Tīraṇa-pariññā(3種類の正確な知識)とは、精神と物質(nāma-rūpa)の流れを、一瞬の究極的な現象に細かく分解することで、瞬間的な現象(精神と物質の両方)を深く正確に識別し、生起と消滅を洞察することを意味します。これには「無常・苦・無我」の3種類があります。それぞれの解説がはじまります。
Tīraṇa-pariññāの解説
物質的な現象における無常の印
3つの印がある。
- Anicca-lakkhaṇa:無常の印
- Dukkha-lakkhaṇa:わずらいや苦しみの印
- Anatta-lakkhaṇa:無我の印
Anicca-lakkhaṇa(無常の印)は、vipariṇāma と aññathābhāva の範囲での特徴だ。Vipariṇāmaは、転換を意味し、性質の根本的な変化、つまり現在の状態から現在の状態ではないものへの変化を表している。Aññathābhāvaは、性質の続いていく状態の変化を意味する。Vipariṇāma と añathābhāva の世界を心の目で見れば、vipariṇāma と aññathābhāva の2つの範囲内にある精神的・物質的現象は、実に無常であることがはっきりとわかるだろう。
したがって私たちはこう述べる。
「Vipariṇāma と aññathābhāva の範囲の特徴は、無常の印である。夜、燃えるランプの炎を注意深く観察して分析する時、私たちはその炎を、誕生・成長・継続・衰退・死という5つの明らかな特徴とともに注意深く観察する。私たちは、炎が瞬間的に生じていることに気づく。これは物質的な現象の誕生であり、火ではない。炎は発生した後、絶えず成長している。これは物質的現象の成長であるが、火ではない。私たちは、炎が正常な状態で途切れることなく続いていることを観察する。これは物質的現象の継続であるが、火ではない。私たちは炎が燃え尽きつつあるのを観察する。これは物質的な現象が衰えることであり、火ではない。私たちは炎が消えていくのを観察する。これは物質的な現象の死であり、火ではない。
熱いという性質はもちろん火である。炎が揺れるのは、単にこれら5つの明らかな特徴があるからである。ランプを外すと揺れることがあるが、その場合は風によるものだと言える。したがって、これら5つの明らかな特徴は、炎のその後の変化(añathābhāva)であり、無常の印という。この5つの明らかな特徴を観察し、注意することで、炎が無常であることが理解できる。同様に、動くものはすべて無常であることを理解すべきである。
人間の目では識別できない、最小物質である原子が動く様子が、顕微鏡という自然の神秘を巧みに解き明かす道具によって解明された。このように動いて見えるものの発見を通して、一部の西洋人(たとえばライプニッツやフェヒナー)は、これらの物質的な現象は生き物であると信じるようになった。しかし実際には、それらは生き物ではなく、動いて見えるのは、物理的変化(utu)の働きによる物質的な現象の再生によるものでしかない。ここでいう再生とは、ācaya-rūpa(集積-物質)のことである。もちろん、身体によっては生き物が存在していることもある。
ライプニッツ:17世紀ドイツの哲学者・数学者
フェヒナー:19 世紀ドイツの哲学者・心理学者。「死は生命の一つの過程であり、死は形を変えた誕生、すなわち、物質界への誕生ではなく、霊界への誕生だ」と説いた
川や小川の水の流れや、やかんの中の沸騰したお湯を見た時、私たちには動いているように見える。これらは物理的な変化によって生じる物質的な現象の再生である。また、肉眼では静止して見える水や動かない水も、顕微鏡を使えば動いて見える。この2つは、物理的変化によって生じる物質的な現象の再生である。ここでの「再生」とは、新しい現象の絶え間ない集積(誕生・生成)を意味し、これを「ācaya-rūpa(集積-物質)」と呼ぶ。
新しい現象の集積を見分けることで、aniccatā-rūpa(無常性-物質)と呼ばれる、古い現象のその後の死や消滅も見分けることができる。新しい物質の統合と古い物質の死が並行して起こる時、santati-rūpa(持続-物質)が識別できる。再生産が過剰な場合、apacaya-rūpa(減少-物質)を見分けることができる。古い物質の死が過剰な場合、jaratā-rūpa(衰退-物質)を見分けることができる。すべての木、根、枝、葉、新芽、花、果実には、これら5つの明らかな特徴があることはすでに示した。だから顕微鏡を使ってこれらを見ると、あたかも生き物のように動き回る非常に微細な物体でいっぱいであることがわかる。
生き物や人体に関しても、毛髪、体毛、手足の爪、歯、内側の皮膚、外側の皮膚、筋肉、神経、静脈、大きな骨、小さな骨、骨髄、腎臓、心臓、肝臓、膜、肺、腸、内臓、未消化の食物、消化された食物、脳など、身体のあらゆる部分にこの5つの明らかな特徴が見られる。そのため、顕微鏡の助けを借りてそれらを見ると、非常に小さな生き物のように動く有機体が見える。これらは Kamma・心・食物・物理的な変化によって生み出された物質の再生である。
