マハー・サティーパッターナ・スッタ 序文

このように私は聞きました。

(注:ブッダの教えは弟子たちの記憶を文字にしたものなので、すべての経典がこの言葉から始まります)

ある時期、ブッダは、クル国(インド北西部、ニューデリーの近く)のカンマーサッダンマという町に滞在していました。ある日ブッダは「修行者たちよ」と呼びかけ、修行者たちが「はい、尊師」と返事をすると、ブッダは次のように説き始めました。

序文 Uddesa

修行者たちよ。たった1つだけ道がある。それは人間を浄化し、悲しみや嘆きを克服し、 肉体的・精神的苦痛を終わらせて、正しい道を歩み、 ニッバーナ(涅槃・解脱)を達成するための唯一の道です。その道とは、4つのサティパッターナ気づきを確立すること)です。

では、この4つとは何なのか?

修行者はこの世の渇望と嫌悪を遠ざけ、自身の身体に意識を向けて、評価せずに、身体をただ観察し、この身体は単なる身体に過ぎない(私でもなく、私のものでもなく、自分でもなく、絶え間なく変化し続ける現象に過ぎない)ことを、完全に見抜き、常に気づいていることです。

修行者はこの世の渇望と嫌悪を遠ざけ、自身感覚に意識を向けて、評価せずに、感覚をただし、この感覚は単なる感覚に過ぎない(私の感覚でもなく、絶え間なく変化し続ける現象に過ぎない)ことを、完全に見抜き、常に気づいていることです。

修行者はこの世の渇望と嫌悪を遠ざけ、自身のに意識を向けて、評価せずに、心をただ観察し、この心は単なる心に過ぎない(私の心でもなく、絶え間なく変化し続ける現象に過ぎない)ことを、完全に見抜き、常に気づいていることです。

修行者はこの世の渇望と嫌悪を遠ざけ、自身心の中の動きに意識を向けて、評価せずに、心の中の動きをただ観察し、この心の中の動きは単なる心の中の動きに過ぎない(私の心の中の動きでもなく、絶え間なく変化し続ける現象に過ぎない)ことを、完全に見抜き、常に気づいていることです。

マハー・サティーパッターナ・スッタ 序文 了

解説

Idha, bhikkhave, bhikkhu kāye kāyānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā, vineyya loke abhijjhā-domanassaṃ. Vedanāsu vedanānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā, vineyya loke abhijjhā-domanassaṃ. Citte cittānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā, vineyya loke abhijjhā-domanassaṃ. Dhammesu dhammānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā, vineyya loke abhijjhā-domanassaṃ.

この文章は、第4章ダンマーヌパッサナー「4つの聖なる真理」の4つめ、「道の真理」の「正しい気づき」の解説と全く同じ文章です。

Katame cattāro 4つ ? Idha ここに , bhikkhave 比丘たちよ(呼び掛け) ,kāye 身体を kāyānupassī 身体を追って観察し viharati 生きる・考える・とどまる・従う ātāpī 熱心に sampajāno 無常を完全に理解し satimā 心に留めて, vineyya 取り除く loke 世界 abhijjhā-domanassaṃ 貪欲-不快.

Vedanāsu 感覚を vedanānupassī 感覚を追って観察し viharati 生きる・考える・とどまる・従う ātāpī 熱心に sampajāno 無常を完全に理解し satimā 心に留めて, vineyya 取り除く loke 世界 abhijjhā-domanassaṃ 貪欲-不快.

Citte 心を cittānupassī 心を追って観察し viharati 生きる・考える・とどまる・従う ātāpī 熱心に sampajāno 無常を完全に理解し satimā 心に留めて, vineyya 取り除く loke 世界 abhijjhā-domanassaṃ 貪欲-不快.

Dhammesu 心の中の動きを dhammānupassī 心の中の動きを追って観察し viharati 生きる・考える・とどまる・従う ātāpī 熱心に sampajāno 無常を完全に理解し satimā 心に留めて, vineyya 取り除く loke 世界 abhijjhā-domanassaṃ 貪欲-不快.

