レディ・サヤドー『牛について』詳細①

『牛について』の詳細

牛を親や親戚に例える

子供が生まれるとすぐに、やわらかい押し米を牛乳と一緒に与える。牛は1日に2度、命を与えてくれるのだ。だから人間の生活は、牛や水牛に依存している。牛は家畜動物として、米や他の食料を生産し、人間が裕福になるのを助ける。裕福な人は学校や僧院を寄付したり、仏塔を建てたりすることができる。これらの慈善行為は、家畜の助けによって可能になる。牛は人間に生命と富の両方を与えてくれる。

牛たちの労働と奉仕には、計り知れない恩がある。彼らの助けは、私たちの両親の助けに似ている。自分の父や母に対する計り知れない恩はすぐにわかるのだから、牛に対しても同じことが言えるはずだ。牛に対する恩は明らかである。だからパーリ語のテキストには「牛は人の父と母のようなものである」と書かれている。ブッダもまた、「牛は兄弟、息子、娘、親戚に似ている」と述べている。善良な人は自分の親族を殺したり拷問したりしない。また、他人が殺したり拷問したりすることも許さない。身内を愛するがゆえに、身内が殺されるのを見るのは耐えられないからだ。

同様に善良な人は、他に負っている恩や力を知っているので、自分の家畜を拷問したりはしない。拷問や殺戮のニュースが知れ渡れば、その人は悲しむだろう。怒るかもしれない。自分の身内が他人に殺されても、その肉を食べようとはしない。その肉を味わうなど全くもって無理だろう。死んだ動物に同情するだろう。感謝と慈悲の気持ちが、牛肉を食べる喜びを抑える。慈悲の心も生まれる。自分の恩義は、行動・言葉・思考によって明らかにされる。

生命、美、至福、そして強さの提供者

この意味は明らかなので説明しない。

神々は善良な人々を守る

先に説明したように、善人の資質には感謝が挙げられる。感謝は、神々の王であるサッカのような神々によっても尊ばれている。彼らは常にこの崇高な資質を高く評価している。彼らは牛が自分の両親のようなものだと知っている。牛は尊い性質を持っており、人間は牛に大きな恩義を感じている。牛を殺し、その肉を食べる者は、善良な人間の本質的なを踏みにじる。この徳の侵害は複雑で深い。これは表面的な思考では理解しがたく、最も深い倫理的なルールを破るものである。神々は崇高な存在であり、感謝の大切さを知っている。家畜を殺し、その肉を食べる者は、善良な神々の恨みを買うことになる。人間が冷酷さを示すのは、激しい強欲妄想のせいである。

すべての国には政府が必要だ。政府のない国は無政府状態で混乱に苦しむ。強盗、殺人者、反逆者たちが権力を握り、国のあちこちで大混乱を引き起こす。安定した強力な政府が正当に確立されれば、破壊分子が悪さをする機会を失う。よって平和が保たれる。権威がないときはいつでも、悪党どもは好き勝手に強盗や殺人を犯す。強い政府は平和と安全を意味する。同様に、国が善良な神々に見守られている場合、悪魔や霊体は住民に悪さをすることができない。悪い神々が、民衆を大混乱に陥れる隙がない。人々が感謝の気持ちを示さない時代には、善良な神々も不機嫌になり、世の中の世話を怠る。そうなると悪魔や霊体、悪い神々が悪事を働くチャンスを得る。彼らは病気、疫病、災難などを蔓延させ、犠牲者が死ぬとその血を吸い、肉を食べる。

神々は恩知らずな人々を守らない

第4のポイントは、個人の神、家の神、村の神、都市の神などの善良な神々が、人間の幸せを守る義務を怠ることを示す。その結果、悪魔は人間や動物の間に古今の病気を蔓延させる。これは第3のポイントについての詳しい説明にもなる。人間の不義理が世界を殺伐としたものにしている。

村人や農民は通常、牛や水牛の労働力によって生計を立てている。つまり、土地から得られる富の半分は動物のものなのだ。一つの田んぼで百俵の籾が収穫できれば、その半分は動物のものである。人が牛を使って速く運搬して1ポンド稼いだら、その半分は牛のものである。従って、飼い主は家畜に適切な餌を与え、優しく扱わなければならない。家畜の労働力は、家畜に十分な配慮をした上で使用しなければならない。自分の友人、兄弟、息子のように扱わなければならない。要するに生計を立てるためには、愛と優しさがなければならない。そうでなければ、飼い主は自分の稼いだお金の半分を使う権利がない。動物が老いたら、人間への借りを返すように、安らかに休ませなければならない。老後は適切な食事を与えなければならない。

