究極の現象には、物質的な現象と精神的な現象の2種類があり、物質的な現象は28種類でした。続いて精神的な現象の分析です。
精神的な現象
精神的な現象には54種類がある。
citta(チッタ):心、または意識
cetasika(チェターシカ):心の性質、またはそれに伴うもの52種類
nibbāna(ニッバーナ):輪廻からの解脱
Cittaとは、対象(ārammaṇa)を調査する能力、対象を所有する能力、対象を知る能力、対象を意識する能力を意味する。Cetasikāは意識の要因、または心から生まれた精神的特性、または心の付随物である。Nibbānaとは、あらゆる苦しみからの解放を意味する。
意識(Citta 心・意識)
意識は6つに分類される
- 見る意識
- 音の意識
- 嗅ぐ意識
- 味わう意識
- 触れる意識
- 心の意識
このうち
- 眼に生じる意識は視覚の意識と呼ばれ、見る機能を持つ
- 耳に生じる意識は聴覚の意識と呼ばれ、聴く機能を持つ
- 鼻に生じる意識は嗅覚と呼ばれ、匂いを嗅ぐ機能を持つ
- 舌に生じる意識は味覚と呼ばれ、味わう機能を持つ
- 身体に生じる意識は触覚と呼ばれ、触れる機能を持つ
- 心に生じる意識は、意識と呼ばれる。非物質的世界(arūpa-loka)では、心の意識は肉体の基盤なしに生じる。
また、心(意識)は4種類に細分化される。
i. Kāma(カーマ)意識
ii. Rūpa(ルーパ)意識
iii. Arūpa(アルーパ)意識
iv. Lokuttara(ロクッタラ)意識
カーマ意識とは、感覚的な欲の世界(Kāma loka)で優位な欲の支配下にある。健全(kusala)・不健全(akusala)・結果(vipāka)・無為(kriyā)の4種類がある。
ルーパ意識とは、感覚的な欲から自由になったものの、依然として微細な物質界にはびこる願望(色界への執着)の支配下にあるジャーナの心である。これは健全・不健全・無作為の3種類がある。
アルーパ意識もまた、微細な物質に対する願望から自由になっているが、依然として非物質界で優位な欲(無色界への執着)の支配下にあるジャーナの心である。これも健全・不健全・無為という3種類がある。
ロクッタラ意識(超世俗意識)とは、三界の欲から自由になり、カーマ・ルーパ・アルーパの三界を超越した聖なる心(ariya-citta)のことである。これは2種類ある。(流れに入ったなど)道半ばの聖なる意識と、(流れに入ったなど)成就した聖なる意識である。
注)Vipāka = kammaの結果=さまざまな因縁によって生じた現象=有為(絶えず消滅して無常)。Kriyā = kiriyā=自然のままで作為がないこと。因縁によって生じたものではないもの=無為(因縁の世界を超越した消滅変化しないもの)。「流れに入った」とは、悟りの4段階に入ったという意味で、道半ばの聖なる意識は第1〜3段階、成就した聖なる意識は最終段階に到達したという意味
心の性質(cetasika)
心の性質は52種類ある。
7つの共通の性質
意識のすべての段階に共通しているので、7つの共通の性質(sabba-citta-sādhāraṇa)という。
- Phassa:接触
- Vedanā:感覚
- Saññā:知覚
- Cetanā:意志
- Ekaggatā:一点集中の心
- Jīvita:精神生活
- Manasikāra:注意
6つの特殊な性質
特定のタイプの意識にのみ見られる特徴なので、6つの特殊な性質(pakiṇṇaka)という。
- Vitakka:初めの働きかけ
- Vicāra:働きかけの持続
- Viriya:努力
- Pīti:楽しいことへの関心
- Chanda:〜したいという欲求
- Adhimokkha:決断
上記の13の精神的な性質は、道徳的な意識とも非道徳的な意識とも混ざり合うことができることから、「混合型(vomissaka)」という。Shwe Zan Aung はこれらを「不健全な性質」としている。
注)Shwe Zan Aung:レディ・サヤドーの時代に活躍した仏教学者。アビダンマを初めて英語に翻訳した人
14の不健全な性質
14の不健全な性質(akusala)は以下の通りである。
- Lobha:強欲
- Dosa:嫌悪
- Moha:鈍さ
- Diṭṭhi:錯誤
- Māna:驕り
