『Vipassanā Dīpanī(ヴィパッサナーの手引き)』は、1915年2月にレディ・サヤドーがヨーロッパの仏教徒のために執筆したものです。当サイトの翻訳は、スリランカの長老 U Ñāṇa が1961年に英訳し、Buddhist Publication Society(スリランカ)より出版された『Manual of Insight』の第2版を翻訳しました。
「Vipassanā(ヴィパッサナー)」とは、心の内側を観察する洞察瞑想のことですが、坐っている時だけでなく、起きている時も寝ている時も、常に心の動きに気づき続ける「内観・洞察力」の修行法です。 ヴィパッサナーの基礎知識はこちら
※ 本文中の青色文字は、当サイトの補足です。
ヴィパッサナー(内観・洞察)の解説
3つの錯覚
Vipallāsa とは、錯覚・妄想・誤った見解、あるいは真実であるものを虚偽とし、虚偽であるものを真実とすることを意味する。
錯覚には3種類ある。
Saññā-vipallāsa:知覚の錯覚
Citta-vipallāsa:思考の錯覚
Diṭṭhi-vipallāsa:見解の錯覚
この3つのうち、知覚の錯覚は4つある。
誤った認識:
- 無常を永続と見なす
- 不純を純粋と見なす
- 苦しみを幸福と見なす
- 無我を自我と見なす
思考と見解に関する残りの2つの錯覚も同様。
これらはすべて、「これは私のもの! これは私自身 生きている魂だ」という3つに分類できる。この3種類の錯覚はそれぞれ、野生の鹿、マジシャン、道に迷った男のたとえで説明できる。
野生の鹿
これは知覚の錯覚を説明するための、野生の鹿のたとえ話である。
大きな森の真ん中で、ひとりの農夫が水田を耕していた。農夫がいない間、野生の鹿が田んぼにやってきて、たびたび穀物の若芽を食べていた。そこで農夫は、鹿を追い払うためにワラを人の形にして、田んぼの真ん中に立てることにした。
ワラを縛り、頭、手、足のある胴体のような形にし、白い石灰で壷に人の顔の輪郭を描き、胴体の上に置いた。さらに、その人形に古着を着せ、その手には弓矢を持たせた。すると、いつものように鹿が若芽を食べに来たが、人形を見つけると、本物の人間だと勘違いして怖がって逃げてしまった。
このたとえでは、野生の鹿は以前に人間を見たことがあり、人間の形や姿を記憶していた。そして現状の知覚に則って、鹿はワラ人形を本物の人間だと認識したが、この知覚は誤りである。知覚の錯覚は、この野生の鹿の話に示されている通りで、非常に明快で理解しやすい。
この種の錯覚は、道に迷い、自分がいる場所の東と西の方角をわからず、困っている男の場合にも当てはまる。いったん間違いが生じると、間違いは非常に強固になり、取り除くのは非常に困難となる。自分自身の中にも、無常や無我の境地とは真逆の意味で、常に誤って理解しているものがたくさんある。野生の鹿が目を見開いても、ワラ人形を本物の人間だと思うのと全く同じである。
マジシャン
次は思考の錯覚を説明するための、マジシャンのたとえ話である。
注:英訳は magician となっているが、おそらく催眠術師のことだと思われる
マジックと呼ばれる見せかけの術がある。大勢の人の前で土の塊を見せると、それを見た人は皆、金や銀の塊だと思い込む。
マジックの力は人から通常の見る力を奪い、その代わりにある種の錯覚を与える。こうして、いわば一時的に心を支配することができる。人が自分自身を支配できている時には、土の塊はありのままに見える。しかし、このマジックの影響下では、土の塊を金や銀の塊として、その輝き、黄色っぽさ、白さなどのあらゆる性質とともに見える。こうして人々は信じ込み、観察や観念を誤ることになる。これと同じように、私たちの思考や考え方も、誤ったものを真実だと思い込む習慣がある。例えば、夜、私たちはしばしば、本当は木の切り株を見ているのに、人を見たように錯覚する。また、茂みを見て野生の象を見ていると錯覚したり、野生の象を見て茂みだと錯覚したりする。
この世界では、私たちの観察範囲にある物事についての誤った考えはすべて、思考の錯覚の作用によるものである。この錯覚は知覚の錯覚よりも深く、理解するのが難しい。しかし次の見解の錯覚ほど、強く根付いているわけではないので、調べることで、あるいは物事の原因や状況を探ることで、容易に取り除くことができる。
道に迷った男
これは見解の錯覚を説明するための、道に迷った男のたとえ話である。
魔物が棲みつく大きな森があり、魔物たちはそこに町や村を作って暮らしていた。道に迷ったひとりの旅人が、その森に迷い込んできた。魔物たちは、町や村をデーヴァ(天神)界のように立派に仕立て、男女のデーヴァの姿をしていた。道もデーヴァ界の道と同じように心地よく美しいものにした。旅人はそれを見て、この美しく快適な道が大きな町や村に導いてくれると信じ、正しい道から外れて誤った道をたどり、悪魔の町にたどり着いて、苦しむことになった。
