レディ・サヤドー『牛について』詳細②

牛についての詳細(続き)

菜食主義の非現実性

どこの国でも、ヴェジタリアンは少数派である。ブッダが僧たちに食肉を禁じれば、僧の大多数がヴィナヤの規則に違反することは避けられない。そうなれば、生活を営む上で違反が増えることになる。菜食にこだわる僧は民衆から反発され、生活が制限される。人々が彼らの要求を満たすことが難しくなる。この非現実的な点が、ブッダが『Vinaya Piṭaka』で菜食主義を広めることを妨げた理由である。

Vinaya Piṭakaでは、正しい肉が与えられるならば、肉食は許される。ヴィナヤの規則を守ることは、身体と声の不品行を浄化するだけであり、限定的である。それはまだ広い範囲を包含する精神的な悪の浄化の領域に達していない。スッタ・ピタカでは、倫理的な戒律と実践は精神的な領域に達する。それはすべての精神的悪をカバーする。精神的な悪が浄化されて初めて善が生じる。人は今、単なる道徳的、倫理的なものではなく、善となる。この達成は、感謝の心、慈愛の心、慈悲の心、共感する喜び、平常心といった要素が心に浸透しているからこそ可能なのである。善になるためには、心が邪悪なものから浄化されなければならない。

以上の説明は、概要でも簡単にした。牛や水牛への感謝については、正しい理解が必要だ。道徳心だけでは十分ではなく、精神的な清らかさ・純粋さが目標でなければならない。

38の祝福

恩や感謝を表すことは、Maṅgala Dhammā(マンガラ・ダンマー 38の祝福)にならうことである。これらの Maṅgala Dhammā を知り、理解すれば、牛肉などの肉への渇望はやがて減るだろう。誰もが動物の肉、特に牛や水牛の肉を食べないようにすべきである。『Suttanipāta スッタニパータ』『Temiya Jātaka テーミヤ・ジャータカ』、『Nārada Jātaka ナーラーダ・ジャータカ』の中で、ブッダは樹木や動物に対しても感謝の大切さを説いているので、学ぶべきだ。この道徳の戒律が間違った考えで損なわれないように。大きな慈悲が世の中に広がらなければならない。感謝の心はあらゆるところになければならない。

感謝することの大切さ

動物たちだって、母親や餌をくれる人に感謝している。彼らは食べ物を与えられると、愛と感謝を示す。野生の動物でさえ、人が親切に餌を与えれば飼いならされる。恩人を愛し、忠誠と献身を示す。肉食動物が牛を愛さず、礼を示さないのは不思議だ。動物の肉を食べているにも関わらず、肉食動物が感謝の気持ちを表さないのは驚くべきことだ。それでも動物は、人間に愛と感謝を示す。動物たちは人間に奉仕しているにも関わらず、その見返りとして優しさや感謝の気持ちを受け取ることがない。人間はあまり人情をみせない。

感謝・愛・思いやりの心は、野生のライオン、トラ、ヘビなどの猛獣にもある。村に生息する動物たちは人なつこくなり、人間に対して感謝の気持ちを示すようになる。それなのに、この3つの徳が人々の間に欠けていることが多い。仏教徒はこれら3つの善の要素を示すべきである。動物の労働によって暮らす者は、習慣的にこの3つの善の要素を養わなければならない。

信心は少ないが妄想は豊かな人々は、受けた恩恵に対する感謝の点で、上流階級と下流階級を区別する。その心は、クリアでも安定してもいない。だから、高位の人から受けた恩を、少額であるにも関わらず、たいそう褒め称える。事実を誇張して、恩着せがましく地位の高い人を称える。地位の高い人物を大袈裟に褒めるのだ。身分の高い人に対しては、その行いが小さいものでも、千倍もの感謝をもって謝意を表し、愚か者は大袈裟に誇張する。

愚か者は、格下の人間や存在から援助を受けたとき、その恩恵が大きいにも関わらず、感謝の気持ちを示さない。彼らは受けた恩恵の額を軽んじる。千ポンドの恩恵がたった25ポンドに減ってしまう。他人から受けた援助をまったく無視することもある。恩人に地位や権力、富などがない場合、彼らはさらに感謝を示さない。恩をあだで返し、受けた恩を隠す。恩人が困っていても助けようとしない。さらに彼らは疎んじたりする。恩人に恩を返したくないので、恩人が死ぬと喜ぶ。

だから動物への感謝は、たいてい拒否される。人が動物に対する恩を顧みたり、表したりすることは滅多にない。牛には地位がなく、口がきけない動物なので、人々は感謝の気持ちを示すことを怠る。そのため感謝の徳が薄れ、人間の虚栄心や愚かさが助長され、無慈悲さが広がる。人々は自分より上の階級にへつらい、下の階級の人々に偏見を持つようになる。権威のある人は分不相応な賞賛と大げさな感謝を受けるが、低階級の恩人は軽んじられるか、まったく無視される。

ブッダは、木に感謝することの重要性を説いた。パーリ語のテキスト『Yassa rukkhassa chāyāya』では、樹木のような感覚を持たないものに対しても、感謝の気持ちを持ち続けるよう教えている。人は樹木の下で庇護を享受しているのだから、樹木を破壊してはならない。人は思いやりのない言葉を口にすべきではない。これは Bodhisattas(菩薩たち:歴代のブッダ)やブッダの教えである。彼らは習慣的にこのを実践している。