- Issā:妬み
- Macchariya:利己主義
- Kukkucca:心配
- Ahirika:恥知らず
- Anottappa:無謀
- Uddhacca:注意散漫
- Thīna:不精
- Middha:眠気
- Vicikicchā:疑惑
25の健全な性質
25の健全な性質(sobhana)は以下の通りである。
- Alobha:無欲
- Adosa:友愛
- Amoha:理性
- Saddhā:信心
- Sati:マインドフルネス
- Hiri:謙虚
- Ottappa:分別
- Tatramajhattatā:心のバランス
- Kāyapassaddhi:身体的な落ち着き
- Cittapassaddhi:心の落ち着き
- Kāyalahutā:身体の軽さ
- Cittalahutā:心の軽さ
- Kāyamudutā:身体の柔軟性
- Cittamudutā:心の柔軟性、
- Kāyakammañatā:身体の適応性
- Cittakammaññatā:心の適応性
- Kāyapaguññatā:身体の巧みさ
- Cittapaguññatā:心の巧みさ
- Kāyujukatā:姿勢の正しさ
- Cittujukatā:心の正しさ
- Sammā-vācā:正しい言論
- Sammā-kammantā:正しい行為
- Sammā-ājīva:正しい生活
- Karuṇā:同情
- Muditā:ねぎらい
注)心の性質の詳細な説明が続きます。
7つの共通の性質
- Phassa(パッサ)とは、接触という意味であり、接触とは、対象物を押して、快・不快の「活液」を生じさせる能力を意味する。つまり接触は、精神的性質が立ち上がる際の主要な原理であり、原動力である。もし活液を絞り出すことができなければ、どんな対象も使い物にならない。
- Vedanā(ヴェーダナー)とは、フィーリングのことであり、Phassaによって絞り出された活液の風味を味わう能力のことである。あらゆる生き物が感覚にひたっている。
- Saññā(サンニャー)とは、知覚を意味し、知覚する行為である。あらゆる生き物が、自分のやり方、習慣、信条などに従って物事を十分に明確に知覚すれば、この知覚によって賢くなる。
- Cetanā(チェータナー)とは、意志つまり精神的付随物の活動を決定し、それらを調和させる能力を意味する。世間の一般的な会話では、ある作品を監督する人について、その人はその作品の作者だ、と言うのが普通である。私たちは通常、「ああ、この仕事はあの人がやったものだ」とか、「これはあの人の偉大な仕事だ」などと言う。これは物事の道徳的な面に関しても、同じことが言える。意志は行為(kamma)という精神的付随物の活動を決定し、身体・言葉・心のすべての行為を監督するからである。現世の繁栄がすべて、身体・言葉・心を用いて行った努力の結果であるように、新しい存在の境遇もまた、以前の存在で行った意志の結果である。土、水、山、木、草などはすべて温度の要素から生まれ、それらはすべて kamma によって生まれるので、意志の産物、あるいは kamma の要素と呼ぶのが適切だろう。
- Ekaggatā(エカッガター)とは、一点集中を意味する。集中(三昧)ともいう。ジャーナと呼ばれる超常的な心のモードに到達する jhāna-samāpatti で顕著になる。
- Jīvita(ジーヴィタ)とは、精神現象の生命を意味する。これは心的現象の継続を維持する上で非常に重要である。
- Manasikāra(マナシカーラ)とは、注意を意味する。その働きは、望む対象を意識の視野に入れることである。
これら7つの要素は、すべての意識の構成要素に常に含まれるため、共通の性質と呼ばれる。
6つの特殊な性質
- Vitakka(ヴィタッカ)とは、心の初動を意味する。その働きは、心を調査対象に向けることである。願望(saṅkappa)とも呼ばれ、正しい願望(sammā-saŅkappa)と間違った願望(micchā-saŅkappa)の2種類がある。
- Vicāra(ヴィチャーラ)とは、心を持続的に働かせること。その働きは(考察や反省などによって)心を対象に向け続けることである。
- Viriya(ヴィリヤ)とは、行動における心のエネルギーや努力を意味する。正しい努力と間違った努力の2種類がある。
