第2章小さな章:13. 正しい遍歴① 361〜369

13. Sammāparibbājanīyasuttaṃ 正しい遍歴 ①

Sammā(正しい)+paribbajati(完全に・捨てて=遍歴)についてのスッタ集です。「遍歴(へんれき)」とは、家や財産など、世俗の暮らしのすべてを捨てて、一箇所に定住せず、あちこちを廻り歩いて、さまざまな経験をすることです。

四住期

古代インドには「アーシュラマ四住期(しじゅうき)」という理想的な生き方があり、人生を「brahmacariya 学生期(がくしょうき)、gārhasthya 家住期(かじゅうき)、vānaprastha 林住期(りんじゅうき)、saṃnyāsa 遊行期(ゆぎょうき)」の4つの期間に分けて考えました。

学生期(5〜24歳以下):師のもとで禁欲生活を送り、ヴェーダの聖典を学ぶ期間。梵行期

家住期(25〜47歳):結婚して男子をもうける義務があり、家庭と仕事を確立する期間

林住期(48〜74歳):森林に隠遁して修行する期間
体力・気力・能力・容姿が大きく衰えて、人生のピークを超える頃です。若い頃のように「ハツラツと働くこと」に執着していると「惨めな生き方」になりますが、経験を元に価値観を大きく転換できる期間です。

そして最後の「遊行期(75歳〜死ぬまで)」が、この遍歴期間です。
一定の住所をもたずに托鉢で遍歴して、悟りと最後の死に場所を求める期間で、「お遍路の旅」の本気バージョンです。この段階に入ったなら、物質的な欲や望み・偏見を放棄し、財産や家を捨てて世俗の生活から離れ、質素で精神的に自由な生活をおくります。

これはバラモン教徒が生涯で経過すべき段階で、カースト上位3階級(バラモン、貴族、庶民)の男子に奨励されました。ブッダもこれに則って、男子をもうけるまでは成し遂げてから、出家しました。

ここでは出家して、それなりに悟りを得た比丘たち、つまりアラハンまで行かなくても、最低でもソータパンナになって聖なる道に入った比丘たちが、遍歴を重ねるにあたってどうあるべきかが語られています。たとえ悟りを得ていても、一箇所に安住してのんびり余生を送るのではないのです。

SN-2-13-361

‘‘Pucchāmi muniṃ pahūtapaññaṃ,
質問する 聖者に 広い・智慧の
Tiṇṇaṃ pāraṅgataṃ parinibbutaṃ ṭhitattaṃ;
渡った 彼岸・至った 完全な涅槃に至った 自制心の
Nikkhamma gharā panujja kāme, 
出家した 俗家 排除した 欲を
kathaṃ bhikkhu Sammā so loke paribbajeyya’’.
いかに 比丘 正しく 彼は この世を 遍歴するだろう

心をコントロールし
完全なる涅槃に至った
向こう岸へと渡られた
大いなる智慧のある
聖者にお尋ねします。
出家して世俗の欲を払った後
比丘は世間をどのように
正しく遍歴するべきでしょうか?

解説

この質問者は、解説書によるとブッダの化身となっています。前のスッタ集ではブッダ の発言は1スッタだけでしたが、このスッタ集は全スッタがブッダ の言葉です。

出家して世俗の欲を払った林住期の後、遊行期に入った比丘はどのように「世俗の世界」を渡り歩くべきか、という質問です。遍歴はまさに「渡る世間」です。

SN-2-13-362

‘‘Yassa maṅgalā samūhatā, 
人は 吉凶 廃止
(iti bhagavā)
と ブッダは
Uppātā supinā ca lakkhaṇā ca;
流星 夢占い そして 占い そして
So maṅgaladosavippahīno,
彼は 吉凶の・欠点を・捨てた人
Sammā so loke paribbajeyya.
正しく 彼らは この世を 遍歴するだろう

ブッダ:
吉凶や星占い
夢占いや相性判断などやめて、
良い悪いの判断を放棄した人は
正しく世間を渡り歩くだろう。

解説

まずは「占いの類(たぐい)をやめなさい」ということです。「占い」とは、さまざまな方法で、人の心の内や運勢や未来など、確認できないものについて判断予言することです。

当時のインドでも、占いは人々の生活に根ざしていたことが伺えるスッタです。前のスッタ集の話者ヴァンギーサも、輪廻転生先を占うことでお金を得ていました。僧侶から啓示を得たいと思う人が、それだけたくさんいたのでしょう。今も昔も、世界中で同じですね。私たちの感覚では、占いというよりも、厄払い祈祷の方が近いイメージかもしれません。

しかし、そもそもあらゆるものは変化している、無常なのですから、吉が出ても、それは永遠には続かず、凶が出ても然りです。良いとか悪いとか判断すること自体が無意味なのです。情報は一時の知識に過ぎず、智慧ではありません。私たちにとって大切なことは、何が起きても、何を聞いても、何を見ても、動じる必要は全くないという事実です。