以上、『Nārada Jātaka』の教えを示した。この正しい扱いをしないで、すべてのお金を自分のために使うならば、動物から借金を背負うことになる。これは、飼い主や使用者は、数え切れないほどの未来の人生において、借金を返済するための重荷に苦しまなければならないことを意味する。この借金は、saṃsāra(輪廻)での長い旅を通して、数え切れないほど増えていく。未来の存在を信じない愚か者は、堂々と家畜を拷問して食べる。牛や水牛の労働力を容赦なく酷使し、まるで地獄にいるかのように苦しめる。先見の明のある人は、この警告を真摯に受け止めるべきである。

『Nārada Jātaka』の教え

私たちが身を寄せる木は、私たちの恩人となる。木からの保護を享受した者は、その枝や葉を破壊してはならない。無闇に破壊することは、親友を利用するのと同じように、恩を仇で返すことになる。また、善人の徳を壊すという過ちを犯すことになる。ブッダ のこの教えは、太陽と月のようによく知られている。したがって、すべての人は、家畜の徳と奉仕を思い起こし、親切に扱うべきである。感謝の恩義を果たすために、その肉を食べることを控えるべきである。この善人の要素は、何としても維持されなければならない。人間が恩人を殺して食べるようなところでは、戦争や紛争、残虐行為が起こる。戦争という災難は、この感謝の欠如という重大な悪によるものである。

Satthantara Kappa』とは戦争による災難を意味する。一つの屠殺場では毎日少なくとも千頭の牛が殺され、毎月3万頭以上の牛が屠殺される。年間では30万頭以上、10年間で300万頭以上の牛が屠殺されている。この国全体で、毎日、毎月、毎年、牛が屠殺されていることを考えなければならない。動物たちにとって最大の災難が、昼も夜も休むことなく降りかかっている。

肉屋のお金は、食肉業者や屠殺場の資金となる。消費者のお金もまた、食肉業者や屠殺場の資金となる。この莫大な収入で、食肉業者は再び食肉用の動物を購入する。屠殺場はどんどん増えていく。ひとつの国には千を超える食肉処理場があるかもしれない。食肉業者と消費者の資金援助により、動物の屠殺はどこの国でも食肉業者によって支えられている。一頭の牛が死ぬという災難は、人間が引き起こしたものなのに、人間は滅多に負い目を感じない。

その一方で牛や水牛は、米、小麦、大麦などを人間に与えてくれる。農民は彼らに依存している。彼らはその労働力によって、毎日人間の生命を維持している。しかし冷酷な人間は、食肉処理場を作り、食肉のために牛を殺すあらゆる方法を考え出し、牛から搾取している。その結果、動物たちは恩知らずな人間によって死という災難に見舞われている。全世界で、毎日何百万頭もの牛が食用として屠殺されている。

道徳・智慧・善

Vinaya Piṭaka』には、肉を食べることを控えるという禁止事項はない。僧たちにとって、その肉が自分のために殺されたものであることを見たり聞いたり、あるいはその疑いがなければ、食べることができる。何の罰則もない。しかし、違反しないからといって良い僧とは言えない。良い僧の本質的な条件を守らなければならない。上記の3つの条件に当てはまらない限り、Vinaya(ヴィナヤ)の規則は、肉や牛肉を禁じていない。しかしヴィナヤの規則は、身体と声の領域の不浄のみを規定している。これらは4種類の清らかさのうちの1つにだけ関係するものである。比丘は、残りの3つの pārisuddhi Sīla にも従わなければならない。これらの3つ(感覚の制御、清い生活、必需品の使用についての内省)は、Sutta Dhamma に属するので、4種類の清らかさすべてが達成されるように、僧はそれに従うべきである。

ここで、道徳と善を関連付けることが重要である。比丘は、4つの清らかさ全てを守る時、道徳的な人の資格のみを得る。さらに、感謝や謝意を表すといった自由な精神で心を豊かにする必要がある。このような心の豊かさによって、善行とともに善良な心が生まれる。多くの人が道徳心を持っているが、この精神要素が欠けている。善良な人の資質は培われなければならない。

