レディ・サヤドー『ヴィパッサナーの手引き』⑥

82の究極の真実」のうち、涅槃を除く81の究極の現象(物質的現象28・精神的現象53)には、必ず生・衰・死があり、現象が生じるためには必ず原因がありました。瞑想修行は、あらゆる現象を通して、この原因に分析する作業でもあります。さらに深い洞察力についての教えです。

3つの深遠な知識

Pariññā(パリンニャー)とは深遠な知識を意味する。これは3種類ある。

  1. Ñāta-pariññā:自己知識(理解した知識)(自らの経験によって得た知識)
  2. Tīraṇa-pariññā:分析的な知識(瞬間的に分析することで現象の生滅を知識)
  3. Pahāna-pariñā:放棄の知識(固定観念を捨てるための知識)

自己知識

Ñāta-pariññāとは、真実と原因に関する前回のセクションで示したように、精神的・物質的現象とあらゆる直接的な原因、そして涅槃に関する、深く正確な洞察力を意味する。哲学的な知識(dhamma-abhiñāṇa)によって物事を究極的な側面から深く見極め、例えば身体の毛のような形だけの観念表象(santhāna-paññatti)をすべて払拭する。これらすべてが識別されなくても、28の物質的現象のうち四大要素だけが前述の方法で識別されれば、(rupa)に関する ñāta-pariñññā の機能は達成されたと言える。精神(nāma)に関しても、心・感情・知覚・意志4つの心的現象が、前述の方法で完全に見分けられれば、nāma に関するñāta-pariñññā(分析的な知識)の機能は達成されたと言える。Nibbāna(涅槃)も上記のように見分けることができれば、ñāta-pariññā の機能は完全に実現されるであろう。

3つの正確な知識 無常・苦・無我

Tīraṇa-pariññā とは、精神と物質(nāma-rūpa)の流れを、一瞬の究極的な現象に細かく分解することで、瞬間的な現象(精神と物質の両方)を深く正確に見分けて、生起と消滅を洞察することを意味する。これには3種類がある。

1. Anicca-pariññā: 無常の正確な情報

2. Dukkha-pariññā: の正確な情報

3. Anatta-pariññā: 無我の正確な情報

Anicca-pariññā とは、死の法則通常の死究極の死)についての正確な知識、あるいは適切な知識を意味する。「通常の死」とは、通常の真実に従って、「生きている人間や生き物にとって、いつかは死ぬことが避けられない」一般的な死のことである。「究極の死」とは、精神的・物質的現象の瞬間的な死を意味する。前者は、無常という本質的な特徴を表してはいないので、anicca-pariññā の範疇ではなく、死の想念(maraṇānussati)に過ぎない。実際に、無常の特徴を顕著に示し、anicca-pariññā(無常観)を表しているのは、後者の究極の死だけである。

Dukkha-pariññā とは、本質的な特徴である痛みや苦しみについての正確な知識、あるいは適切な知識を意味する。ここでいうには2種類ある。

1. Vedayita-dukkha: 感受による苦

2. Bhayattha-dukkha: 恐怖による苦

この2つのうち、vedayita-dukkhaとは、身体的苦痛精神的苦痛を意味し、身体的苦痛とは、身体の様々な部分に生じる耐え難い不快な苦痛を意味し、精神的苦痛とは、悲しみ(soka)・嘆き(parideva)・憂い(domanassa)・絶望(upāyāsa)のような、心が経験する苦痛を意味する。Bhayattha-dukkhaとは、物事を恐ろしいと察する知恵(bhaya-ñāṇa)と物事を危険と察する知恵(ādīnava-ñāṇa)の範疇にある苦痛である。: すなわち、誕生の苦痛(jāti-dukkha)、老いの苦痛(jarā-dukkha)、死の苦痛(maraṇa-dukkha)、条件付けられた苦痛(saṅkhāra-dukkha)、変化の苦痛(vipariṇāma-dukkha)である。最後の2つは後で説明する。

危険な患いのたとえ

Vedayita-dukkhabhayattha-dukkhaの違いを説明するために、ここで例をあげよう。

ある男が病気を患い危険な状態にある。健康を維持し、病気を抑えるためには、野菜や果物などの質素な食事で過ごさなければならない。もし肉や魚、甘いものなど、贅沢な食べ物をとれば、たとえ贅沢な食事に癒しや楽しみを感じても、それを食べた後は、一日中、あるいは何日も痛みや消化不良に悩まされ、病気が再び悪化することになる。食事が贅沢であればあるほど、その苦しみは長くなる。

