レディ・サヤドー『ヴィパッサナーの手引き』⑤

前回までの説明では、真実には、世俗の価値観である「通常の真実Sammuti-sacca)」と、世俗の価値観を離れた本質的・宇宙的な「究極の真実Paramattha-sacca)」の2種類がある。自我・魂・生き物・人などは、通常の真実である。

究極の真実とは、究極的な現象(物事・事象)であり、28種類の物質的現象54種類の精神的現象がある、と教えられました。その現象が生じる原因についてです。

原因 I

これら82の究極の真実のうち、涅槃誕生((jāti)の対象外にある上に、老いと死(jarā-maraṇa)の対象にもならないので、その状態を維持するためにいかなる原因も必要としない。それゆえ、涅槃は無条件であり、無因である。しかし涅槃を除く他の81の現象は、精神的なものも物質的なものも、生・衰・死の範疇にあり、条件づけられて組み合わされたものである。

物質的性質に関しては、すでに扱った4つの原因のうち、kammaは単なる発生源であり、(citta)は単なる刺激である。熱の元素の力栄養の元素の力によって、肉体発育し、自立し、維持される。もし後の2つの力(熱源と栄養素)が終われば、前の2つの力(カンマと心)も働くことができず、同時に停止する。

例えば樹木の場合、種子発生源に過ぎない。の元素によって発生し、成長し、維持される。この2つの原理が働かなくなれば、種子の力も一緒に働かなくなる。肉体樹木に例えると、kamma種子環境太陽熱のようなもので、どちらも外部から支えてくれる。大地栄養は適切な季節に定期的に降る雨水、のようなものである。

心や精神的性質の原因に関しては、結果が発生するためには3つの原因が必要である。過去のkamma拠り所となる基盤対象である。Kamma種子基盤大地対象雨水のようなものである。

健全な性質、不健全な性質、どちらでもない性質、それぞれの心の現象が生じるためには、拠り所となる基盤対象2つが必要である。ただし、厳密にいえば、健全な性質には適切な思惟考察(yoniso-manasikāra)、つまり理性的に向けられた注力が必要であり、不健全な性質には不適切な思惟考察(ayoniso-manasikāra)、すなわち理不尽な方向に向けられた注力が必要となる。認識機能を有するどちらでもない性質も、健全な性質と同じような原因がある。

対象」に向けられる2種類の注力については、健全な性質に先行する場合は健全な性質と同じ原因があり、不健全な性質に先行する場合は不健全な性質と同じ原因がある。この場合のYoniso-manasikāraは、適切な注の働きを意味し、ayoniso-manasikāra不適切な注力の働きを意味する。これらは「心を傾ける(āvajjana)」という2種類の注力の機能である。人を見たとき、注力が適切な方向に働けば健全な意識が生じ、注力が不適切な方向に働けば不健全な意識が生じる。純粋にそれ自身が健全な意識だけを生じさせたり、不健全な意識だけを生じさせたりするような、特別な対象は存在しない。こうした心の動きは「思考の傾向(āvajjana-citta)」として、ボートの舵取りにたとえることができる。ボートの進路がすべて舵取りの手に委ねられているように、健全な意識と不健全な意識の発生も、すべて āvajjana-citta に委ねられている。

樹木にとっての種子は、健全な性質と不健全な性質の注力である。樹木にとっての大地は、健全な性質と不健全な性質の基盤である。また、樹木にとっての雨水は、健全な性質と不健全な性質の対象である。

原因 II

次に、別の方法で原因を説明しよう。

6種類ある意識には、それぞれ4つの原因がある。

視覚の意識が発生するためには、基盤となる眼対象となる形注力が必要である。光がなければ、見るという機能も、認識のプロセスも起こらない。注力とは、心を形象の認識へと向かわせる「āvajjana-citta」のことである。