感謝に値するさまざまな善行の中で、食物を与えることは最も高い地位にある。だから人間は牛に対して、両親に対するのと同じように感謝しなければならない。牛は私たちの父や母のようなものなのだ。人間が動物の助けを思うままに借りておきながら、その肉を食べることに喜びを感じるのは、とても不思議だ。老いた牛は殺されるか、屠殺場に送られる。動物にある感謝の心が、人間にはない。人々には真の信頼が欠如し、間違った考えが膨れ上がっている。感謝という真実に気づくのは難しい。肉食動物を見れば、慈愛と思いやりの欠如を理解できる。慈愛と思いやりの心を持たない人々は、善良な人間になるための基本的な特性である感謝の気持ちも捨てている。

愛と思いやり

感謝が生まれれば、愛と思いやりは必ず後からついてくる。肉を見れば、自分の両親の肉に見える。牛の肉は自分の兄弟や姉妹、息子や娘の肉に匹敵する。自分の両親の幻影が心に浮かぶ。だから人は、食べる代わりに必ず泣く。牛肉には手をつけない。過去の感謝が今、再び現れるのだから。これが善人の心と行いである。

一方で、飼い主が家畜の労働力を利用し、その肉を食べれば、家畜の名誉や尊厳は最低のものになる。人間は牛に限りない感謝の念を抱いているにも関わらず、その感謝の念が少しも現れない。肉を食べたいという人間の欲望が、あらゆる感謝を押しのけてしまうのだ。ブッダが7日間、悟りの木に感謝の念を捧げたことを思い出せば、牛に対するこのような振る舞いは理解しがたい。恩が頂点に君臨するのであれば、愚かさの深さは計り知れない。

目的は手段を正当化する

khattavijā-diṭṭhi を抱く人々は、目的が手段を正当化すると思っている。彼らは利己的な考えを持ち、有用性や利益といった現実的な配慮のみを優先する。肉食もこれに属する。ブッダの教えは愛と思いやりに基くものであり、これは感謝の気持ちから生まれたものだ。恩を重んじる考え方や行動を捨ててはならない。正しい態度をなくしてはならない。牛が与えた貢献を誰もが考慮すべきだ。そして次に考えなければならないのは、次のようなことだ。「もし牛が地位の高い人だったり、権威のある人だったりしたら、どれほど感謝の気持ちが増すことだろう! 牛から大きな貢献と乳を得ているにも関わらず、人々は牛を高く評価しない。もし牛に地位や階級があったなら!」

もし牛が地位の高い人だったら、誰もが牛に感謝の気持ちを示すだろう。人々は愛と優しさを最大限に示すだろう。牛を拷問したり殺したりすることは許されないだろう。牛の肉を見ることさえ憐れみを誘うだろう。このように思えば、愛と思いやりをもって、たくさんの感謝の念が牛たちに捧げられるだろう。この強い純粋な心によって、『Yassa rukkhassa chāyāya』の教えが実行される。それゆえ、善人の要素が実現されるのである。

欲望の力

食べ物に対する欲望は、犬やカラスさえも食べさせてしまう。最初は誰もカラスを食べようとはしなかった。カラスは汚れているとみなされるからだ。犬は汚いものを食べる。豚や鶏も汚いものを食べるが、人は豚肉や鶏肉などを楽しむ。馴染みがなければ、誰も人肉を食べようとはしないが、ひとたび食べ始めれば、日常的な料理となる。子供が生まれてすぐ、親は牛肉や鶏肉などを食べさせる。同じように、もしそのような習慣があれば、人々は自分の父や母をおいしそうに食べるだろうし、自分の息子や娘の肉を楽しむだろう。どんな食べ物でも、ひとたび慣れ親しんでしまえば、犬の肉でさえ美味しく感じるようになるのだ。

欲望の力には限界がない。食べ物に対する欲望は、官能的な快楽に対する欲望と同じように、絶えず新しい料理を試したがる。人間は犬のように欲情するようになる。セックスや食べ物に対する抑えきれない肉欲は、動物を見れば明らかだ。根本的な原因は欲望であり、人間と動物の間に特別な違いはない。だから感謝の気持ちを忘れずに、牛や水牛の肉を食べないようにしなければならないのだ。

感謝の祝福

スッタニパータの中で、ブッダはこう教えている。(SN-2-7-298)

yathā mātā pitā bhātā, 
aññe vāpi ca ñātakā

その意味は、牛や水牛は、米や他の食物を与えてくれる存在であり、生きる力を与えてくれる存在である。牛や水牛は生きる力を与えてくれる存在であり、父や母に匹敵する。もし両親の肉を食べることができる人なら、肉も食べるだろう。両親の肉を食べたくないのであれば、肉を食べることを控えるべきである。もしある人物が自分の親を食べたと聞けば、人でなしの怪物、狂人、人喰い人種とみなされるだろう。同様に、牛や水牛の肉を食べる人と聞いたなら、その人は怪物、狂人、野蛮人だと判断できる。

どうしてか? なぜなら、自分の両親は自分に命を与える人であり、恩人だからである。牛も水牛も同じだ。恩人の肉は食べてはならない。自分の親や兄弟姉妹を食べる者を野蛮な人喰い人種だと非難するのは当然だろう。牛は私たちに命を与えてくれるのだから、同じ批判を肉食者にも向けるべきである。私たちは牛に、両親に対するのと同じような大きな恩があるはずだ。私たちは、牛が人間に尽くしてくれていることを思い、牛を愛するべきである。人類への多大な奉仕を考えれば、彼らは私たちの尊い愛と憐れみを受けるに値する。