さて、彼の友人が功徳を積むために、バターで炊いた米や鶏肉、魚を持ってきたとする。男は、もしその食事を食べたらどんな苦痛を味わうことになるかを恐れて、友人に感謝はするものの、その食事は自分には重すぎる、食べたら必ず苦しむことになると言って断らなければならない。この場合、濃厚に調理された食事はもちろん楽しみの対象であり、食べている間は、味覚に心地良い刺激を与えてくれるだろうから、これはvedayita-sukha(感受による快楽)だと言える。しかし、この食べ物が健康を害して苦痛をもたらすと予測する人にとっては、同じ食べ物であっても実際には楽しみではない。おいしければおいしいほど、長く苦しまなければならないことがわかっているからだ。つまり彼にとって食べ物から得る味覚の楽しみは、実際には恐怖を生む苦しみなのである。

この世で自我の誤りを取り除き、受難の転生(vinipātana-bhaya)と不幸な領域に至る危険から逃れていない人は、危険な病気を患った前述の男のようなものである。人間・デーヴァ・ブラフマーの存在が経験する快楽は、贅沢に調理された食べ物と、それから得られる快楽の感覚のようなものである。死後に、異なる存在に生まれ変わるという状況は、男が贅沢な食べ物を楽しんだ後に、苦しまなければならない苦痛のようなものだ。

ここでの vedayita-dukkhaは、dukkha-vedanāと同義であり、vedanāの三要素である「快・不快・中立」の感覚に結びつくものである。Bhayattha-dukkhaは、苦の真理(dukkha-sacca)と同義であり、内在的特徴の一つとしてのdukkha、すなわち無常痛みや苦しみ無我(anicca, dukkha, anattā)と同義である。

それゆえ、人間・デーヴァ・ブラフマーの存在に内在する苦しみを、そこで経験する快楽も含めて、正確かつ適切に知ることを、dukkha-pariññāと呼ぶ。

Anatta-pariññāとは、精神的・物質的現象には無我のがあるという正確な、あるいは適切な知識を意味する。この無我の正確な知識anatta-pariññā)によって、究極の真実に属するすべての精神的・物質的現象は、無我・無魂・無実体であると識別される。それによって通常の真実の「人」の人格的性質も明らかになる。

また、これらとは別に、決して死ぬことなく、ある存在から別の存在へと移り変わる魂や人格が存在すると仮定されることもない。この知識が最高度に達すると、anatta-pariññā と呼ばれる。無常・苦・無我の3種類の知識を tīraṇa-pariññā という。

放棄の知識

Pahāna-pariññāとは、錯覚を払拭する正確な、あるいは適切な知識を意味する。無常の観想によって得られる洞察によって、永続の3つの錯覚(nicca-vipallāsa)を払拭・放棄する。苦の観想を通して得た洞察によって、快楽の3つの錯覚(sukha-vipallāsa)と美の3つの錯覚(subha-vipallāsa)。そして無我の観想によって得られた洞察による、自我の3つの錯覚(attā-vipallāsa)である。

ここでの自我(attā)は形的な概念(santhāna-paññatti)の根底にあるとされる本質であり、生命(jīva)は集合的な概念(santati-paññatti)の根底にあるとされる本質である。

この2種類の妄想のうち、前者は究極と通常の2種類の真実を知ることによって取り除くことができるが、後者は無常の正確な知識である anicca-pariññā が頂点に達した時にのみ取り除くことができる。

ここでの santati とは、同じ種類の集合体の流れを意味し、nānā-santatiとは、異なる種類の集合体の流れを意味する。

この santati には、精神的なものと物質的なものの2種類がある。また、物質的な様々な集合体の流れは4種類、すなわち、kammaによって生じるもの、によって生じるもの、温度によって生じるもの、食物によって生じるものに細分化される。これら4種類の流れは、それぞれ原因が変われば容易に変化する。何かが変化する時、kammaによって生じる流れの変化は明らかではないが、心によって生じる流れの変化は明らかである。座るという一つの行為の中でも、身体のさまざまな部分の多くの動きが観察できる。これらの動きや動作は、集合体の流れの変化にほかならない。