聴覚の意識が発生するためには、基盤となる対象となる音空間注力が必要である。音が耳に伝わるためには空間が必要である。

聴覚の働きは、聴覚が存在するときにのみ起こり、耳を通しての認識のプロセスも聴覚が存在するときにのみ起こる。

嗅覚の意識の発生には、基盤となる対象となる匂い空気注力が必要である。ここでの「空気」とは、鼻の中に吸い込んだ空気を意味する。これがなければ、匂いは鼻基部と接触することができず、その結果、匂いを嗅ぐ機能と鼻基部の機能、ひいては匂いを嗅ぐ機能と鼻を通しての認識は起こらない。

味覚の意識が発生するためには、基盤となる対象となる味注力が必要である。「水」とは舌の湿り気を意味する。もし舌が乾いていれば、味や酸味は舌の基盤に触れることができず、その結果、味覚の働きや舌を通しての認識は起こらない。

触覚の意識が発生するためには、基盤となる身体対象となる触れるもの硬さ(thaddha)・注力が必要である。ある程度の粗雑な触感のものだけが、身体に印象を与えることができる。触れる対象があまりに繊細であれば、基盤となる身体に接触できず、接触しない限り、触覚の意識も身体を通しての認識も起こらない。

心の意識が発生するためには、基盤となる対象となる思考心の扉注力が必要である。「対象となる思考(dhammārammaṇa)」には、五感以外のすべての物質的性質すべての心的現象すべての観念、そして涅槃が含まれる。五感の対象も心意識の対象になりうるが、五感と関係のないものを示すために、ここでは対象となる思考のみを述べる。

心の扉とは、潜在意識(bhavaṅga)の流れを意味する。基盤となる心は、心の意識が生じる場所ではあるが適切な感覚器官を持たないため、心の扉だけに対象の印象が現れるわけではない。

2つの超越した認識

Abhiññā(アビンニャー)とは超越した認識のことで、常人の知識をはるかに超えて知る能力のことである。Abhiññāには、samatha-abhiññā(サマタ・アビンニャー)と dhamma-abhiññā(ダンマ・アビンニャー)の2種類がある。

注)一般的には神通力と呼ぶ超越能力ですが、これは特殊能力ではなく、本来は誰でも持っている眠っている能力です。

Samatha-abhiññā とは、サマタの修行を行うことによって得られる超越した認識を意味する。これには5種類がある。

  1. Iddhividha-abhiññā 超常能力
  2. Dibbasota-abhiññā 神の耳
  3. Cetopariya-abhiññā 読心術
  4. Pubbenivāsa-abhiññā 前世を思い出すこと
  5. Yathākammūpaga-abhiññā 生命体の運命についての知識

1つ目は、空中を移動したり、大地にもぐりこんだり、素晴らしいものを創造したり、さまざまな人格に変容したりする超常的な力

2つ目は、天上の存在が有するような極めて敏感な聴覚力

3つ目は、他人の考えを知る超常的な認識力

4つ目は、前世に関する超常的な認識力

5つ目は、生命体が様々な存在領域に投げ込まれるカンマに関する超常的認識力であり、天上の存在が持つ超常的な視覚に似ている

Dhamma-abhiññā とは、通常の真実の範囲を超えた究極の真実(真実の項で述べた)のすべての事柄を、それぞれの特徴とともに見分ける洞察力を意味する。これは3種類に分けられる。

  1. Sutamaya-ñāṇa(スタマヤ・ニャーナ):学びによって得られる知識、
  2. Cintāmaya-ñāṇa(チンターマヤ・ニャーナ):理解によって得られる知識
  3. Bhāvanāmaya-ñāṇa(バーヴァナーマヤ・ニャーナ):瞑想によって得られる知識

また、この3種類は2つに細分化される。1)anubodha-ñāṇa 2)paṭivedha-ñāṇa。前者は、無常・苦悩・無我に対する3つの洞察力であり、物事のあらゆる特徴をありのままに洞察することである。後者は、4つの道に関する超俗的な知識である。誤りや迷いなどの穢れ(kilesa)の闇を払うことができるこの知識によって、道に到達した者は光の中に導かれる。