SN-2-13-363

‘‘Rāgaṃ vinayetha mānusesu, 
欲を 鎮め 人間における
dibbesu kāmesu cāpi bhikkhu;
神々における 欲において そして・また 比丘は
Atikkamma bhavaṃ samecca dhammaṃ, 
超えた・業 尊者 学び ダンマを
sammā so loke paribbajeyya.
正しく 彼らは この世を 遍歴するだろう

そしてまた比丘は
人間や神々にある
楽しみへの欲を鎮めて
ダンマを学んで
業を超越した解脱者は
正しく世間を渡り歩くだろう。

解説

人間界は感覚のある世界「欲界」の1つですが、デーヴァの神々の領域である天界も「欲界」の1つです。人間界ほど苦しみはなく、楽しみが多くある世界です。楽しみが多いのは、いいことだと思うかもしれませんが、楽しみも苦しみも感覚でしかなく、同じです。感覚がある限り、欲は起こり、心が回転して流転(輪廻)します。

Atikkammaati(極める・超える)+kamma(行為・業)。bhavaṃ(bhavant)は、尊者と訳しますが、同時に現存者・勝存者という意味でもあります。つまり解脱した人のことです。

SN-2-13-364

‘‘Vipiṭṭhikatvāna pesuṇāni, 
背を向ける 中傷や
kodhaṃ kadariyaṃ jaheyya bhikkhu;
憤怒を 強欲を 放棄 比丘
Anurodhavirodhavippahīno, 
追従・反対・捨てた人は
sammā so loke paribbajeyya.
正しく 彼らは この世を 遍歴するだろう

中傷や怒り、強欲に
背を向けて放棄した比丘は
追従することも
反対することもなく
正しく世間を渡り歩くだろう。

解説

どんな見解、意見、主義主張に対しても、追従もしない、反対もしないということです。

SN-2-13-365

‘‘Hitvāna piyañca appiyañca, 
捨てて 好き・と ない・好き・と
anupādāya anissito kuhiñci;
ない・執着 無依は どこでも
Saṃyojaniyehi vippamutto, 
縛りから 自由となる人は
sammā so loke paribbajeyya.
正しく 彼らは この世を 遍歴するだろう

好みも好まないも捨てて
どこにいても
頼らず執着しない
束縛から解き放たれた人は
正しく世間を渡り歩くだろう。

解説

依存しているつもりはなくても、人はいつの間にか何かに依存しているものです。例えば、ちょっと好み(piya)の人の前で、いい人ぶってしまったりするのは、依存(nissita)です。好みの対象によく思われたいという「拠り所(原因)」がそこに生じています。

いい人ぶっているうちに、だんだん辛くなってきたら、それはもう束縛(saṃyojana)です。相手が「いい人」を求めているわけでもないのに、自作自演の束縛なのです。「好きな人が長い髪が好みだから、やってみたいけどショートは無理!」などは、わかりやすい束縛例ですね。

SN-2-13-366

‘‘Na so upadhīsu sārameti, 
ない 彼は 存在において 本質・至る
ādānesu vineyya chandarāgaṃ;
受け取る 訓練によって 愛着・情熱
So anissito anaññaneyyo, 
彼は ない・依存 他に・導かれない
sammā so loke paribbajeyya.
正しく 彼らは この世を 遍歴するだろう

訓練によって
愛着や愛情を抱いたり
存在に対して「私のもの」
と思うことのない人は
依存することなく
他者に導かれることもなく
正しく世間を渡り歩くだろう。

解説

upadhi:依著・執着。対象となる存在(人や物)に対して「私のもの」と執着することです。ここでは、ある存在が「私のもの」だという間違った実感を持つことはない、ということです。

SN-2-13-367

‘‘Vacasā manasā ca kammunā ca, 
言葉から 心から と 行為から と
aviruddho sammā viditvā dhammaṃ;
逆らわない人は  正しく 知って ダンマを
Nibbānapadābhipatthayāno, 
涅槃・歩み・求める人
sammā so loke paribbajeyya.
正しく 彼らは この世を 遍歴するだろう

言葉、思考、行為において
逆らわない人
ダンマを正しく理解して
涅槃の道を求める人は
正しく世間を渡り歩くだろう。

解説

言葉、思考、行為において逆らわない人」とは、いいことが起きても、悪いことが起きても、それに逆らったり、抵抗したり、争ったりすることなく、そのまま素直に受け止めて、自分がやるべきことをやる人です。

ダンマを正しく理解している人は、自分に起きる出来事は、すべて過去にした行為の結果だと理解しています。だから、ここで抗っても、また新たな結果を招くだけだと理解して、そのまま受け入れることができるのです。

かすかであっても「エッ? 」と反発してしまうのは、自分の心中に「私の言い方私の考え方私のやり方」があり、それとちょっと違う、と感じるからです。そう思って、日々の自分をよくよく見つめてみると、まあ、嫌になるほど、いちいち抗っているものです。