注)santati:流れるように連続して続く状態、持続時間

物質的集合体の成長・衰退・死

それぞれの集合体には、誕生・成長と衰退・死という3つの時期がある。歩くという行為の一歩一歩には、始まり・中間・終わりがある。それぞれ誕生・成長と衰退・死である。私たちが「一歩」という間に、身体全体が変化し、身体全体の集合体が新たに誕生し、新たに成長・衰退し、新たに死ぬ。百歩、千歩と歩けば、百、千の新しい誕生・成長・死が全身で起こる。その一歩はまた、足を上げる集合体と、足を下ろす集合体の2つに分けることができる。それぞれの一歩において、誕生・成長と衰退・死が確認されなければならない。立つ、座る、寝る、伸ばす、引き寄せるなど、身体のあらゆる姿勢に関しても同じことがいえる。ここで理解すべきことは、疲れ、倦怠感、炎症、刺激、侵害、痛みを伴う状態はすべて、温度によって生じる集合体の流れの変化だということだけだ。

息を吐く時も吸う時も、始まり・中間・終わりがすべて識別できる。集合体が一定の状態が続いた場合には、その後に疲労または倦怠と呼ばれる衰退が続くが、これにはそのような物質に関連している。これは炎症性物質や刺激性物質によって生じ、それによって耐え難い苦痛が生じる。この苦痛の感覚を通して、人々は疲労が存在することに気づく。疲労とはまさに、集合体の流れ成長と衰退に適用される名称であり、最初は力強く元気に生じた集合体のそれぞれの終末は、流れの死(santati-maraṇa)である。

同じように、笑い、微笑み、喜び、悲しみ、嘆き、呻き、嗚咽、貪欲、憎しみ、信心、愛などによって生じるすべての集合体には、始まり・中間・終わりがあることが理解される。また、話すことにおいても、すべての言葉には始まり・中間・終わりがあることが明らかであり、それはそれぞれの言葉の瞬間的な誕生・成長と衰退・死である。

温度によって生じる物質については、暑い時に扇風機で扇ぐと、扇ぐたびに集合体が生じたり消えたりする。まったく同じように、入浴中に水をかけるたびに、冷たい集合体が生じたり消えたりする。一般的に言えば、疲れ、疲労、不調の集合体は、温度が生み出す流れの変化である。熱い食べ物や冷たい食べ物を通して、私たちは時には温度(utu)が原因となる身体のさまざまな変化を観察する。食べ物や薬が適切でなかったり、適切だったりすることによって、病気が生じたり、悪化したり、治ったりするのも、温度によるものである。

心が作り出した集合体でさえも、温度による変化が多いかもしれない。

栄養素によって生じる集合体については、肉の貧弱さや豊富さ、生命力の旺盛さや欠乏を考慮に入れなければならない。生命力の旺盛さとは、摂取した食物が胃に入ると同時に、全身を貫く生命力が活発になり、強化されることを意味する。したがって、すべての生き物にとって最も必要なことは、生命力の衰えを防ぎ、促進することである。私たちが「この世で生活する」と呼んでいることは、生命力を維持するための食物を定期的に供給していることに他ならない。生きていることが非常に重要であると考えるならば、適切な食物を十分に供給することも非常に重要であることが明らかだろう。

食物を供給することは、血液を増やすことよりも必要である。胃への食物の供給が減れば、体内のすべての血と肉は次第に減少するからである。目や耳など、kamma によって生み出された物質的性質の生命は、生命力(jīvita-rūpa)であり、これは食物の供給に依存している。食物の供給が滞れば、生命力とともに身体全体が機能しなくなる。新鮮な食物の供給が6、7日間停止すると、生命力とすべての kamma によって生み出された物質的性質は終わりを迎える。その時、人は死ぬのだ。ここで食物が生み出す物質的性質の集合体の変化(すなわち、誕生・成長と衰え・死)を明らかにする必要はない。

精神的現象の成長・衰退・死

これまで示してきたのは、物質的な集合体の流れ成長と衰退、そしてである。

次は精神的な現象の流れである。これらもまた非常に数が多い。誰もが自分の心を知っている。さまざまな種類の貪欲の流れ、さまざまな種類の憎悪の流れ、さまざまな種類の愚かさの流れ、さまざまな種類の愛の流れがある。座るという行為ひとつとっても、無数の思考が生じることを誰もが認識している。それぞれの思考の過程には、誕生・衰退・死がある。誰もが自分のことを知っている。「今、私の中で欲が生じている」「今、私の中で憎しみが生じている」「私の中で欲が止まった」「私の中で憎しみが止まった」。しかし、それが永遠に止まったとか、最終的な終わりを迎えたとは言えない。なぜなら、これは思考のプロセスや流れの一時的な停止や死に過ぎないからである。状況があえば、思考は即座に復活する。今ここで述べたことは、精神の流れについての説明である。

Ñāta-pariññātīraṇa-pariññā に関連し、これは pahāna-pariññā に関連している。