4.ダンマーヌパッサナー:2.苦しみの原因の真理

Samudayasaccaniddeso
苦しみの原因の真理について

"Katamañca , bhikkhave, dukkhasamudayaṃ ariyasaccaṃ? 
Yāyaṃ taṇhā ponobbhavikā nandīrāgasahagatā tatratatrābhinandinī, 
seyyathidaṃ – kāmataṇhā bhavataṇhā vibhavataṇhā.

修行者たちよ。「苦しみの原因の聖なる真理」とは何でしょう?

それは転生につながる渇望(taṇhā)であり、欲望や快楽と結びつき、あちこちに喜びを見いだすことです。つまり、肉体的快楽を求める渇望(kāmataṇhā)、存在して欲しいと求める渇望(bhavataṇhā)、存在しないで欲しいと求める渇望(vibhavataṇhā)のことです。

では、この渇望はどこから生じて、どうやって確立するのでしょう?

この世に、愛着を抱くもの(piya·rūpaṃ)があり、心地快いと思うもの(sāta·rūpaṃ)があれば、どこであれ、そこに渇望が生じて確立するのです。

では、この世で、愛着を抱くもの心地快いと思うものとは何でしょう?

目に見える世界(Cakkhu loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
耳に聞こえる世界(Sotam loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
鼻で嗅ぐ世界(Ghanam loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
舌で味わう世界(Jivha loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
身体の感覚の世界(Kayo loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
精神の世界(Mono loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。

この世にある光景(Rūpā loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
この世にある音(Saddā loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
この世にある匂い(Gandhā loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
この世にある味(Rasā loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
この世にある感触(Phoṭṭhabbā loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
この世にある心の中の動き(Dhammā loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。

視覚でとらえたもの(Cakkhu·viññāṇaṃ loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
聴覚でとらえたもの(Sota·viññāṇaṃ loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
嗅覚でとらえたもの(Ghāna·viññāṇaṃ loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
味覚でとらえたもの(Jivhā·viññāṇaṃ loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
身体感覚でとらえたもの(Kāya·viññāṇaṃ loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
でとらえたもの・意識したもの(Mano·viññāṇaṃ loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。

視覚が接触する世界(Cakkhu·samphasso loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
聴覚が接触する世界(Sota·samphasso loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
嗅覚が接触する世界(Ghāna·samphasso loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
味覚が接触する世界(Jivhā·samphasso loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
身体感覚が接触する世界(Kāya·samphasso loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
心が接触する世界(Mano·samphasso loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。

視覚の接触で生じた感覚の世界(Cakkhu·samphassa·jā vedanā loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
聴覚の接触で生じた感覚の世界(Sota·samphassa·jā vedanā loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
嗅覚の接触で生じた感覚の世界(Ghāna·samphassa·jā vedanā loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
味覚の接触で生じた感覚の世界(Jivhā·samphassa·jā vedanā loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
身体感覚の接触で生じた感覚の世界(Kāya·samphassa·jā vedanā loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
心の接触で生じた感覚の世界(Mano·samphassa·jā vedanā loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。

認識された光景の世界(Rūpā·saññā loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
認識された音の世界(Sadda·saññā loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
認識された匂いの世界(Gandha·saññā loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
認識された味覚の世界(Rasa·saññā loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
認識された感触の世界(Phoṭṭhabba·saññā loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
認識された心の中の動きの世界(Dhamma·saññā loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。

光景に対する心の意思(Rūpā·sañcetanā loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
音に対する心の意思(Sadda·sañcetanā loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
匂いに対する心の意思(Gandha·sañcetanā loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
味に対する心の意思(Rasa·sañcetanā loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
感触に対する心の意思(Phoṭṭhabba·sañcetanā loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
心の中の動きに対する心の意志(Dhamma·sañcetanā loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。

光景への渇望(Rūpā·taṇhā loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
音への渇望(Sadda·taṇhā loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
匂いへの渇望(Gandha·taṇhā loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
味への渇望(Rasa·taṇhā loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
感触を生むものへの渇望(Phoṭṭhabba·taṇhā loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
心の中の動きへの渇望(Dhamma·taṇhā loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。