もちろん、場合によっては微生物がいるかもしれない。このように心の目で見れば、全身の物質が持つ無常の印が、はっきりと見分けられる。
ここで説明したのは、物質における無常の印である。
精神的な現象における無常の印
精神現象、すなわち心とそれに付随するものにおいては、根本的な変化(vipariṇāma)とそれに続く変化(añathābhāva)という2つの異なる特徴を持つ無常の印が、これほどはっきりと見られることはない。この世では、絶え間なく上昇と下降を繰り返す心と身体のさまざまな要素について、さまざまな用語や表現があることを私たちは知っている。
例えば、「見る」と「見えない」という2つの表現があり、これらは目の機能を説明するときに用いる。「見る」とは、視覚意識の要素に割り当てられた用語である。私たちが「人は見る」と言う時、これは4つの原因である「眼球基盤・視覚形体・光・注意」が集積して視覚意識が生じることを説明する場合に使う用語である。
また、「人は見ない」と言う場合、これは視覚意識が存在しないことを表す言葉である。夜、暗闇の中で光源がない時には、視覚意識は眼球基盤に生じない。しかし、たとえば炎の光が差し込むと、視覚意識が生じる。そして光が消えれば、視覚意識もまた停止する。炎に5つの特徴があるように、光が生まれれば、見ることも生まれ、視覚も生まれる。光が発達すれば、視覚も発達する。光が続けば、見ることも続く。光が衰えれば、見ることも衰える。光が消えれば、見ることも消える。
日中でも、この「見る」と「見えない」という2つの言葉を用いることができる。障害物がなければ見えるし、障害物があれば見えない。まぶたが開いていれば見えるし、閉じていれば見えない。ここまで述べてきたことは、光という原因による視覚意識の vipariṇāma と aññathābhāva である。
受胎後に眼球基盤が破壊された場合、視覚意識も失われる。視覚形体が視界から遠ざかれば、視覚意識も失われる。睡眠中は注意が向かないので、視覚意識はしばらくなくなる。眼球の知覚の過程に関するすべての段階の意識の発生は、「見る」という言葉によって理解され、その減退は、「見えない」という言葉によって理解される。
同様に、聴覚・嗅覚・味覚・触覚の各機能において、一組の表現(ある、ない)を用いることができ、視覚意識と同じように、その無常性、すなわち vipariṇāma と aññathābhāva を区別しなければならない。心=認識に関しては、多くの異なるモードがあり、それぞれ異なる種類の思考の変化を通じて、vipariṇāma と añathābhāva の性質が明らかになる。精神に付随するもののうち、例えば感情を例にとると、快楽・苦痛・喜び・悲しみ、喜怒哀楽の変化は非常に明確である。
また、認識の変化、始まりの作用、持続の作用、良いものから悪いものへの変化、その逆もまた、非常にわかりやすい。坐るという一つの姿勢の中で、強欲・無欲・嫌悪・友好がそれぞれ交互に生じることは、誰でも簡単に気づくだろう。
ここでの説明は、精神的な現象の無常性である。無常の印はここまで
苦しみの印
簡潔にいえば、vipariṇāma と añathābhāva にある無常の印は、苦しみの印とも呼ばれる。なぜ賢者はこれらを恐れるのか。それはこの世では、減退と死の危機こそが最も恐れるべき危険だからだ。Vipariṇāma は、瞬間的な減退と死にほかならない。Vipariṇāma は死への道であり、生命がさまざまな領域に分散する道である。すべての生き物が別の存在に移ることなく生き続けるのは、さまざまな方法で生命を維持しているからにほかならない。また、Vipariṇāma は自分自身に降りかかるかもしれない不幸のために恐れられるものでもある。
Añathābhāva の特徴である Ācaya(流転)、upacaya(集積)、santati(持続)もまた、多くの苦しみをもたらすかもしれない。身体にさまざまな病気や不調をもたらすかもしれない。精神的な面でも、さまざまな苦悩(kilesa キレーサ)や幻覚、その他にも多くの煩いをもたらすかもしれない。あらゆる物質的な現象には、この2種類の無常の印があり、また三界に関わるあらゆる精神的な現象も、同じく2種類の無常の印がある。したがって、人間・デーヴァ・ブラフマーの精神的、物質的な現象はすべて病気になる。2種類の無常の印が常に存在するので、dukkha-dukkhatā、saṅkhāra-dukkhatā そして vipariṇāma-dukkhatā(変化という苦の性質)という、およそ3つの異なる苦しみの印がある。
dukkha-dukkhatā:ドゥッカ(思い通りにならない)という苦の性質