- Pīti(ピーティ)とは、心の快楽的な興味、心の高揚感や満悦を意味する。
- Chanda(チャンダ)とは、「行きたい」「話したい」などの「行いたい」という欲求を意味する。
- Adhimokkha(アディモッカ)とは決定、つまり文字通り、対象から心が離れたことを意味する。「そうなのか」「そうではないのか」という2つの方向性の間で、揺れ動く状態からの心の解放を意味する。
これら最後の6つの心の特性は、すべての意識のレベルに共通するわけではなく、場合によっては、その構成要素に数種類ずつ入り込んでいる。それゆえ、これらは特殊な性質と呼ばれる。また、健全な意識と不健全な意識の両方を構成するので、両者を合わせて混合型と呼ぶ。
不健全な性質
- Lobha(ローバ)とは、倫理的な意味では貪欲だが、心理学的には「物に対する心の執着」を意味する。時には渇望(taṇhā)、貪欲(abhijjhā)、欲望(kāma)、官能的な情熱(rāga)と呼ばれることもある。
- Dosa(ドーサ)とは、倫理的な意味では憎しみだが、心理学的には「対象に対して心が激しくぶつかること(すなわち対立)」を意味する。嫌悪(paṭigha)と悪意(vyāpāda)という2つの別名がある。
- Moha(モーハ)とは、鈍さ・理解の欠如を意味する。無智(avijjā)、不知(añāṇa)、不見(adassana)とも呼ばれる。
上記の3つは、すべての不健全の主たる原因であるため、3つの不健全な根と呼ばれる。
- Diṭṭhi(ディッティ)とは、哲学の問題における誤りや間違った見方を意味する。無常を永続とみなし、無魂を魂とみなし、道徳的な活動を不道徳な活動とみなしてしまう。
- Māna(マーナ)とは、驕りや間違った評価を意味する。それは名前と形(nāma-rūpa)を「私」であると誤って想像し、その人が属するカースト、信条、家族などに応じて、それを高貴なもの、あるいは無価値なものとみなしてしまう。
- Issā(イッサー)とは、妬み・感謝の欠如・他人の人生の成功を祝福する気持ちの欠如を意味する。また、他人の欠点を見つける性質も意味する。
- Macchariya(マッチャリヤ)とは、利己主義・意地悪・他人と分かち合いたくないという意味。
- Kukkucca(クックッチャ)とは、悪い行いをしたこと、あるいは正しい行いをやり残したことに対する心配・不安・過度の自責の念を意味する。すなわち悪い行いをすることと、功徳ある行いをしないことだ。また、後悔の仕方にも2通りあり、「私は悪いことをしてしまった」「私は慈悲や美徳などの功徳ある行いをやり残した」と後悔する。「愚か者はいつも、すべてが終わってから計画を立てる」ということわざがある。心配事には、忘れ物に関しするものと、悪事に関するもの、つまり「作為のない罪」と「作為のある罪」の2種類があるのだ。
- Ahirika(アヒリカ)とは、恥知らずという意味である。悪事を犯そうとするとき、恥知らずな者には、「こんなことをしたら自分が堕落してしまう」とか、「このことを誰かに知られてしまうかもしれない」といった羞恥心が生じない。
- Anottappa(アノッタッパ)とは、自責(「私は愚かだった、私は悪いことをした」など)、他人からの非難、支配者から与えられる現世での罰、来世の不幸の世界で受ける罰などの結果について、まったく無謀であることを意味する。
- Uddhacca(ウッダッチャ)とは、ある対象に対する心の落ち着きのなさや散漫を意味する。
- Thīna(ティーナ)とは、無気力、つまり対象に対する心の意識の薄れを意味する。
- Middha(ミッダ)とは、精神的性質の怠け、すなわち、接触、感情など、それぞれの精神的性質の能力の鈍さを意味する。
- Vicikicchā(ヴィチキッチャー)とは、迷いや疑惑を意味する。
上記の14種類は不健全な状態(akusala-dhamma)と呼ばれ、それらは実際に不健全である。
健全な性質
- Alobha(アローバ)とは、対象に対して関心を抱かない心を意味する。放棄(nekkhamma-dhātu)、自由(anabhijjhā)の要素とも呼ばれる。
- Adosa(アドーサ)友愛とは、健全な意味で対象に心を寄せる、純粋な心を意味する。無意志(avyāpāda)、慈愛(mettā)とも呼ばれる。