Satipaṭṭhāna
satipaṭṭhāna
は複合語ですが、sati+paṭṭhāna とする解釈と sati+upaṭṭhānaとする2種類の分析がありました。「sati気づきマインドフルネス」+「paṭṭhāna説明整えること記載する」or「upaṭṭhāna確立土台基礎築くこと」。

マハーサティパッターナ・スッタの中でブッダは、「sati paccupaṭhitā hoti」と21回、繰り返して説明しています。複合語 paccupaṭṭhitāpaṭi+upaṭhitā)には、upaṭṭānaという単語が明確に使用されているので、「sati+upaṭṭhāna気づきを確立すること」としました。ちなみに、パーリ語の専門家によるとsati+paṭṭhānasatippaṭṭhānaになるそうです。日本ヴィパッサナー瞑想協会でも Sati-upaṭṭhāna「気づきの確立」としています。

kāye
kaya:身体(body)

anupassī 形容詞 男性単数
anupassati の形容詞。kāyānupassī = kāyaanupaś
anuは接頭語で「起こる現象の変化を追う」という意味で使います。paśは語根で「観察する・認める・考える・認識する・体得する」という意味。「起こる現象の変化を追いながら観る」ことです。ここでは、身体・感覚・心・心の中の動きにおいて4回繰り返して、同じ言葉が出てきます。

anupassatiというその2つの言葉に「無常」の真理が含まれています。「全ての物事は一回きりで変わってしまう」「まったく同じ現象は二度と現れない」「全ての現象は二度と元には戻らず、絶えず消え去っていく」という自然の法則ダンマ)に気づいていなさい、「瞬間的に身体(または感覚・心・心の中の動き)に現れる現象に、意図的に意識を向け評価をせずに変化を観察することで、無常に気づいていなさい」ということです。そのためには集中力が必要です。ものごとの変化が、瞬間瞬間、起こるから、無常だからこそ、集中力が必要になるのです。

また、ブッダは別の経典「Ānāpānasati Sutta」で、身体と感覚の観察に関しては「まるで他者のもののように客観的に、ただ観察する」と言っています。

ātāpī 形容詞
熱心に。煩悩を炙って抑え、現れないようにすること。煩悩=妄想・捏造によって生まれる欲。全集中して身体の変化をサティで追っていくことで、煩悩が現れる隙を与えない状態。

ヴィパッサナー瞑想を実践し、常に気づいている状態であれば、新しいサンカーラは生まれません。その時、潜在意識下の古いサンカーラが浮かび上がり、それに反応しなければサンカーラ は滅して、心の汚濁が消えます=心の浄化。このことを「煩悩を炙って抑える」と解釈できるかもしれません。

Sampajanna
完全なる理解。完全に見抜くこと。マハー・サティーパッターナ・スッタに繰り返し出てくる大切なキーワードで、仏教用語では「正知」。心と物質の現象の全体を正しく理解すること。感覚レベルでの無常(アニッチャ)の性質を洞察することです。妄想している時に「いま妄想している」と気づくと、妄想が消えます。これが無常です。

abhijjhā-domanassaṃ
異常な欲と怒り(憂い・悲しみ)。食欲などは異常な欲には入りません。

Vedanāsu
vedanā:感覚(sensation)

Citte
citta:心(mind)

Dhammesu
dhamma:ものごと・現象・法則・真理など、広義の言葉です。時と場合によってどう訳すかが難しいところですが、「心に浮かぶ個人的な現象である、精神的な感覚(快・不快・中立)・感情・思考・想念」です。北伝仏教の解釈では「」で統一しています。英訳では、mental contents(精神的な内容)、mental qualities(精神的な特質)などとしているようです。日本ヴィパッサナー協会では、Vipassana Research Institute の英訳文から「contents of the mind心の中身」としていました。このサイトでは「心の中の動き」としました。

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