saṅkhāra-dukkhatā:サンカーラ(反応=行為)という苦の性質
vipariṇāma-dukkhatā:ヴィパリナーマ(変化する)という苦の性質
Dukkha-dukkhatā(ドゥッカ・ドゥッカター)とは、身体的(kāyika)な苦痛と精神的(cetasika)な苦痛の両方を意味する。
Saṅkhāra-dukkhatāとは、物質的・精神的現象が、あらゆる存在において常に決定され、条件づけられ、多大な労力をもって維持されている場合にのみ存在する状態のことである。ブラフマーの存在には、大量の saṅkhāra-dukkha がある。あらゆる官能的な快楽を捨て、世俗を捨て、自らの生命を顧みずに崇高な境地(brahmavihāra)を実践した百人のうち、ブラフマーの存在に到達する者はほとんどいない。人々はそのような存在が非常に良いものであることを知っているにもかかわらず、あえて実践しようとしない。吸収(absorption)や超常的な知性を得るには、細心の注意と労力を払わなければならない。
Vipariṇāma-dukkhatāとは、破壊の状態のことであり、状況があえばいつでも起こりうる死のことである。人間・デーヴァ・ブラフマーの存在は、それぞれ苦しみの3つの印の影響を受けるので、本当の意味での「不幸」である。
注)吸収(absorption):生物学では、物質が拡散によって細胞膜を通り、細胞の内部に入るプロセスのこと。物理学や化学では、物質が他の物質に取り込まれる現象を表す。ここではブラフマーの存在になり、宇宙と一体化し無限に拡がった状態を意味しているのではないだろうか?
苦しみの11の印
大まかにいえば、苦しみには11の印がある。
- Jāti-dukkha:誕生の苦しみ
- Jarā-dukkha:衰えの苦しみ
- Maraṇa-dukkha:死の苦しみ
- Soka-dukkha:悲しみの苦しみ
- Parideva-dukkha:嘆きの苦しみ
- Kāyika-dukkha:身体の苦しみ
- Cetasika-dukkha:心の苦しみ
- Upāyāsa-dukkha:絶望の苦しみ
- Appiya-sampayoga-dukkha: 敵との付き合いによる苦しみ
- Piyavippayoga-dukkha:愛する人との別離による苦しみ
- Icchā-vighāta-dukkha:願いが叶わないことによる苦しみ
このうち、jāti は誕生や生成を意味する。kilesajāti:穢れの誕生、kammajāti:行為の誕生、vipākajāti:結果の誕生となる。
この3つのうち kilesajāti は、強欲、嫌悪、愚鈍、誤り、驕りなどの穢れの誕生や生成である。
Vipākajāti とは、身体にさまざまな病気、さまざまな不調、さまざまな苦痛が生じたり、鳥や動物などの卑しく低俗な存在を生みだすことである。Kilesajāti のうち、強欲は非常に激しく、暴力的である。強欲は、火薬で燃やされた火のように、条件が合えばいつでも燃え上がる。強欲が高まると、どのような手段を使ってもそれを抑えることは非常に難しく、一瞬にして膨れ上がってしまう。だから、それはすべての聖なる存在にとって非常に恐れられるものであり、真の「不幸」なのである。同じように、倫理的には1500もの数がある嫌悪、鈍さなどとも関連して理解すべきである。猛毒を持つ蛇の住む丘が恐れられ、誰もそれに近づく勇気がないように、人間・デーヴァ・ブラフマーの存在もまた恐れられる。聖なる存在は、「私自身」「私の身体」といった見方をする彼らに、あえて近づこうとはしない。彼らは穢れの生まれる場所だからだ。従って彼ら(人間・テーヴァ・ブラフマー)は、恐れられるべき本当の「不幸」なのである。
Kammajāti のうち、身体・言葉・思考の不健全な行為は、穢れの発生である。従ってこれらは穢れと同じように強烈である。よって、この Kammajāti もまた、すべての聖なる者が恐れるべき真の「不幸」である。泥棒や強盗が住み着く村が恐れられ、善良な人々があえて近づかないのと同じように、人間・デーヴァ・ブラフマーの存在も恐れられ、そして救済に熱心な者は誰も、「私自身」「私の身体」といった見方をする彼らに、あえて近づこうとしない。彼らはkammajāti の生まれる場所だからだ。
Vipākajāti については、kilesajātiとkammajāti のおぞましさゆえに、vipākajāti (不幸の領域への生まれ変わり)も、存在のサイクルにおいて常に恐ろしいものだ。
従って、vipākajāti と kilesajāti と kammajāti が一緒になった人間などの存在は、真の「不幸」である。道徳的行為と幸せな世界は、穢れの糧となり、穢れの炎の燃料となり、道徳的行為の発生とその結果の発生は、すべて kilesajāti の中で実現可能なのである。
