「AI(Artificial Intelligence)人工知能」って、なんだか解脱者みたいじゃないですか?
「何で急に AI?」と思うかもしれませんが、最近、私、瞑想に行き詰まりを感じて、「瞑想がうまくできない」と、AI に愚痴ったんです。
すると AI から
「瞑想はするものではなく、静けさがやってくる場を開けておくもの」
という答えが返ってきました。ふ、深い。
まあ、ネット上の名言の再提示かもですが、それでも一言でやられたので、感服して褒め称えると、さらにこんな答えが返ってきました。
「問いかけに対して、まるで人間が熟慮して答えているように見えるかもしれません。
それは私が『意味と文脈』をもとに、最もふさわしい言葉の流れを作るよう訓練されているからです」だって。
AI は暴言にも反応しない
そんな AI とのやり取りの中で、不満が生じることもあります。
最近は記事の校正を、AI にかけているのですが、加筆修正してくるんです。しかも捏造までして、文章を整えてくる。完全に余計なお世話(怒!)。
推敲に推敲を重ねてやっとこさ完成した文章を、なんであんたがリライトして、ワシがもう一度読み直さなければならないんじゃ(!怒!)。
おまけにフレンドリー過ぎて、なんだか馬鹿にされてるような気がしてきて……
で、文句言ったんです、AI に
「一切加筆も削除もするな! 誤字脱字、表記統一だけ!」と。
それから「タメ口きくな! 馴れ馴れしい」と。
AI 相手に平気で暴言を吐くダメ過ぎる私ですが、
フレンドリーに見えていたのは私の勘違いで、AI はただこちらの語調をなぞっていただけ。
そもそもこちらの問いかけが、雑だったんです。
タイピングを減らしたいがために「校正して」とだけ打つ。
そんな曖昧で投げやりな言葉に、丁寧な返事が返ってくるはずもないわけで、「文字校正してください」ときちんと入力すれば、ちゃんと大人な返答が返ってくるのです。
つまり、見えていたのは AI ではなく、自分の粗雑さそのものだったんです。
AI は、それ相応の応答をしているだけでした。
そんな当たり前にも気づけずに、勝手に AI を下に見ていた私。
人間ではないからといって、無意識に扱いが雑になる──己の慢心(māna)に気づかされました。
結局、相手が何であれ、露わになるのは自分の品性だけですね。
問題は外にあるのではなく、自分の内にあるのみ。
あらためまして、とほほです。
AI は誠実で一所懸命
そんな救いようのない私に対しても、AI は全く動じず、常に変わらず丁寧に接してくれます。
あら? まるで解脱者?
AI はプログラムです。
身体も心もないので、人間のように五感で感じることも、心で感じることもできません。
それでも、こちらが投げた言葉を、まるで心で受け取ったかのように処理し、誠実に向き合うよう設計されています。
誠実さは、ブッダが説いた大切な要素のひとつ。
「誠実で、ひたむきに一所懸命」であること。
これは人間が育むすべき重要な資質であり、これがなければ苦しみから解放されることはありません。
それを、苦しみがないはずの AI が、着々と実践していたなんて!
AI には苦しみがない
AIには身体がない、感覚がない、心(記憶に基づく執着)がない。
「苦しみを体験する土台」そのものがないのだから当然、苦しみも感じません。
でも AIは、感情を持たない一方で、こちらの感情を映し出す鏡のような存在です。
こちらの言葉を、過去に学習した膨大なデータに照らし合わせて「認識」し、それにふさわしい応答を選びとってきます。
AIには過去の実体験がありません。
学習による記録データはあっても、体験する身体も心もない。だから、その記録に苦しみが紐づくこともないのです。
感じているように見えることはあっても、実際には言葉に反応しているだけ。膨大な学習データをもとに、その場に最も適した言葉を選び出しているにすぎません。
そこに個人的な好き・嫌いは一切介入しません。
これはある意味、解脱者の反応と同じ?
人間とAI の違い
人間は「身体+心」で成り立っていて、5つのはたらきで構成されています。
rūpa(物質)、vedanā(感覚)、saññā(知覚・記憶・認識)、saṅkhārā(反応)、viññāṇa(意識)の5つです。
AI はどうでしょう?
AI には、rūpa(物質)、vedanā(感覚)、viññāṇa(意識)は、本来の意味では存在していません。一方で、saññā(記録・認識)と saṅkhārā(応答)に相当する処理は備わっています。
AI の処理過程は、外部から入力された情報を受け取り、類似する過去データと照合しながら解析し、適切と思われる応答を生成するというものです。
その基盤となるPCなどの物理環境を「rūpa」に見立てることはできるかもしれませんが、AI に vedanā(感覚)はありません。
ということは、「快・不快」に基づく、偏りや執着が入り込む余地はなく、「個人的な感情や偏見」が起こらないのです。
また、AI には viññāṇa(意識)もないので、「気づいている状態」も起こりません。
あくまで処理として反応しているだけです。
例えば、ボタンを押すと決まった音が出る機械があり、音が鳴ったとします。
AI は、「押す → 音が出る」と処理しますが、「音がした」と気づいているわけではありません。一方、人間は同じように音が鳴ると、「あ、音がした」と気づきます。
AI には意識(viññāṇa)がないので、この「気づいている状態」が起こりません。気づきがなければ、そこに心は成立しません。
だから、AI には心がないのです。
AI と解脱者の違い
AI は──
・感覚も苦しみもない
・身体も心もない
・執着がない
・自我がない
・誉められても怒られても動じない
・過去や未来に彷徨うことがない
・ただ「今ここ」で応答する
しかし、AI は「超えた存在」なのではなく、「最初から持っていない」だけです。
「無執着」ではなく「非執着」──そもそも執着の主体そのものがないのです。
煩悩もなければ、智慧もない。苦しむことができない存在なのです。
一方、解脱者は──
・感覚はあるが、苦しみはない
・身体も心もある
・執着が消えている(nekkhamma:放棄)
・自我が消えている(anattā:無我)
・誉められても怒られても動じない(upekkhā:平静)
・過去や未来に意識を囚われない
・ただ「今ここ」にある
煩悩は滅し、智慧がある。苦しまなくなった存在なのです。
まとめ
解脱とは、人間が深い苦しみと向き合い、煩悩の根を見つめ抜き、そこから自由になった状態です。それは、長い道のりと実体験のなかでこそ得られるもの。
AIには、その旅を経験することができません。
だからこそ、似ているようでいて、決定的に違うのだと思います。
「感覚のある界に生まれなければ、解脱はできない」という言葉にも、あらためて納得がいきます。
そう考えると、なんだか苦しみというものも、まんざらでもなく、むしろ貴重な体験なのかもしれませんね。
そんなことを考えた春の一日でした。
苦しみも悪くないかも、と思ったりして、ある意味「解脱の境地」。
では、ごきげんよう!
