パスカルの「考える葦」とブッダのシンクロ

マハーサティパッターナ・スッタを翻訳し終わって、ふと頭に浮かんだことがある。フランスの哲学者パスカルの「考える葦」。なんだか「考える葦」が、ブッダ と同じようなことをいってるような気が、フッとした。

パスカルのことなど、はっきり言って知らない。悪いけど一般的な知識ほども、知らない。でも急にフッと浮かんで気になったので、ちゃんと読んでみた。「人間は考える葦である」以外の部分は初めて読んだ。で、やっぱりなんだか、ブッダな解釈ができる気がして、ホントに僭越なんだけど、フランス語の全文を偏った解釈で訳してみた。

もしもパスカルが、ブッダの教えを知っている、あるいは共感していたら、という前提で改訳してみた。訳していく中で、パスカルが科学を離れて瞑想にふけっていた時代があったことも知り、勝手につながった。

訳するにあたっては、こちらのサイトを参考とさせていただいた。Merci pour bien l’analyser ! (20年前、フランス語学習にハマっていた頃、大変お世話になったサイトで、いまだに健在でびっくり。いやー、元気にしてた?)

原文
 L’homme n’est qu’un roseau, le plus faible de la nature, mais c’est un roseau pensant. Il ne faut pas que l’univers entier s’arme pour l’écraser ; une vapeur, une goutte d’eau suffit pour le tuer. Mais quand l’univers l’écraserait, l’homme serait encore plus noble que ce qui le tue puisqu’il sait qu’il meurt et l’avantage que l’univers a sur lui, l’univers n’en sait rien.
  Toute notre dignité consiste donc en la pensée. C’est de là qu’il faut nous relever et non de l’espace et de la durée, que nous ne saurions remplir.
  Travaillons donc à bien penser ; voilà le principe de la morale.

超改訳
人は一本の葦に過ぎない。自然界で最も弱いもの、しかし考える葦である。人を殺すには全宇宙が武装する必要はなく、水蒸気か一滴の水で十分だ。しかし、宇宙が人を消滅させたとしても、人は宇宙よりも聖なる存在だろう。なぜなら、人は「死ぬ」ということと、宇宙が人よりも優位であることを知っていて、宇宙は何も知らないからだ。だから私たちの尊厳は、この考える力である「思考」そのものにある。思考にこそ、私たちは拠り所としての自己を再び確立すべきであって、私たちがコントロールできない空間存在の有無)や時の流れ無常)ではないのだ。したがって、私たちは正しく思考するように努力しよう。これが真理の摂理なのだ。

パスカルは宇宙の無常と無我の法則を知ってなお、思考こそが自我である、と言いたかったのかなぁ? と1本の葦として妄想してみた。

仏の道では(フランスじゃなくホトケね)、煩悩を捨て「阿羅漢という名の聖なる者、涅槃という名の悟りへ」と導くが、そう思考した時点でアウト。それは執着じゃないですかね?

ブッダの教えは「俗なる者も聖なる者も、迷うことも悟ることも、人の区別に過ぎないと気づき、ただありのままに生きるのです」ということでは? 「思考に振り回される必要も、思考を捨てる必要もなく、ただありのままに、現れては消える思考と共に、気づいていなさい」ということでしょう?

だから、パスカルの「思考推し!」も正しく気づいていればOKだな、と思ったわけ。ブッダの逆をいっているようで、同じことをからいってるように思った。

さらに、インドから中国に禅宗を伝えた達磨さんは、の一葉に乗って揚子江を渡り、またの一葉に乗ってインドに戻ったんだね。いやー、これまた偶然。岩田慶治氏の本が目について、猛烈に開きたくなって、パラパラ読んだら書いてあって驚いた。

なんでパスカルが、に例えたのか、ずっと気になってたけど、これでまた繋がった気がする。これをシンクロニシティというのか? 止まらない。パスカルで妄想三昧。

以上です。