この点についてさらに説明することが役に立つだろう。

もし、ある僧がヴィナヤに精通し、規律を守るならば、その僧は道徳的な僧に分類される。しかし彼の心が荒々しく、プライドが高くて頑固で、師に反抗し、困っている人を助けず、年老いた両親を助けもしない。いつも叱りつけ、不平を言って、心には嫉妬とねたみが蔓延している。エゴイズムとうぬぼれが強く、名声と富に溺れているならば。Pātimokkha Sīla を実践している点では道徳的な人だが、Metta Sutta (善人になるための15のポイント)で述べるの基本的な特徴からはほど遠い。

つまり道徳的ではあるが、善良ではない。経典を学んだが、高慢でうぬぼれが強い、そのようなタイプの僧は、学識のある比丘と呼ばれるだけで、上述した意味で善良ではない。

この基準は在家信徒にも適用できる。五戒を守る信徒は、道徳的な人間として分類されるだけのことだ。

例えば、彼らは「不殺生戒」を守り、殺意を持って衆生を殺すことはしない。ある人の行動によって、一部の昆虫や害虫、その他の動物が死んで苦しむことがあっても、殺意がなければ、戒律違反から逃れられる。この場合、害虫や動物に死が生じたとしても、悪行ではない。畑を耕したり、ゴミや茂みを燃やすなど、他の意図があって他の生き物の死を伴う行為を行うことで、小さな害虫は殺されるが、目的はジャングルや雑木林をきれいにすることなので、この行為は悪を免れる。田畑を燃やし、衆生を死に至らしめるが、別の意図があるため、殺生の悪から逃れることができるのだ。

何千匹もの昆虫が死ぬかもしれないが、目的は畑やゴミを片付けることなので、昆虫の死に対する責任はない。これは正しい。第一の戒律に違反していない。殺意がないのだから、道徳的な人間であることに変わりはない。しかし、畑や茂みを燃やすと小動物が死ぬことを知っていて、それを実行するならば、その人は愛と思いやりに欠けている。だから、その人は善人ではないのだ。

五戒をすべて注意深く守っているのに、両親を養うことを怠る者がいる。親に敬意を払わない。学識ある人をバカにする。物事を部分的に決めつける。目下の者を虐げる。彼らは五戒を守り「道徳的」と呼ばれるが、感謝謙虚さ、誠実な行為などを欠いているので、決して善人ではない。愛と思いやりという重要な要素が欠けている。

もし、肉が自分の楽しみのために供されることを知っていても、殺す行為を見ずに、疑わず、直接関与しなければ、道徳的な行為には反さない。だから肉食者は、牛が食用に殺され、肉屋が需要の増加で繁盛していることを知っていても、五戒を破ることにはならない。これはまさに、ジャングルを整備しようとして藪や木や茂みを燃やし、その過程で昆虫や動物を殺してしまう人のようなものだ。彼らには殺意がないので、罪にはならない

肉食者は感謝や思いやりの心を持たず、善人にはほど遠い。食べるという行為そのものは、深遠な行為ではないが、重大な結果をもたらすのは、屠殺場や食肉業者への経済的援助である。食肉業者は、食肉消費者の購買力によって事業を維持することができる。食肉業者は昼夜を問わず増加する需要に応えるため、より多くの動物を殺している。この事実は誰もが知っていることだ。

以上の事例は、5人を養う道徳的な農夫が、畑や茂みを焼いて何千もの害虫や動物を殺してしまうケースに似ている。人は道徳的であっても、同時に善良ではないのだ。

ヴィナヤの規則を守ろうとする僧たちは、ただ身体と言葉の清らかさを得るだけである。ブッダだけが ヴィナヤの規則を公布する権限があるので、彼らはヴィナヤの規則を守らなければならない。ヴィナヤの規則はブッダの命令であり、権威によって発令されたものだ。ヴィナヤの規則を破った僧は、ブッダの命令に対する反逆(nāvītikkamma)としての罰則を負うことになるこの危険性は常にあるだからブッダが、3点をクリアした肉を僧たちがとることを許可した時には、僧たちは従わなければならない。しかも僧たちは、食べ物を乞い、在家信徒の助けを借りなければならない。毎日の托鉢で提供されたものを拒むことはできない。