokkhe ca saṁvaro.
出家の戒律 そして 抑制

聡明な比丘たちよ
ここではじめに行うべきことは
自分の五感に注意を払い
足るを知り
出家の規律を守ることだ。

解説
ブッダ が決めた出家者の規律(pātimokkha パーティモッカ)は227(女性は311 )あります。妻帯しない、昼の12時以降は食べ物を口にしない、お金を触らない、片手で出された食べ物は食べない。単独で女性と同室しない、といった細かな規律が227です。タイやミャンマー、スリランカなど、東南アジアの仏教の主流である上座部仏教では、現在も厳格に守っています。

在家者が守るべき戒律は5つ五戒)または8つ八戒)ですが、これは自分が幸せであるために自発的に戒めるべき道徳であり、破っても罰則はありません。自分が困るだけです。一方、規律出家生活のルール・規則です。破れば罰則があります。

ブッダは規律を定めることに反対でした。真剣に修行する人にとっては、瞑想の妨げとなるからです。「五戒で十分、あとは自分で正しく律しなさい」という考えでした。しかし集団を維持する上で、団体での修行生活を乱す未熟な者のためにルールが必要となり、ブッダはその時々に応じて規律を定めました。そして227にもなってしまったのです。

227も規律があるなんて、厳しくて不自由だと思うかもしれませんが、実はこの方が自由なのです。自由とは「他からの強制・拘束・支配などを受けず、自らの意思や本性に従っていること」だと思うでしょうが、自分の心に、本当は何をやりたいのか、聞いてみてください。「遊びたい。酒を飲みたい。怠けたい。あれもこれも欲しい」など、心は自分を不幸にするようなことしか考えません。

本当の自由とは、「困ったことにならず、穏やかで、心が束縛を感じない状態」です。道徳的な生き方は、心を自由に、気楽に、平和にします。戒律は、身体と言葉の行為を管理して、間違った行為をして不幸にならないためにあるです。

DhP376

mitte bhajassu kalyāṇe,
友に 交流するように 善良な
suddhājīve atandite;
清い生き方 揺らがない
paṭisanthāravuttassa, 
従順に・接するように
ācārakusalo siyā;
行儀作法 あるだろう
tato pāmojjabahulo,
それ故 喜び・多く 
dukkhassantaṁ karissati.
苦しみ・終わる できるだろう

怠けずに落ち着いて
清く正しく生活する
善友と付き合うように。
礼儀正しく
従順に接するように。
喜びが多くなれば
苦しみを終わらせることが
できるだろう。

解説
ここまでの8つの詩句(DhP.368〜376)が、出家した泥棒たちへの励ましの言葉です。

善友とはどんな友でしょう? 仲良しで気の合う友人ではありません。善友とは、自分をより優れた人間として育ててくれる、自分のことを心配してくれる存在です。善友は、良い手本となり、覚醒への道を助けてくれます。善友と付き合うと、自分が日々、成長できるのです。悪友は足を引っ張り、悪い習慣や怠慢に向かわせるだけです。

謙虚で質素で我を張らず、何があっても落ち着いて明るく正しく生きている善友と付き合うように、ということです。善友から学びを得るためには、礼儀正しく素直に従う姿勢も大切です。善友が善意をもって間違いを指摘してくれたなら、先入観や固定観念に囚われずに、頑固になったり反論したりせずに、柔軟な態度で受け止めなければなりません。

DhP377

vassikā viya pupphāni,
ジャスミン のように 花 
maddavāni pamuñcati;
しおれる 落ちる
evaṁ rāgañ ca dosañ ca,
そこで 貪欲 と 怒り と
vippamuñcetha bhikkhavo.
自由になる 比丘たちよ

ジャスミンの花が
萎んで落ちるように
欲と怒りを落として
比丘たちよ
自由になりなさい。

解説
ジャスミンの花は小さな白い花で、エキゾチックな芳香があります。夕方から咲き始めて、夜半に甘い香りを漂わせますが、花持ちは短く、白い花弁が茶色く萎んで地面に抜け落ちます。枯れた花弁が抜け落ちるように、出家者もまた、心の穢れを落とし、輪廻転生から解放されるように努力しなさいという教えです。

DhP378

santakāyo santavāco,
寂静の・身体 寂静の・言葉 
santavā susamāhito;
落ち着いて よく・定置し 
vantalokāmiso bhikkhu,
捨てた・世財を 比丘 
upasanto ti vuccati.
静まる と 存在する

所作が穏やかで
言葉が穏やかで
心が穏やかで
落ち着きがあり
世俗を捨てた比丘は
「寂静なる人」と呼ばれる。

エピソード
サンタカーヤという出家者がいました。彼はとても穏やかで、ほとんど動かず、ゆっくりと静かに振る舞い、いつも穏やかで落ち着いていました。他の出家者たちがこれを奇妙に思い、ブッダ に報告すると、ブッダ は、サンタカーヤの前世がライオンであったことを話しました。ライオンは通常、餌を求めて外に出た後は、次の7日間は洞窟の中で動かずに休むと言われています。ブッダ はこの詩句を語り、「すべての出家者はこのように振る舞うべきだ。つまりライオンのように、穏やかで落ち着いているべきだ」と言いました。

解説
行為とは、身体による行為、言葉による行為、心による行為の、3つの行為です。

DhP379

attanā codayattānaṁ, 
自分を 戒める
paṭimāsettam attanā;
省みる 自分を
so attagutto satimā,
彼は 自分を・守り 気づいている
sukhaṁ bhikkhu vihāhisi.
幸せに 比丘 生きるだろう

