人はさまざまな足枷に束縛されて生きています。お金が欲しい、愛が欲しい、楽しく仕事がしたい、ご馳走を食べたい、健康でいたい、病気になりたくない、死にたくないなどの感情はすべて束縛です。この目的が思い通りにいかない時、落ち込んだり悩んだりするからです。
そして、ちょっと上手くいっている時には、傲慢になってしまう。なんてことのない当たり前の感情が、人を苦しみに束縛しているのです。
Sutta Piṭaka(スッタピタカ)によると、悟りの最終段階=涅槃に到達するために、捨てるべき10の束縛は次のものです。これらを放棄することで苦しみは完全に克服されます。
5つの障害(低位)orambhāgiyāni saṃyojanāni
低次の世界(欲界)への帰属意識
1.sakkāya-diṭṭhi 自己の意識
sat(存在する)+kāya(肉体)+diṭṭhi(見解)、自分という存在があるという認識です。
人間を肉体と精神の5つの集合体であることを理解して、その5つの集合体に過ぎないものが「私、自己、自分という個別の存在」であるという認識から離れること。生まれた時から、今日に至るまでの経験や知識、記憶の積み重ねが自己を形成しているに過ぎないことに気づくことです。
「Sabbāsava-sutta」でブッダは、束縛について次のように述べています。
「私とはいったい何なのだろうか? 私には自己がある。私には自己がない。
私が自己を認識するのは、自分自身によってである。私が自己はないと認識するのも、自分自身によってである。となると、私が自己を認識するのは、まさにないはずの自分自身によってである。
この私とする自己は、変わらずそこに存在すると思い込んでいる私の自己の認識に過ぎない」
この見解の歪みを見解の束縛としています。見解の束縛に縛られた無知な人は、苦しみやストレスから解放されないということです。
2 vicikicchā 疑い・迷い
疑うこと、ぐずぐず迷うこと。疑念や不確実性。特にブッダの覚醒や9つの超俗的な意識についての疑念。これが消えると、何の疑いもなくなり、迷わないので、結果もすぐに出ます。
3 sīlabbata-parāmasa こだわり
儀礼などの習慣への執着。こだわること。「私がやっているのが正しい、これでなければいけない」とこだわるのは、真理ではなく、自分が決めた習慣や決まりに自分が縛られていることです。
瞑想者にありがちなのこだわりは、断食です。断食はブッダが明確に否定していますが、「食べているようでは、本当の瞑想なんかできない」とこだわる人は多いのです。その心は「私は何日も断食できるからすごい。本物の瞑想者だ」という自尊心があるのです。
4 kāma-rāga=kāmacchanda 貪欲
渇望、欲望。必要以上に求める心。
5 vyāpāda=paṭigha 悪意・敵意
怒り恨み。憎しみ。嫌うこと、いかること。心にかなわない対象に対する憎悪。自分の心と違うものに対して怒り憎むこと
5つの障害(高位)uddhambhāgiyāni saṃyojanāni
高次の世界への帰属意識
6 rūpa-rāga 色貪
色界に対する欲望・執着。ジャーナで体験した色界に行きたい、色界の存在に生まれ変わりたいと思うこと
7 arūpa-rāga 無色貪
無色界に対する欲望・執着。ジャーナで無色界に行きたい、無色界の存在に生まれ変わりたいと思うこと
8 māna 慢心
おごりの心、自負心。他者と比較して思い上がること。他と比べて自らを過剰に評価して自我に捉われ固執し、功徳や悟りを備えていないのに、それらを修得していると思い込む状態
9 uddhacca 掉挙(じょうご)
興奮状態、落ち着きのない状態。心がたかぶり頭に血が上った状態です。心が一切動揺しない状態でなくてはなりません。
10 avijjā 無明
根本的な無知のことです。
アビダンマによる10の束縛
アビダンマ・ピタカの『ダンマ・サンガニ』(Dhs.1113-34)には、10個の束縛は次のものになっています。
肉体的な欲望(kāma-rāga)
怒り(paṭigha)
慢心(māna)
見解(diṭṭhi)
疑い(vicikicchā)
儀礼への執着(sīlabbata-parāmāsa)
存在への欲望(bhava-rāga)
嫉妬(issā)
貪欲(macchariya)
無知(avijjā)
在家のための8の束縛
スッタ・ピタカの「Potaliya-sutta(MN54)ポータリヤ・スッタ」では、在家修行者のために8つの束縛(五戒のうちの3つを含む)を挙げ、その放棄は「煩悩の断絶につながる(vohāra-samcchedāya saṃvattanti)」としています。
生命を破壊する(pāṇātipāto)
窃盗(adinnādānaṃ)
嘘をつくこと(musāvādo)
誹謗中傷(pisunā)
貪欲(giddhilobho)
嫌悪(nindāroso)
怒りと悪意 (kodhūpāyāso)
驕り(atimāno)
まとめ
人には自分で自分を縛るさまざまな枷が存在します。悟りの最終段階に到達した人は、10種類の束縛にとらわれません。心が完全に自由な状態です。覚者は、nāmaとrūpaに引っ掛かることはありません。
nāmaとは、名称であり精神的な働きのことです。生まれた瞬間から、学習・記憶によって物体に紐づけられるものです。自分が所属する世界でのみ通用する共通認識であり、概念です。生まれた時にはまっさらだった心が、年月と共に概念で埋め尽くされていきます。
rūpaとは、色であり物質的な働きのことです。私たちの共通認識では、自分の肉体は物質(固定した物体)で、自分の外側に存在する全てのものも物質です。この物質は、光に照らされることによって、人の目が認識可能になる色の概念であり、本当は物ではなくエネルギーの流れです。物質=それぞれの人が思い描く映像であり、それぞれの受け止め方によって大きく違うので、1つとして同じ映像はあり得ません。物質(映像)は瞬間瞬間に変化する、無常なもので、執着に値しません。
心にも物にも一切執着しないということは、何にも囚われない完全なる智恵を獲得したということです。苦しみを完全に乗り越えるためには、無常なる存在の全てに対して(nāmaとrūpa)執着を捨てなくてはならないのです。
悟りの最終段階に至るまでに、10の束縛をどれだけ克服したかで、悟りの段階が4段階あります。詳細はこちら
以上です。