目に見えた光景を〇〇であると認識した時(Rūpā·vitakko loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
耳に聞こえた音を〇〇であると認識した時(Sadda·vitakko loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
鼻で嗅いだ匂いを〇〇であると認識した時(Gandha·vitakko loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
舌で味わった味を〇〇であると認識した時(Rasa·vitakko loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
触れた感触を〇〇であると認識した時(Phoṭṭhabba·vitakko loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
心に浮かんだ心の中の動き〇〇であると認識した時(Dhamma·vitakko loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。

目に見えた光景について思いをはせる時(Rūpā·vicāro loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
耳に聞こえた音について思いをはせる時(Rūpā·vicāro loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
鼻で嗅いだ匂いについて思いをはせる時(Rūpā·vicāro loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
舌で味わった味について思いをはせる時(Rūpā·vicāro loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
触れた感触について思いをはせる時(Rūpā·vicāro loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。
心に浮かんだ心の中の動きについて思いをはせる時(Rūpā·vicāro loke)には、愛着を抱くもの、心地快いと思うものがある。そこに渇望が生じ、確立するのです。

修行者たちよ。これが苦が生じる原因の聖なる真理です。

4.ダンマーヌパッサナー(心の中の動きの観察)2.苦しみの原因の真理 了

解説

taṇhā 渇望(欲望、願望、情念)
ブッダは、「渇望は再生をもたらし、終わりなき輪廻をもたらす」としています。つまり生成のエネルギーの源ということです。渇望は次の3タイプに分けられます。

kāmataṇhā 感覚(心地よい気分にさせてくれる物や、感覚的な喜びへの執着)

bhavataṇhā 存在(存在して欲しいものへの執着)

vibhavataṇhā 非存在(存在して欲しくないものへの執着)

viññāṇa 意識
意識・心が認識部分。citta(心)やmana(精神)とほぼ同義ですが、viññāṇa はむしろ、感覚の扉に関連する特定の意識(cakkhu-viññāṇa=視覚、 sota-viññāṇa=聴覚など)を指しています。情報をとらえる機能

phassa 接触
6つの感覚器官(目・耳・鼻・舌・身体・心)にそれぞれの対象(色・音・香・味・感触・心の中の動き)が接触すること

vedanā 感受作用
感覚と感情。触れたものを感じること。触れたものを感じること。6つの感覚器官が外の対象物と接触した時に、身体に生じる感覚「視覚・聴覚・嗅覚・味覚・皮膚感覚(触、冷、熱、柔など)および、身体的印象(感覚)「快、不快、中立」と、それに伴う精神的印象(感情)「現象を快、不快、中立と感じること」のことです。心で感じるものも含むので、身体的な感覚だけを意味すると誤解しないように。vedanā はさまざまな場面で行ったり来たり重複する機能。情報伝達機能=神経

saññā 思考
考えること。事物の形象(言葉と映像)を心の中に思い浮かべること。知覚を伴う認識。概念。生まれたばかりの時には何もない状態(のはず)。過去の経験による記憶機能=脳

sañcetanā(cetanā)意志
行動を起こすか起こさないかを決める作用。vitakkavicāraで判断した動機や意図に影響される

vitakka + vicāra 
saññā(思考)に付随する作用で常にペアで働きます。人の思考が「今」から離れて考察したり妄想したりする作用です。「そういえば、あれって……」と意識が過去や未来に飛んで、今ここにいない状態で思考を巡らせることです。まず vitakka がテーマを決定し、そのテーマに沿って vicāra が自由に考えを巡らせます。この一連の作用は、必ずしも起こるとは限りませんし、vitakkaが生じなければ、vicāraも生じません。創造の過程でもあり、妄想の過程でもあります。

vitakka vi+takka
6つの感覚器官に入った対象を認識した時に、瞬時に頭の中でさまざまなデータを集め、感覚的に意識されたものに、最初に名前を付けて区別するための認知的操作です。:センサー