自分で自分を戒めて
自分を省みる
彼は気づいて
自分を守っている。
そんな比丘は
幸せに生きるだろう。

解説
DhP.379と380のエピソードは、ダンマパダ 10章「罰」の DhP.143 のエピソードと同じです。物乞いだった少年が出家して、着ていた服と物乞い用の皿を木にぶら下げて、戒めとして叱咤激励した話です。

自分の心をじっくり観察してみれば、どうしようもない、だらしない、優柔不断の自分を発見できるはずです。汚れた思考でいっぱいの愚かな自分です。そのまま見なかったことにしたくなる自分です。

しかし、そんな自分を助けられるのは自分だけです。誰も自分を叱ってはくれません。自分で自分を叱り、自分で自分を厳しくチェックする。それが「気づき」です。気づきがあれば、自分を守ることになります。汚れた自分を発見するたびに、見て見ぬふりをするのではなく、気づいて汚れを消すように努力するのです。そうすれば、人格が少しずつ向上していきます。

DhP380

attā hi attano nātho,
自分 こそ 自分の 主人
attā hi attano gati;
自分 こそ 自分の 行方
tasmā saṁyamayattānaṁ,
それ故 制御する・ように
assaṁ bhadraṁ va vāṇijo.
ある 良馬 あるいは 商人

自分こそが自分の主であり
自分の人生を決めるのは自分。
商人が馬を鍛えるように
自分の心を鍛えなさい。

解説
自分の人生を決めるのは自分自身です。どこからか、幸せをもたらす特別な力が、介入してくることはありません。私たちは行動(身体の行為)・言葉(言葉の行為)・思考(心の行為)によって、瞬間瞬間に創造しているのです。だから自分の心をコントロールし、馬のように手なずけなければなりません。そうすれば心は行儀よく、幸せを手に入れることができるのです。

DhP381

pāmojjabahulo bhikkhu喜び・多く 比丘
pasanno buddhasāsane;
信じる ブッダの・教え
adhigacche padaṁ santaṁ, 
到達する 境地に 寂静の
saṅkhārūpasamaṁ sukhaṁ.
現象・止まり 安楽に

ブッダの教えを確信して
喜びに満ちた比丘は
心に浮かぶ現象が止まり
安らかに寂静の境地に
到達するだろう。

解説
喜びとはいったい何でしょう? 一般的な喜びは、目耳鼻舌体から入る情報で心を刺激し、「嬉しい、楽しい、大好き」な気持ちになることです。喜びが生じると、心は活発になって、やる気になります。

この喜びの源は、色音香味触という五欲から得られる刺激です。しかしこの刺激は持続性がなく必ず飽きるのです。美しいものでも、ずっと見ていると飽きてきます。同じ曲を聴き続けると、飽きてきます。同じ香りを嗅ぎ続けると、匂いを感じなくなります。心地よいマッサージも、ずっと続けるとやっぱり飽きるのです。

五欲から得られる刺激では不満足なので、人は刺激を補うために妄想します。見たもの、聴いたもの、嗅いだもの、食べたもの、感じたものについて、繰り返し妄想することで、心に刺激を与え続けているのです。この妄想には、楽しい妄想と楽しくない妄想があります。楽しい妄想は欲を生み出し、楽しくない妄想は嫌悪を生み出し怒りとなります。

この妄想が「心に浮かぶ現象saṅkhāra(サンカーラ)」です。ブッダ の教えを確信して実践すれば、心が反応して妄想を作ることを止めることができます。とても簡単で単純なことなのですが、できないのです。どうしても何かが浮かんでしまう。でも、諦めないでこれを徹底的に実践すると、だんだん楽しくなり、その充実感があふれる喜びとなります。

DhP382

yo have daharo bhikkhu,
人 実に 若い 比丘
yuñjati buddhasāsane;
従事する ブッダの 存在する 
somaṁ lokaṁ pabhāseti,
彼は・この 世界を 明るくする
abbhā mutto va candimā.
雲 解放された ように 月

若くてもブッダの教えを
実践する比丘は
雲から現れた月のように
この世を照らす。

エピソード
ブッダ の十大弟子の1人アヌルッダには、スマナという名の7歳の弟子がいました。スマナは幼いながらもアラハンを獲得しただけでなく、超常能力を持っていました。スマナはその力を使って空を飛び、病気にかかったアヌルッダのために、遠く離れたアノタッタ湖から水を汲んできたこともありました。

ある日、アヌルッダはスマナを連れて、ブッダ に会いに行きました。他の修行僧たちは、幼いスマナの頭を撫でたり、耳や鼻を引っ張ったりしてからかいました。ブッダ はそれを見て、スマナの稀有な資質を彼らに見てもらおうと思いました。

ブッダ は、「誰か、アノタッタ湖から水を汲んできてほしい」と頼みました。しかし遠く7000キロも離れた湖から、水を持ってくることは誰にもできません。するとスマナは、以前と同じように空を飛んで湖に行き、水を汲んで戻ってきました。ブッダ は修行僧たちに、「ダンマを熱心に実践するのに、年齢は関係ない」と言いました。

なお、このスマナの師匠であるアヌルッダは、かつてブッダ の前で居眠りして叱責をうけ、不眠不休の誓いをたてて、常坐不臥(常に坐って横にならない)の修行をしました。ブッダ が心配して「もういいから、寝なさい」と言っても聞かず、その誓いを全うして、ついに失明しました。しかしその後アヌルッダはアラハンとなり、天眼(肉眼では見えない事でも自在に見とおせる、真理を見る眼)を獲得しました。

ダンマパダ 25章「比丘」了

以上でダンマパダ はおしまいです。最終章の26章は非公開とさせていただきますので、ご了承ください。ここまでお読みくださり、本当にありがとうございました。

Be happy ! With all Mettā

さらに深い教え「スッタニパータ」もご興味がありましたら、ご覧ください。