レディ・サヤドー尊者は1886年、モニワの長老たちの要請を受けて、『牛のための嘆願書』を書きました。
牛のための嘆願書
現代(1886年頃)は、過去の悪い khamma(カンマ)の蓄積による残忍で非人道的な行為を目の当たりにする。まるで復讐のために Viṭaṭūbha に殺害されたブッダの親族が被ったような大惨事が起きている。罪を犯した者も罪のない者も、老いも若きも残酷な死に苦しみ、釈迦族の国全体が崩壊した。ブッダは釈迦族の王子に3度、民衆が平和に暮らせるようにと訴えたが、釈迦族の過去の悪しきカンマは大きすぎて、ブッダの度重なる介入でも相殺できなかった。彼らは過去に深刻なカンマを行い、それがまさに、結実しなければならなかったのだ。ダンマパダの注釈書(47節)には、この話が詳しく書かれている。その教訓は、神でさえも悪いカンマを許すことはできないということだ。最高の善いカンマだけが悪いカンマを浄化できる。
Viṭaṭūbha:コーサラ国の王子 Viḍūḍabha(ヴィルリ王子)。ダンマパダ4章47の注釈書によると、ヴィルリ王子は、コーサラ国王パセーナディと、釈迦国から嫁入りした Vāsabhakhattiyā(釈迦族の首長 Mahānāma と下女 Nāgamundā との間に生まれた美女)との間にできた息子です。王子は、祖父(マハーナーマ)と祖母(ナーガムンダー)に会いたがっていましたが、母ヴァーサヴァカッティヤーは、彼が祖父と祖母を訪ねるのを拒み続けました。しかしある日、母はついに屈服し、何も知らない王子は祖国を訪れました。釈迦の国では、彼は期待したような温かい歓迎を受けず(奴隷の娘の息子だったから)、母親の正体を知って気分を害しました。「釈迦族の指導者が、召使いに生ませた娘から生まれた」と釈迦族の者たちが馬鹿にするのを聞いて、父・母・釈迦族を憎み、釈迦族を滅ぼす決意をしました。王になった息子は、一族のほとんどを殺してしまいます。彼の軍隊は川のほとりに陣取りました。その夜、大雨が降り、川は増水して王とその軍隊を海へと流され、溺れ死んでしまいました。
執念深い王子はというと、彼もまた、川で溺れ死ぬという悪い結果を被った。彼は最終的に魚やカメの餌になった。怒りが、彼を破滅させたのだ。このように、過ちに仕返しするということは、両者がその悪行のために苦しまなければならなくなる。ブッダは、人類が感謝という赦しを示したときに、進歩と繁栄がもたらされると説いている。人間は繁栄と長寿のために、4つのBrahmavihāra(神聖なる宿り)を発展させなければなりません。感謝のダンマは、愛・思いやり・共感の喜び・平静を実践するための基本である。
Brahmavihāra(ブラフマヴィハーラ):Mettā(メッター・友愛)、karuṇā(カルナー・思いやり)、muditā(ムディター・共感の喜び)、upekkhā(ウペッカ・平静)の4つの精神状態のことです。Brahmavihāraとは、文字通り「ブラフマーの宿り」という意味で、これらの精神状態は、ブラフマーの住処であるため、これらを実践すると、文字通りブラフマーの意識に触れることになります。賢人は、常にこれらのどれかに留まっているそうです。
牛に危害を加えたり、牛の肉を食べたりする者は、貧困と転落に苦しむ。恩知らずのために、彼らは現在、様々な危険に直面している。将来被る危険は、現在の行いによって決まる。
4つのブラフマヴィハーラは、世界の伝統的な守護者である。これらは、人間であれ動物であれ、他者に対して深い愛を抱いている。飢饉・テロ・戦争・自然災害・薬物使用など、世界の状況は悪化の一途をたどっている。仏教国でさえ、牛に対する過酷な扱い、牛の殺処分、牛肉の食用などが見られる。非仏教国では、不殺生戒どころか食肉取引を奨励している。
武器・家畜・食肉・毒物・酩酊物(酒や薬)を取引する職業は避けるべきである。この道徳の原則は、世界中でよく知られているにもかかわらず、ほとんど守られていない。人々は思いやりに欠け、悪人になる。富と権力への貪欲さは増すばかりだ。そのため、彼らは今でさえも飢えた霊体(ペタ)に似ている。利己的な目的だけを追い求め、動物のように振る舞う。あまりにも高慢だ。動物の助けに依って生計を立てているにも関わらず、動物を殺し、拷問し、食べる。さらには、動物をスポーツの対象にさえする。牛は人間の親友である。その恩はあまりにも大きく、肉屋と畜産業者は地獄に落ちる。
肉食者は、殺生を肯定すれば、肉屋や畜産業者と同じ罪を負うことになる。畜産農家や畜産業者の繁栄を賞賛すれば、肉屋と同じようなカンマが生じ、それに伴う悪い結果が生じる。時には、加害者よりも賛同者や支援者の方が罪を負うこともある。それは心の状態による。ここでの重大な過ちは、正義と正しさを破壊することである。その見方は間違っていて、この世で最大の誤ちだ。これらの事実は、『Vibhaṅga(分別論)』とその注釈書に説明されている。
買い手は売り手に依存し、売り手は買い手に依存する。買い手は売り手の産物を楽しむことで売り手を助ける。特に食品に関しては、売り手は買い手に依存しなければならない。お金はさらなる殺戮のために使われる。そのため、殺処分の増加によって絶滅の危機に瀕している動物種もある。