- Amoha(アモーハ)とは、物事をありのままに知ること。知識(ñāṇa)、智慧(paññā)、真の知識(vijā)、正しい見解(sammā-diṭṭhi)とも呼ばれる。
これら3つは、すべての健全さの主たる源であるため、3つの健全な根と呼ばれる。
- Saddhā(サッダー)とは、信じるべきものに対する信心を意味する。
- Sati(サティ)とは、善行を忘れないよう、常に心を配ることを意味する。
- Hiri(ヒリ)とは、慎み深さを意味する。つまり、悪行をしていることが知られるのを恥じて、悪行をするのをためらうことである。
- Ottappa(オッタッパ)とは、道徳的な恐れを意味する。すなわち、自己の非難、他者からの非難、現世や不幸な世界での罰を恐れて、悪行を行うことをためらうことである。
- Tatramajhattatā(タトラマジャッタター)とは、心の均衡、つまり対象物に固執も反発もしない心の様子である。これは崇高な住処の平静(upekkhā-brahmavihāra)、悟りの要素に関わる平静(upekkhā-sambojjhaṅga)と呼ばれる。
- Kāyapassaddhi(カーヤ・パッサッディ)とは、身体的な落ち着きを意味する。
- Cittapassaddhi(チッタ・パッサッディ)とは心の落ち着きを意味する。落ち着きとは、善行を行う際に煩わしさを引き起こす3つの不健全な根から解放され、精神的な性質が休息し、冷静になったことを意味する。
- Kāyalahutā(カーヤ・ラフター)とは、身体的な軽さを意味する。
- Cittalahutā(チッタ・ラフター)は、心の軽さを意味する。軽さとは、善行を行う際に重荷となる不健全な性質から解放され、精神的な性質が軽くなったことを意味する。他の項目も同様の解説とする。
- Kāyamudutā(カーヤ・ムドゥター)とは、身体的な柔軟性を意味する。
- Cittamudutā(チッタ・ムドゥター)とは、心の柔軟性を意味する。
- Kāyakammañatā(カーヤ・カンマニャター)とは、身体的な働きの適性を意味する。
- Cittakammaññatā(チッタ・カンマニャター)とは、心の働きの適性を意味する。
- Kāyapāguññatā(カーヤ・パーグンニャター)とは、身体的な熟達度を意味する。
- Cittapāguññatā(チッタ・パーグンニャター)とは、心の熟練度を意味する。ここでの熟練とは、巧みさを意味する。
- Kāyujukatā(カーユジュカター)とは、身体的なまっすぐさを意味する。
- Cittujukatā(チットゥジュカター)とは、心のまっすぐさを意味する。
- Sammā-vācā(サンマー・ヴァーチャー)とは、正しい話し方、すなわち「嘘・中傷・罵詈雑言・無駄話」の4つの間違った言葉を慎むことを意味する。
- Sammā-kammantā(サンマー・カンマンター)とは、正しい行為、すなわち「殺す・盗む・性行為」の3つの間違った行為を慎むことを意味する。
- Sammā-ājīva(サンマー・アージーヴァ)とは、正しい生計のこと。
以上の3つを三禁という。
- Karuṇā(カルナー)とは、憐れみ・同情・思いやり・苦難にある人を助けたいと願うこと。
- Muditā(ムディター)とは、他人の成功に感心し、喜ぶこと。
最後の2つは崇高な住処(brahma-vihāra)といい、無量感(appamaññā)とも呼ばれる。
Nibbāna(ニッバーナ)涅槃
ニッバーナは3つに分類できる。
- 自由、または不幸な次元からの解放が、最初の涅槃である。
- 感覚的な欲の世界からの解放が、第2の涅槃である。
- 物質界と非物質界からの解放が、第3の涅槃である。
意識、52の心的性質、涅槃の合わせて54の心的現象を作り出している。このように28の物質的な現象と54の精神的な現象を、究極の真実と呼び、82の究極的な物事を作り出している。一方、自我・魂・生き物・人などは、通常の真実である。
注)精神的な物質は、意識(citta)+52種類のcetasika+涅槃(nibbana)の54種類に分析されました。52種類のチェターシカについては、当サイトのアビダンマでも取り上げています。興味がありましたら、こちらもお読みください。心の正体(cetasika)