このたとえ話では、大きな森は3つの世界(感覚的存在の界=欲界、微細な物質的存在の界=色界、非物質的存在の界=無色界)を表している。旅人とは、これらの世界に住むすべての存在のことである。正しい道とは正しい見解であり、誤った道とは誤った見解である。ここで語られる正しい見解は、2種類ある。すなわちこの世に関係する見解と悟りに関係する見解である。この世に関係する見解とは、「すべての存在が自分の行為の主であり、道徳的な行為も非道徳的な行為も、自分で犯したものはすべて自分のものとなり、長い人生の全行程を通じて自分について回る」という正しい見解を意味する。
悟りに関する見解は、「因果の発生、集合体、感覚基底、無我の教義を知ること」を意味する。この2つの見解のうち、前者は諸行無常への正しい道である。人間やデーヴァ、ブラフマーが住む幸せな世界は、善良な人々の町のようなものである。
誤った見解は、倫理に反した不道徳を行っておきながら、その結果や影響を否定するものであり、間違った迷い道のようなものだ。不幸な世界、つまり動物や餓鬼、阿修羅たちが住む苦しみの世界は、悪魔たちの町のようなものである。
悟りの要因の1つである知識の正しい見解は、輪廻転生から抜け出す正しい道のようなものだ。ニッバーナは善人の町のようなものである。
「私の身体」や「私の魂」という見解もまた、間違った、誤解を招く道のようなものである。このように考えると、人間、デーヴァ、ブラフマーの住む世界、あるいは絶え間なく更新される存在は、悪魔の町のようなものである。
前述の誤った見解も同様に錯覚に属し、思考の錯覚よりも深く、より強固に定着している。
3つの妄想
maññanā(マニャーニャー)とは妄想・自己中心的な推測・大袈裟な想像、あるいはありもしないものをあるかのように思い込むことを意味する。無知によって錯覚が生じ、錯覚によって妄想が生じる。
妄想には3種類ある。
1. Taṇhā-maññanā:渇望による妄想
2. Māna-maññanā:自己中心的な考えによる妄想
3. Diṭṭhi-maññanā:誤った見解による妄想
「1. 渇望による妄想」とは、強い想像力を意味する。「これは私のものだ! これは自分のもの!」と現実には「私のもの」でも「自分のもの」でもないものに執着することである。厳密な真実では「私」は存在せず、「私」が存在しない以上、「私のもの」も「私自身」も存在し得ない。個人的なものも非個人的なもの(外のもの)も、「これは私のものであり、他のものは私のものではない。これは自分のものであり、他のものは自分のものではない」と強く想像して区別する。このような想像と妄想による区別を「渇望による妄想」と呼ぶ。
「個人的なもの」とは、自分自身の身体や器官を指す。「非個人的なもの(外のもの)」とは、父、母など自分の人間関係や自分の所有物を指す。
「2. 自己中心的な考えによる妄想」とは、「私」や「私は」と表現される個人的な対象に対する強い想像である。それが個人的な属性や非個人的なものによって、支持されたり助長されたりすると、強気で傲慢になり、思い上がった妄想を抱くようになる。
ここでの個人的な属性とは、目・耳・手・足・徳・直感・知識・力の保持などの活力を意味する。非個人的なものは、家族、人間関係、環境、住居、所有物などの豊かさを意味する。
「3. 誤った見解による妄想」とは、個人的なものを「私の肉体の構造、私の主義、私の魂、私という存在の実体や本質」として過大評価することを意味する。「土鍋」や「陶器の鉢」といった表現は、土がこれらの鍋や鉢を構成する物質であると理解され、土から作られて、器状に成形された土そのものを、改めて鍋や鉢と呼ぶ。「鉄鍋」「鉄鉢」などといった表現も、鉄が鉄鍋や鉄鉢を作る物質であることが理解され、鉄によって作られ、器状に成形された鉄そのものを、改めて鍋や鉢と呼ぶ。このように土や鉄が器を作る物質であるのとまったく同じように、生命体の物質も、個体に関係する土の要素であり、延長上の要素であると仮定される。: 延長上の要素が生き物であり、延長上の要素が「私」である。ここで延長上の要素に関連して語られていることは、まとまりの要素や液体の要素、その他身体的存在に見られるすべての要素に関連して理解されるのと同じである。これについては、さらに詳しく説明する。
この3種類の妄想は、強くしっかりと掴む力を表して、3種類のガーハ(gāha 固執)または3種類の束縛とも呼ばれる。それらはまた、誤った行為を増長し、徐々に、しかし絶え間なく、あらゆる限界を超えて増大し、決して止まらない傾向があるため、3つのパパンチャ(papañca 妄想)または、3つの誇張とも呼ばれる。