vicāra vi+cāra(常にvitakkaとペアで、単独では存在しない)
vicāravitakka によって発生し、認知した対象に対して考え・検討する作用です。これが行為の意図や動機となります。知覚された感覚対象が望ましいかどうかを判断し、対象に対して自分がどのような行動をとりたいかを決定する概念的な操作です。:プロセッサー

vi = 動詞と名詞の接頭辞「分、離、別、異、反」。動詞と一緒で「強調」を意味します。

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目に見える世界cakkhu loka)の動きについて

(chakku)を開けると、外界の色形(rūpa)が眼に入ります。そうすると「見えた」という瞬間的な認識「cakkhu-viññāṇa loka視覚の世界)」が生じます。

例えば、4人でケーキを食べるとします。皿の上のケーキに目を向けた瞬間が、ケーキの色形(rūpa)を(chakku)が捉えた(意識した= cakkhu-viññāṇa=視覚)瞬間で、これが「接触(passa)」です。この時点では、まだ色形をつかまえただけで、ケーキとは認識していません。Cakkhu·samphasso loka(視覚が接触した世界)です。

次に感覚器官が持つ感受作用vedanā)によって情報が神経伝達され、それが「ケーキだ」と知覚されます。もし、ケーキを見たのが初めての人がいれば、その人はもちろん「ケーキだ」と知覚しません。「Cakkhu·samphassajā vedanā loka(接触で生じた感覚の世界)」です。vitakka

この段階でのケーキは、全員一致の情報ありのままの事実)のケーキです。

瞬時に心の中で思考( saññā)が、過去の記憶と照合し「美味しかったケーキ」「甘すぎたケーキ」と判断を加えます。Rūpā·saññā loka(認識された世界)です。=vicāra

同時に vedanā によって精神的に感じる「不快中立」に振り分けて、sañcetanā(意思)が「大好きなケーキだから食べよう」、「苦手なケーキだから食べたくないな」と、反応を決定します。Rūpā·sañcetanā loka(光景に対する心の反応)です。

この段階でのケーキは、人それぞれ違った印象のケーキです。

このようにして、1つの同じケーキを見たはずなのに、瞬時に人数分の違ったケーキがそれぞれの心にできあがるのです。Aさんは「美味しいケーキ」、Bさんは「甘すぎるケーキ」、Cさんは「美味しいけど、値段ほどではない」、Dさんは「食べたことがないからわからない」と。

何を考えるか」は人によって違うので、それぞれが勝手に都合よく合成して現象化したケーキであって、事実ではありません。このようにして、外のものが目に触れた瞬間に、心の中に「妄想」が現れてくるのです。

これを「私の知識」と思い込み、さらに「私の知識は正しい」と誤解するのです。これが「avijjā(無智)」です。

そして自分と同じ意見であれば、心地よく感じ、自分と反する意見であれば嫌悪感を感じます。自分の認識や判断は、しょせん人数分の1でしかなく、絶対視ししたり、重要視したり、執着したりするほどのものではありません。人が何を言おうとも、プロの意見であろうとも、それらはすべて各人の妄想に過ぎません。

さらに、このケーキについてどんな Rūpā·taṇhā loka(光景への渇望)が生じるかというと、

ケーキを食べたいのに食べてはいけない時
「あー、このケーキを食べて味覚を満足させたい」:肉体的快楽を求める渇望(kāmataṇhā)が生じて苦しみとなります。

ケーキを食べ終えても満足できない時
「このケーキをもっと食べたい」:存在して欲しいと求める渇望(bhavataṇhā)が生じて苦しみとなります。

嫌いなのにケーキを食べなければならない時
「このケーキは絶対食べたくない」:存在しないで欲しいと求める渇望(vibhavataṇhā)が生じて苦しみとなります。

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ブッダの超重要な教え快は欲望となり、不快は嫌悪となる。その反応が習慣となり、執着となります。Vedanāはさまざまな場面で心と身体に同時に現れます。心に思考が浮かぶ時には、必ず同時に身体に感覚と感情があります。つまり、vedanāを追うことで、身体・心・心の中の動きを同時に観察できるのです。

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