人間は肉欲に駆られる
人間はダンマを無視して好きなように肉食を楽しんでいる。貪欲さは、牛の肉を食べることさえも強要し、恩知らずという重大な悪事には目をつぶる。生計を立てるために、悪事を見過ごす。この不道徳な生計のために、現世の利益のために、将来は下界で深刻な影響を受ける。
肉は人間の身体と脳を改善すると主張する人々がいる。肉は健康に不可欠だというのだ。しかし、パーリ語のテキストによれば、健康は、過剰なものを排除したバランスの取れた生活にかかっている。肉が不可欠かどうかは問題ではない。自制なく肉を食べる人は病気になる。『スッタ・ピタカ』や『ダンマパダの注釈』『ジャータカ註解』などにそのような事例が述べられている。だから、人は言い訳をしてはならないし、グルメの道に沿うべきでもない。食事は、野菜・ギー(バターオイル)・牛乳を基本に、タンパク質として少量の肉を摂るべきである。健康は控えめな食事によって改善される。
肉食を避けることはできなくても、満足と簡素な生活の徳を実践するよう努めるべきである。すべての Bodhisattas(菩薩たち:歴代のブッダたち)は、これらの徳が最高の悟りへと導くものであるとして、最も高く評価している。集中力と英知を得るために、美味しいものへの情熱を抑えることは、誰にとっても道徳的である。食べ過ぎは精神的な雑念を増大させる。Bodhisatta(菩薩:歴代のブッダ たちのひとり)は、カラスの王であった時も、本来は他の動物を食べなければならないが、自分の食習慣を制限しようとした。彼は、より高い精神状態に到達するための誓いと善い決意を表した。
頭の悪い動物は自分を守れない
動物は口がきけないので、自分の身を守ることができず、黙って苦しむしかない。牛の労働によって富が得られるにもかかわらず、多くの人々は負債を示さない。水稲、落花生、ゴマ、野菜などは、牛が土地を耕すことによって得られることを忘れてはならない。農民は牛の助けを必要としている。感謝の念がないから、牛の肉を喜んで食べるのだ。もし牛が話すことができれば、この野蛮な犯罪は暴かれるだろう。
牛が国の福利に役立つさまざまな方法を考えてみよう。肉食の残酷な性質は、不義の悪をも示している。不義を行う人々は、感謝の気持ちを捨て、牛に十分でない、あるいは粗末な餌を与える。牛は恩知らずの人々と暮らすより、虎の巣穴で死んだ方がましなのだ。不義な人間のもとでの牛の悲しい運命は、筆舌に尽くしがたい。生きている間、過度の労働は牛にほとんど休息を与えない。死ぬとき、あるいは殺されるとき、牛は人間の食料となる。正義を維持するために、彼らには優しさを示すべきである。人類は正義を守るべきである。悪が世界を支配するとき、恩知らずの行為が顕在化する。動物、特に人間の助け手に対する優しさによって、災難は避けられる。正しい考えを持つ者は牛を愛する義務がある。食べ物を選ぶ際には、正義を尊重しなければならない。これは些細なことではない。不正の深刻さは仏陀の教えの中に示されている。
正しい理解と思いやりに基づいて、人間は牛肉を食べることを避けるべきである。知恵や道徳だけでなく、善人としての美徳を身につけることが肝要である。世界は混乱と対立の中にある。環境と動物に対する恩義と感謝の気持ちを、人間は自覚しなければならない。自然と調和して生きることが、平和と繁栄を実現する唯一の方法なのだ。
終わり
レディ・サヤドーはビルマ各地を巡教する中で、食用に牛を殺してはいけないと人々に呼びかけ、菜食主義を奨励しました。その一方でブッダが、比丘の肉食を禁止しなかったことにも触れています。ブッダの時代、世俗の人々にとって肉食は当たり前でした。もし、比丘たちに肉食を禁じれば、托鉢で得る食べ物を選り好みをすることになりますが、それでは食事に支障をきたします。いただいくものを何でも有り難く残さずにいただかないと、各地を巡礼して教えを広めることができなくなってしまいます。だからブッダは、肉食を禁じなかったのです。
日本に広まった大乗仏教の流れでは、このブッダが肉食を禁じなかった部分のみを取り出して、その時代背景を無視して、現代でも肉食はもちろん酒すらも禁じていません。現代の日本であれば、肉食を禁じても布教に何ら問題はないでしょう。
比丘にとって最も大切なことは「感謝と足るを知る」ことです。日々の糧となる食べ物を与えてくれる布施者への感謝、その食べ物をつくるため、運ぶために貢献してくれる動物への感謝。その他、食べ物が口に入るまでには、さまざまな生き物の協力があって、自分がその食べ物をいただくことができる、ということへの気づきが配慮となり、結局は自分に還るということです。
ブッダはあらゆる物事において、自制と節度を重んじました。弟子たちには、茶碗や衣の手入れをきちんとすること、托鉢でいただいた食べ物を大切に食べること、住居の掃除や修繕をすること、樹木や植物を傷つけないことを教えました。これがブッダの真の規律です。難しい話ではないのです。