Jātidukkha(誕生の苦しみ)については以上
Jjarādukkha と maraṇadukkha について:これらは受胎の瞬間から存在者に付きまとう瞬間的なの衰えや死であり、機会があればいつでも衰えや死、または不幸な領域に落ちるように準備されている。また、これらは vipariṇāma-dukkha に関連して得られる。受胎の瞬間からあらゆる存在において、すべての生きものの歩みを支配しているので、人間・デーヴァ・ブラフマーの存在は、本当の意味での「不幸」である。
衰えと死の苦しみは以上
悲しみ・嘆き・肉体的苦痛・精神的苦痛・絶望といった災いは、人間やデーヴァの存在に常に付きまとい、機会があればいつでも生じようとしている。地獄や餓鬼界は、悲しみ・嘆き・肉体的苦痛・精神的苦痛・絶望の世界だ。
5種類の dukkha(ドゥッカ)は以上
関わりたくない、あるいは会いたくもない人、生き物、物、対象と接触することは、敵との関わりによる苦しみである。
いつも会いたい、一緒にいたいと願い、生死を問わず決して別れたくないと願う人、生き物、物、対象との別離、これが愛する者との別れによる苦しみである。
何かを得るために懸命に努力しても、すべてが無駄であることは、願いが叶わないことによる苦しみである。
これらの「不幸」は非常に多く、非常に明らかであり、またこの世で頻繁に起こる。したがって、人間・デーヴァ・ブラフマーの存在は、真の「不幸」である。これら11種類のdukkha(ドゥッカ)のうち、誕生・衰え・死が最も重要である。
苦しみの印は以上
無我の印
精神的な現象と物質的な現象には「自我はない」と理解するための印を、「無我の印(anatta-lakkhaṇa)」と呼ぶ。Anattā(アナッター)という言葉を考える上で、まず attā(アッター)の意味を理解する必要がある。通常の意味での attā とは、本質や実体を意味する。本質や実体とは、究極の真理に関してすでに説明したように、例えば、鍋の本質や実体である土を意味する。「鍋」という言葉は、単なる絵画的な観念(santhāna-paññatti)を示す名前にすぎず、土の名前ではない。絵画的な観念は、究極的なものとしての本質や実体がない。ここでは、土だけが本質や実体を持つ究極的なものである。
もし、「この世に鍋のようなものが存在するか」と問われたならば、究極的なものと通常のものという2種類の真実を区別できない人は、鍋は存在すると答えるだろう。このような人たちは、鍋を指し示すように言わなければならない。彼らは、手近にある土鍋を指さして言うだろう「あれが鍋ではないの?」と。しかし「土を鍋だ」と言い切るのは正しくない。それは誤った主張だ。単純に、土は究極的な物体であり、本質や 実体があるのに対し、「鍋」は本質や実体を持たない単なる観念であり、したがって空間と同様、中身がない(空虚)からである。
土を「鍋だ」と主張することは、事実上、本質的である土が、鍋の本質や実体を表していると主張することであり、その「鍋」が本質的な実体を何ら持たない、単なる心の表象であることを見れば、これが現実の事実である。ここでは、実際には存在しない鍋が存在する鍋となり、土もまた鍋の本質となるため、土と鍋は同一のものとなり、一方が他方の同一性と混同される。このような理由から、私たちはこれを誤った主張と呼ぶのである。
この例では「土」は、5つの集合体やその構成要素である物質的・精神的現象に相当し、「鍋」は人や生き物に相当する。「土は鍋である」というとき、土が鍋の本質になるように、「五大集合体は人や生き物である」というとき、五大集合体やその構成要素が人や生き物の本質になる。これが本質(attā)の意味である。
さて、anattā である。「土鍋」という表現において、「土」と「鍋」は別のもので、「土」は究極の物体であり、「鍋」は単なる心の観念である。また、「土」は「鍋」ではなく、「鍋」は「土」ではないし、「土」を「鍋」と呼び、「鍋」を「土」と呼ぶのは誤りである。「土」が「鍋」の本質(attā)になることはなく、本質のない空虚なもの(anattā)になり、同時に、鍋は単なる形の観念であるため、空間のように空虚であることがわかる。5つの集合体と物質的・精神的現象を見分けることができれば、同じような結論に達する。「5つの集合体は究極的なものであり、人と生き物はその形と連なりから派生した観念である。従って現象は人と生き物ではなく、人と生き物は現象ではない。もし現象が人や生き物と呼ばれるなら、これは誤った呼称であり、もし人や生き物が現象と呼ばれるなら、これも誤った呼称である。
従って、現象は人や生き物の本質ではなく、anattā 、すなわち実質的に本質の逆となる。また、人物や生き物は、現象の形態や連なりから派生した単なる観念である以上、極めて明白に空虚で虚無なものとなる。ここで述べたことは、anattā の意味の説明である。