SN-2-13-368

‘‘Yo vandati manti nuṇṇameyya, 
彼は 尊敬する 意識・と 除去するように
akkuṭṭhopi na sandhiyetha bhikkhu;
罵られる・もし ない 結ぶ 比丘
Laddhā parabhojanaṃ na majje, 
得た 他から・食べ物に ない 夢中になる
sammā so loke paribbajeyya.
正しく 彼らは この世を 遍歴するだろう

尊敬されても意識せず
罵られても心に留めず
人からもらった食べ物に
喜びを感じない比丘は
正しく世間を渡り歩くだろう。

解説

majje(majjati):「夢中になる酔いしれる」という意味です。ここでは「喜んだりしない」と訳しましたが、この時の喜びは、大きく2種類あると考えられます。

まず1つめは、自分の楽しみとして食事に喜びを感じてはいけないのです。修行者にとって食事は、瞑想に必要な最低限のエネルギーを得るためのものです。楽しみだったり、満足感を得るためのものではありません。

2つめは、施してくれる相手のために、喜んではいけないのです。

托鉢は、簡単に言ってしまえば「物を乞う乞食行為」ですが、本当の意味では「施しの機会を与える行為」なのです。

僧や尼僧に施しをすることは、より善行であり、大きな徳を積むことになります。その行為の結果は、与えた時よりも大きな利益として、後で受け取ることができます。実は托鉢は、もらうためにするのではなくて、もらってあげるためにわざわざ出向く行為なのです。

家の前まで行けば、自分のことで精一杯の人でも、自分たちがこれから食べる食事の一部を、小鉢に一杯くらいは分け与えることもできるかもしれません。貧しい人でも、功徳を積むチャンスになります。この時、施しを受けた方は「ありがとう」とお礼を言ったり、喜んではいけないのです。お礼を言うべきは、施した方なのです。

徳には陰と陽の2種類があります。

陽徳は、良い行いを他者にして、直接感謝されることです。自分がしたこと(原因をつくった行為)の結果を、その場で直接受け取ります。一方で陰徳とは、見返りや礼を求めない良い行いです。人知れずにした行為は、その場で直接結果を受け取らないので、徳として蓄えることができます。これが「徳を積む」ということです。

だから施された方が感謝を返してしまうと、それが結果になってしまい陽徳になってしまいますが、お礼を言わず感謝しなければ、陰徳となるのです。「私ごときの感謝のエネルギーではなく、もっと大きなお返しをもらってください」という意味なのです。

人が為した行為は、それよりも大きくなって返ります。これは悪い行為でも善い行為でも同じです。そして悪人に善行をするよりも、善人に善行をする方が大きな善行為になります。

人が嫌がることをすれば、嫌なことが自分に返ってきます。人が喜ぶことをすれば、嬉しいことが起こるのです。何もしなければ、何も起こりません。「ウチには余裕がない」と言って、何も与えなければ、何も返ってこないのです。だからいつまで経っても「ウチには余裕がない」のです。

SN-2-13-369

‘‘Lobhañca bhavañca vippahāya, 
欲・と 生存・と 放棄すること
virato chedanabandhanā ca bhikkhu;
離れた 破壊・縛り そして 比丘
So tiṇṇakathaṃkatho visallo, 
彼は 超えた・疑いを 苦しみのない
sammā so loke paribbajeyya.
正しく 彼らは この世を 遍歴するだろう

束縛を断って離れた比丘は
欲と存在を放棄している
一切を疑うことなく
苦しみのない人は
正しく世間を渡り歩くだろう。

解説

欲に該当するパーリ語はたくさんありますが、lobha(ローバ)は、根本的な欲です。食欲も、よこしまな愛欲もすべてひっくるめてlobhaです。

一切を疑うことなく」とは、因果の法則が体験を通して理解できれば、疑うことはこの世には一切ない、ということです。そうは言っても、人はちょっとしたことで、すぐ疑ってしまうものです。

何気ない日常の中でも、「えっ、いま嫌な顔された?」「あれ、私、KYだった?」「なんか違った?」「もしかして嫌われた?」等々。私たちは、小さな疑いを振り払いつつ生きているものですが、この疑いはまったく必要ないものです。

嫌われたかもしれないし、KYかもしれないし、違ったかもしれませんが、どっちでもいいのです。そんなことで心を暗くせずに、いま自分にできること、やるべきことをやればいいのです。それが人の為になること、善いことであれば、何も気にすることはありません。

もし、間違っているように感じるのであれば、疑っていないで、さっさと確認すればいいだけです。そこでわざわざ疑って、思考を巡らす必要はないのです。これは人間の記憶のアップデート機能によるもので、自分に都合がいい記憶に書き換える作業ですが、心が汚れるだけです。

このスッタ集であげられていることは、いつものブッダの戒めですが、それなりに修行が進んだ人のためのものだと思います。

出家して山奥での修行中であれば、これらを実行することはそんなに難しくはありません。しかし、世俗の価値観の中を遍歴しながら、この心構えはなかなか大変なことです。聖なる道に入った人であれば、これは実践をもって、心を試し、ブラッシュアップするチャンスなのですね。

正しい遍歴②に続きます。